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Metabolism

日本から多大な影響を発信した建築運動

  • 文: Gianluigi Ricuperati

今度、あなたが音楽に包まれながら携帯に夢中になって街を歩いているとき、ちょっとだけ立ち止まって、周囲の巨大建造物をよく見て欲しい。おそらく、生物を連想させる形状、あたかも工業資材で作られた大規模な内臓のごとき建物に気付くだろう。あなたが目にしているのは、輝かしい日本建築家集団「メタボリスト」が現代に及ぼした濃厚な影響だ。1950年代後半から1970年代にかけて活躍したメタボリスト グループは、生物学的なプロセス、 急進的な政治理論、コミュニティ的ユートピア的未来観に基づいて、強烈な印象を与える非凡な美学を創造した。その理論と実践は、現代の設計者の都市環境に関する思考を根本的に変化させたと同時に、第二次大戦後の日本における創造コミュニティに活力をもたらした。建築評論家ジャック・セルフ(Jack Self)は、次のように著述している。「メタボリストとは、建築という手段でこのような変容の実現を目指した建築家たちである。メタボリストが明示したアイデアリズムは、彼らに『アバンギャルド』のステータスを与えたが、一方で、単純で楽天主義とみなす批評もあった」

メタボリズム運動の創始者のひとりである丹下健三は、菊竹清訓、黒川紀章、槇文彦とメタボリズム宣言を作成し、1960年に東京で開催された世界デザイン会議で発表した。その後、異なる分野の理論家や当時まだ学生だった者も含め、多数の思想家や設計者がメタボリズム理念の発展に貢献し、ついには世界の耳目を集め、建築の可能性に対する斬新な視点が広まるに至った。メタボリストを賞賛したレム・コールハース(Rem Koolhaas)はハンス・ウルリッヒ・オブリスト(Hans-Ulrich Obrist)と共同で膨大な数の研究論文を収集し、「プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る...」と題して2011年に公開した。6年以上の年月をかけてまとめられた同書は、 生存しているメンバーに行なった新しいインタビューや未発表写真を含め、メタボリストたちの影響と遺産を詳述するクロニクルである。

メタボリストのメンバーが実現した建築は比較的少ないが、いずれも世界に衝撃を与えた。特筆に価するのは、メタボリズムが、いちばん遠隔で接近が困難な場所、すなわち、未来世代の嗜好や理想の潜在意識に影響を与えたということだ。メタボリズム宣言からもっとも頻繁に引用される文章をミレニアル世代の都市生活者に見せたら、地球上のどこで暮らしていようと、必ず深い共感を呼び起こすだろう。曰く「われわれは、人間社会を、原子から大星雲にいたる宇宙の生成発展する一過程と考えているが、とくにメタボリズム(新陳代謝)という生物学上の用語を用いるのは、デザインや技術を、人間の生命力の外延と考えるからに他ならない」

黒川紀章 中銀カプセル タワー 東京 1970~72年 (写真:Bertrand Benoit)

中銀カプセル タワーは、もっとも顕著なメタボリスト建築である。空中に出現した垂直な潜水艦は、建物の内部からも外部からも、果てしなく撮影され続けている。独特な窓が世界の建築家や設計者によって模倣されている事実は、いまだに私たちが若干いかれた月時代の白昼夢に生きていることを自覚させる。

栄久庵憲司 かぼちゃ住居 1964年
(出典:archeyes.com)

栄久庵憲司がある夫婦のために設計した住居プロジェクト。メタボリズム運動の魅力的なメンバーであった栄久庵は、広島の爆撃で父と妹を失くした。「モノのクリエイター」として工業デザインでも活躍し、もっとも有名な作品であるキッコーマン醤油卓上びんは、小さいながら世界中で何百万もの食卓に鎮座する名作である。

丹下健三 広島平和記念資料館 1954年(出典:ArchDaily)

人類初の原子爆弾は、まさにこの資料館の上空600メートルで爆発した。メタボリズム運動の父であり戦後モダニズムの立役者であった丹下健三の、もっとも偉大な業績のひとつである。

菊竹清訓 都城市民会館 宮崎県 1966年 (写真:新建築社)

メタボリズム創始者のひとりが誕生させた壮麗な放射状の形状は、同時に、発展し続ける形状、空間の遊び、先史時代恐竜トリケラトプスのフォルムを想起させる空想的な驚嘆、そのすべてだ。メタボリズムを語るとき、ひとつの質問を発せざるを得ない。「規模(スケール)とは何か?」答えは都城市民会館が与えてくれる。すなわち、規模とは都市認識におけるもっとも重要な特性であり、人体と建築空間の関係の中心にある容積がおりなす舞踏のようなものである。モンスターの足許に慎ましく駐車した車が、謙虚に同意しているごとく。

菊竹清訓 海上都市 1963年
(提供:菊竹清訓)

メタボリズム宣言の根幹を成す章のひとつに、陸と海の統合を模索した「海上都市(Ocean City)」がある。そこに記述されたアイデアを具体化したのが、菊竹清訓の海上都市(Marine City)である。このプロジェクトは、当時はまだ未来のものであったテクノロジーによってその後実現された数多くの海上建造物、人工島、その他の業績の青写真となった。

槇文彦 岩崎美術館 1978~87年 (出典:tumblr)

美術館や記念館は、往々にして、大胆に挑戦する建築家に自由な表現を許すプレイグラウンドだ。メタボリスト宣言に名を連ねた槇文彦がおよそ20年後に設計したこの美術館も、例外ではない。

丹下健三 フジテレビ本社 東京  1997年
(出典:theredlist.com)

メタボリズム派のリーダーであった丹下健三は、現代と未来の生活に向けた可能性のひとつとして、メガストラクチャーを好んだ。アシンメトリな堅固性と半ば隠れた球形で構成されたフジテレビ本社は、丹下の理想の完璧な体現、肩に惑星が彫り込まれた未来の巨人である。

磯崎新 群馬県立近代美術館
1974年
(出典:archdaily.com)

磯崎新は、メタボリストが初めて大きな躍進を遂げたとき、世界各地の都市で展示したプロジェクトによって、メタボリズム理念の理解を促進した功績が広く知られている。立方体の幾何学とアルミニウム面が三次元のポスト・イットを思わせる群馬県立近代美術館は、現在なお、磯崎新のもっとも素晴らしい業績のひとつに数えられる。

菊竹清訓 ホテル東光園 鳥取県米子 1964年 (出典:elledecore.it)

鳥取県米子に建築されたこのホテルは、メタボリズム史上、もっとも揺るぎない成果のひとつである。20世紀の重要な建築運動「ブルータリズム」の特色である打放しコンクリートを大幅に織り込んでいるが、日本古来の建築の伝統も踏襲している。

  • 文: Gianluigi Ricuperati