シラフで
踊れ
モノの消費と肉体の消費が交わるとき
- 文: Arshy Azizi

あるとき、「水を飲むのはとても重要だと思うわ」とヴィクトリア・ベッカム(Victoria Beckham)が持論を述べたことがあった。パリス・ヒルトン(Paris Hilton)はそれに同意すると、すかさず「マッサージもそうね」と述べた。歴史的に見て、セルフケアの優先順位が高いことを自慢せずにおれない風潮は、セレブリティ信仰の高まりと共に広まってきた。それが行き過ぎると、ケイティ・ペリー(Katy Perry)やシェール(Cher)がフェイスマスクをつけたまま無分別に表を歩くような、ある種、不穏な露出癖になってしまうのだが。ところが最近、そのセルフケアがセレブ カルチャーから離れ、完全に自己充足的な産業へと姿を変えている。 今日、セルフケアの様々なセクターがひとつに集まれば、簡単に、巨大なIKEA的なデパートになりうるだろう。その棚には、マインドフルネスのようなシンプルな日用必需品から、ヴィンヤサ フロー ヨガ、認知行動療法、横隔膜呼吸といったラグジュアリー アイテムまでが並ぶはずだ。だが、これらのセクター全てに浸透しているヘルシーな生活は、見た目に健康的であるだけでなく、実際にそれを実感することを必要条件として求めるようになってきている。いわば、新たな時代のコンシューマリズムを反映した、上品なタイプの節制生活への転換であることは疑いない。ゴージャスな見た目なら不健康な生活を送っているはず、という古いトレードオフの崩壊が、草の根レベルで起きているのだ。
「酔いをさますことは、ドレスダウンするという意味ではないの」と、ニューヨークで始まった定期的なノンアルコールのパーティーの共同創設者、ルビー・ウェリントン(Ruby Wellington)は言う。彼女は、真昼のランチに彫刻的なフォルムのHelmut Langのブレザーを着ていた。最終的に、会話はノンアルコールのモヒートについての彼女個人の哲学へと広がった。ウェリントンが考えるように、自分の魂を信頼しようとすると、何らかの形で虚栄心を受け入れる必要があるのだ。彼女が提案するのは、ハイファッションと快楽主義とのつながり、より正確には過剰消費とのつながりを切り離すことだ。冗談交じりでClub SÖDA (Sober or Debating Abstinence - シラフであること、あるいは節制について議論すること)と名付けられたウェリントンの一連のイベントは、世界中の都市に根付きつつある、数々のノンアルコール パーティーのひとつだ。このロサンゼルス版の活動にThe ShineやSofter Imageがあり、これらも「非人工的なエクスタシー」という同様のビジョンを掲げている。シラフであることはある程度の抑制と同義であったはずだが、世界中のパーティー好きの若者が絶対禁酒を受け入れ、そのステレオタイプを覆している。
とはいえ、帰属意識の探求は、特にミレニアル世代の間では、別段新しいことではない。Softer Image創設者のルーク・ サイモン(Luke Simon)によると、「ウェルネスが人々に居場所を与えた」のだ。盲目的にイデオロギーやライフスタイルに繫がろうとする動きが、あの2016年11月の世界滅亡の日以降、絶え間なく表面化している。実際、大統領選挙後の数日間、「セルフケア」というワードが検索上位に挙がっていた。フィルタリングせずに採取された未処理の水9.5リットル入りのボトルが37ドルで販売される「ローウォーター」のような憂慮すべきトレンドまであり、これは、何らかの形での文化的な現実逃避を、人々が探し求めていることを反映している。サイモンが言うような居場所を政治的志向と捉えることは可能だが、実際は、もっとファッション的なものだ。ブルックリンで開催され、2500人が参加するDaybreakerという朝のパーティーでは、ダンスフロアの横でヨガのレッスンが開催され、Off-Whiteのウェストポーチを身につけたガバ ファッションの若者たちがレイブで踊り、仕事用スーツに身を包む人がフラフープをしている。Miu Miuのヒールがコツコツと音を立て、それがモノクロのジャンプスーツを着て仮面をつけたパントマイム集団の振るケミカルライト スティックとシンクロする。確かにカーニバルのようなカコフォニーではあるが、それはまた、他の何よりも思い出深く魅惑的なナイトライフが勢ぞろいしたようでもある。ここでは、アンフェタミンでハイになったような見た目は、必ずしも実際に薬でハイになっていることも意味しない。
酔いをさますことは、ドレスダウンするという意味ではない
アスリージャー、あるいは同様のヘルスゴスの全盛期はもはや過ぎ去った。昔カーダシアンが支持していたようなカラバサスのスタイル専門のInstagramファンページ周りには、アスリージャーが今も残っているが。そしてヘルスゴスは、北西部のトランスヒューマニズム的なイデオロギーによるファッションというより、以前からヨーロッパの都市では日常的に見られるものだった。ミラノの通りを歩いていると、ヘルスゴスがあらゆる年代の人の定番であることに気づく。彼らは、トレンドなどあまり気にしておらず、カクテルパーティーであれ、葬儀であれ、どんなイベントでもきちんとした服装で出かけることには興味がなさそうな人たちだ。だが、新時代のコンシューマリズムは、服に対して完全に異なるアプローチを行う。それが提案するのは更生の精神である。つまり、私たちの健康はイメージ次第、おそらくはもっと過激で、退廃も健全でありうるというものだ。
これは、消費におけるコペルニクス的転回である。そしてこれを支えるのはテクノロジーだ。テクノロジーのおかげで巨大ブランドは新たな消費者の要求に応えることができるのだ。昨年末には、GucciのCEOマルコ・ビッザーリ(Marco Bizzarri)が毛皮を完全に廃止に向けた計画を発表し、世界最大のたばこメーカーPhilip Morrisは、顧客の喫煙を支援する意図があると発表した。Gucciの取り組みは合成毛皮の進歩によるものだ。要は、合成素材だと異なるパターンやカラーをより簡単に試すことができるのだ。Philip Morrisにとって経済的な自殺行為に見えることも、実際は、企業の関心がイノベーションにシフトしていることを表している。巨大たばこメーカーは数十億ドルを燃焼させない加熱式たばこの技術に投資して、水とマッサージが大好きな例のパリス・ヒルトンも持ち歩いているような、ますます人気が高まるデザイン豊富なペン型のvapeに対抗しようとしている。
私たちの健康はイメージ次第、おそらくは、退廃も健全でありうる
額縁通りに受け取れば、GucciとPhilip Morrisのマーケティング戦略は、企業のレガシーを大々的にひっくり返すことを意味する。毛皮は明らかに、ステータスを表す最も明確なファッションの記号である。だがビッザーリは、毛皮が「ちょっと時代遅れ」だと認める。Stella McCartneyやCalvin Kleinを始めとするブランドが、数年前に行動を起こしたのと同じ認識だ。これらの決定を利他的行為と見ることもできるかもしれないが、カルチャー産業が、適者生存の世界で自らの利益を追求し、新たな消費者の好みを満たそうと奮闘している点は否定できない。Gucciで買い物する人の半数はミレニアル世代であり、これと同じ層が、ここ10年で40% 増加した節酒の傾向にも一役買っている。ビッザーリが「(本物の毛皮に替わる)代替品はラグジュアリーだ」と断言するとき、彼は単に素材について言っているのではない。利益率の高い儲けを示唆しているのだ。
ラグジュアリーが意識の高いコンシューマリズムの世界に忍び込むにつれ、ラグジュアリーが意識の高いコンシューマリズムの世界に忍び込むにつれ、自らの正当性を主張するために、ラグジュアリーは、近代性は私たちが互いに繋がれないように働いている問題にも目を向けるようになっている。Daybreakerの共同創設者ラダ・アグラワル(Radha Agrawal)の目には、世界は繫がりを渇望しているように映る。「私たちはスクリーンとドラッグの影に隠れているの」と彼女は悲しげに話す。つまり、私たちのテクノロジー中毒は薬物中毒以上に強力なのだ。Daybreakerなどのパーティーがやろうとしているのは、共感という有機的構造を再び燃え上がらせることだ。かつては、その顧客層の服装から、人間的な温もりとはほど遠く見えていた人たちによる高潔な試みである。彼らの最近のイベントに参加したときに目を引いたのが、昼の真っ只中に、Manolo Blahnikを履き、首はローズクォーツのクリスタルで覆われ、手には ヘンプ プロテインのドリンクを持って踊る人だった。彼女が支持しているのは、新たなコンシューマリズムの持つ、洗練された心地よさというアイデンティティーである。これはかつて、あらゆるラグジュアリーが、クソ真面目でつまらないとして否定していたものだ。
一部の人たちには、この種のライフスタイルは、青春時代のロマン主義的感覚を否定するものに映る。だが懐疑論者は、新たなコンシューマリズムが、人間の性質のディオニソス的側面に対する理解の仕方、さらにはその受け入れ方を再定義している点を、見落としている。今や節制文化は複合的な市場に組み入れられており、楽しむとはどういうことかという白黒をはっきりさせた見方を超えている。それならば、分別あるどんちゃん騒ぎに参加しない手はない。GucciやPhilip Morrisのようなブランドは、ビジネスと消費者の間のゼロサムゲームを提案した。確かに、骨スープを飲みまくったり、シータヒーリングにはまったりするような文化の特徴が、真面目すぎるように感じるのはもっともだ。だが、たとえそうであっても、そのせいで、魅惑的で、その上驚くほど健康にも良い、自己顕示的傾向が弱まることはないのだ。
Arshy Aziziはロサンゼルスを拠点に活躍するライター
- 文: Arshy Azizi
- 作曲: Stephanie Shiu