21 世紀のファッション リテールを定義したロンドンの小規模ブティック

The Pineal Eye の歴史と功績を

  • 文: Ben Perdue
  • 画像提供: Eric Portès, Benjamin Alexander Huseby, and Tokio Style Blog

SSENSE がお届けする 90 年代レポートでは、今日のアートとファッションの世界における美的感覚に大きな影響を与えた 10 年間を振り返ります。

「業界での影響力を手に入れようと思って決断を下したり、計画を立てたりしたことは一度もありませんでした。私は純粋に楽しんだり、興奮したりしたかっただけです」と語るのは、10 年前に惜しまれつつも閉店し、未だに伝説として語り継がれるロンドンのブティック、The Pineal Eye の協同創業者である Yuko Yabiku です。

「ある日、ふと気付いたら、The Pineal Eye は最先端のアバンギャルドを扱うブティックだと評判になっていました。あの頃ほど、私の生活がアバンギャルドと最先端という言葉で埋め尽くされていた日々はありません。」そして、The Pineal Eye を協同で創業した Yuko Yabiku、Nicola Formichetti、Eric Portès の 3 人が自然体で取り組んだ試みが、やがて業界の常識を塗り替えることになります。

「ある日、ふと気付いたら、The Pineal Eye は最先端のアバンギャルドを扱うブティックだと評判になっていました。あの頃ほど、私の生活がアバンギャルドと最先端という言葉で埋め尽くされていた日々はありません。」そして、The Pineal Eye を協同で創業した Yuko Yabiku、Nicola Formichetti、Eric Portès の 3 人が自然体で取り組んだ試みが、やがて業界の常識を塗り替えることになります。

アバンギャルドの盟主として 1997 年から 2007 年まで業界に君臨し、10 年にわたり多大な影響を及ぼした The Pineal Eye は、ファッション アイテムを購入する人々の消費活動と、ブティックが居を構えるソーホー地区の双方に起きた不可逆的な変化を、つぶさに観察してきました。The Pineal Eye の開店当時には、電子メールもウェブサイトもありませんでした。The Pineal Eye は、独立系ブティックの系譜を引き継ぐ最後の砦でもありました。ロンドンにおける独立系ブティックの歴史は、1960 年代にまでさかのぼります。その当時は、今や神話となった Malcolm McLaren の Let It Rock や、Granny Takes A Trip、Acme Attractions など、才気溢れるアーティストたちの拠点としてオリジナリティを前面に押し出した独立系ブティックが、幾つも存在していました。

The Pineal Eye を創業する前、Yabiku はファッションとミュージックにフォーカスした Kokon To Zai というブティックをソーホーで経営していました。このブティックは、彼女自身の憩いと交流の場でもありました。そこで彼女は、仕事を探す学生だった Nicola Formichetti と出逢います。Formichetti はその後、Diesel のクリエイティブ ディレクターとなった人物です。「私はファッションにもっと関わりたいという思いだけで、Kokon To Zai を手放しました」と Yabiku は語ります。「私は Nicola と Eric に相談して、どうするかアイデアを出し合いました。そして、開催が迫っていたパリのファッション ウィークを 3 人で観に行こうということになりました。」

ブティックの名前も、店舗すらも持たない 3 人でしたが、ロンドンの若手デザイナーとの間に築いていたコネクションを駆使してファッション ウィークに潜り込み、おのおのが幾つもの貴重な体験を得ました。「パリへの旅では、本当にたくさんの素敵な思い出ができました」と Portès は当時を振り返ります。「常にアンテナを張って、興味深い人たちや、影響力がある人たちには必ず会うようにしていました。会場はまるで壮大な遊び場のようでした。」その後、ロンドンに戻った 3 人は、地元出身のアーティストや、セントラル・セント・マーチンズが輩出する次世代アーティストへのフォーカスを始めます。

Yabiku は言います。「私はソーホー界隈の物件を探し始めたのですが、空きはほとんど見つかりませんでした。でもある夜、ブロードウィック・ストリートの古い外科病院の窓に、テナント募集の貼り紙があるのを見つけました。当時そこは、カーナビー・ストリートと青物市場をつなぐ変哲のない通りだったのですが、とりあえず内見の予約を取りました。建物の内部は、まだ古い診察台やカルテなどで一杯でしたが、私はその空間が気に入りました。」ロンドンでの新店舗開店に際して、東京のブティック、A Store Robot のオーナーが支援を申し出てくれたため、彼女は連絡を取り、そこから家具などを買い入れました。その後わずか 2 週間で、The Pineal Eye は誕生しました。

The Pineal Eye を伝説的な存在に押し上げるにあたり、その独特な内装は、取り扱うウェアや訪れる顧客と同じくらい重要な役割を果たしました。まず、地上階の床が取り除かれ、地階から 2 フロア分の高さとなった天井から、マネキンが吊り下げられました。次に、地階の壁が剥がされ、裏に隠れていた横穴が展示スペースと試着室に転用されました。当時、セントラル・セント・マーチンズで印刷を専攻しながら The Pineal Eye で働いていた Simon Gray は、初めて同店を訪れたときのことを次のように振り返ります。「階段を降りながら、ものすごい気後れを感じたことを憶えています。かなり小さな店舗だったのですが、すべての壁が鏡になっていたので、無限の広さがあるように錯覚しました。そこはまるで宇宙船のような威容を備えると同時に、荘厳でもありました。そのとき私はソックスと雑誌を買ったのですが、その場所が私の人生を変えることになるとは夢にも思いませんでした。」

The Pineal Eye は、後に業界を代表することになる優秀な人材を何人も輩出しました。最も有名なのは Nicola Formichetti でしょうが、Dazed & Confused のスタイリストである Mattias Karlsson や、フォトグラファーの Benjamin Alexander Huseby も The Pineal Eye の出身です。また、このブティックは優秀な人材を輩出するだけでなく、次世代を担う才能同士をつなぐ交流の場でもありました。i-D、Purple、Fantastic Man などのフォトグラフィーで有名な Huseby は、当時を次のように振り返ります。「The Pineal Eye で働いていた当時、仕事をしているという感覚はほとんどありませんでした。初めて一緒に仕事をしたスタイリストの Nicola を始め、私のキャリアに重大な影響を与えた Mattias、Alister Mackie、Katy England とも、このブティックを通じて出逢いました。」

適切な才能を持った人々を適切なタイミングで集める Yabiku の才能は、ウェアの買い付けにも遺憾なく発揮されました。彼女は Bernhard Willhelm、Jeremy Scott、Olivier Theyskens など、まだ卒業作品やデビュー コレクションを発表したばかりの新人デザイナーを支援し、店内で類を見ない独自のセレクションを展開しました。メンズ ウェアとウィメンズ ウェア、著名デザイナーと新人デザイナー、雑誌、ジュエリー、アクセサリーなどのアイテムを同時に取り揃えた店内には、The Pineal Eye のキュレーター的な性格が強烈に反映されていました。今日では、こうしたセレクションはマルチブランド ブティックで一般的に目にするようになりましたが、その先駆けは The Pineal Eye だったのです。

Yabiku は次のように語っています。「私にとって、それは自然な流れでした。店内がもう少し広ければ、家具も売ったと思います。The Pineal Eye は、洋服を売るだけが目的の場所ではありませんでした。訪れた人々には、店内でひとときを過ごしながら、互いに出逢い、交流して欲しかったのです。」人々に足を運んでもらうため、彼女は毎月のように異なるアーティストをフィーチャーし、発表パーティーを開き、従来のブティックの枠組みを破壊する試みを続けました。

The Pineal Eye の開店当時に PR エージェンシーを立ち上げた Mandi Lennard は、次のように語ります。「ファッションの発展に対する全方位的な取り組みと、新しい才能の発掘に注いだ情熱には、とにかく驚嘆させられました。The Pineal Eye は熱烈な信奉者たちを生み出しました。皆がブティックの一員として、何が起きているのかを理解し、目標を共有し、活動の趣旨に賛同していました。そこには、Susan Cianciolo、André Walker、Boudicca、Carol Christian Poell、Jessica Ogden、Niels Klavers(3 本の袖を持つジャケットで有名)、Oscar Suleyman、Ann-Sofie Back という、並み居る顔ぶれが揃っていました。店内の棚には、当時の世相を反映した溢れんばかりのアイデアが展示され、顧客の心を鷲掴みにしました。90 年代の The Pineal Eye に比肩しえた唯一のブティックは、パリの L’Epicerie くらいだったと思います。」

The Pineal Eye を特別な存在へと押し上げ、それゆえに終焉へと追いやったもう一つの要素が、ワンオフ アイテムへのフォーカスです。The Pineal Eye は、大手ブティックが決して興味を示さないようなアイテムを積極的に買い付けていました。Hussein Chalayan、Alexander McQueen、Viktor & Rolf などがハンドメイドした、唯一無二の一点物アイテムです。個性を尊重した当時のトレンドが特注品への需要を生み出し、NOKI が The Pineal Eye の看板レーベルとなったのもそれが理由でした。しかし 2000 年代の中頃になると、多くのデザイナーたちが生き残りをかけてハイ ストリート ブランドとコラボレーションし、業界のトレンドが大きくシフトし始めます。「人々は個性的なウェアに目を向けなくなりました。誰もが周りと同じウェアを求め始めたのです」と Yabiku は語ります。「一点物を求めて The Pineal Eye に足を運んでいたセレブたちまで、有名デザイナーズ ブランドが大規模なコレクションで発表したウェアを身に付けたがるようになりました。個性的すぎるアイテムは、突如としてまったく売れなくなりました。なぜなら、もはや誰も個性的なアイテムを求めておらず、そうしたアイテムを身に付ける場所もなくなっていたからです。でも、大量生産された T シャツを売って糊口をしのぐのは、私のスタイルではありません。それで、私は興味を失ったのです。」今では想像もできないかもしれませんが、Vava Dudu のパンプスの特注品を探していた Kate Moss が、万策尽きて既製品のヒールを自分でむしり取ったという時期が、確かにあったのです。そして 2007 年、The Pineal Eye が物件の契約更新を迎えたとき、3 倍の賃料を提示された Yabiku はブティックを閉店しました。

数多くのスタイリスト、デザイナー、フォトグラファーが The Pineal Eye から巣立ちましたが、このブティックは取り扱うレーベルではなく、その斬新なアイデアで自らの地位を確立しました。取り扱うアイテムが注目を集めたのは言うまでもありませんが、多様な人々と多彩な発想を結び付ける空間として、The Pineal Eye は未来を先取りしていました。今日の大手ブティックには、オンライン店舗と実店舗の双方において、The Pineal Eye の影響が色濃く反映されています。The Pineal Eye は、当時のソーホー地区に漂っていた反抗的な空気の醸成にも貢献しました。しかしブロードウィック・ストリート 49 番地から発散されていた反抗的な空気は、不動産業者が新たなテナントとして入居した時点で、霧散霧消しました。不動産業者の従業員たちは、果たして知っているでしょうか。かつてその建物の天井から、Viktor & Rolf の貴重な陶製アクセサリーを身に付けたマネキンが宙吊りになっていたことを。ある夜、そのマネキンが自らの戒めを解き放ち、床に身を投げてアクセサリーと共に粉々に砕け散ったことを。それは日中であれば、誰かが道連れになっていたかもしれない危険な出来事でした。しかし翌朝、床で粉々になったマネキンとアクセサリーを目にした Formichetti と Yabiku は、破片にはいっさい手を触れず、そのままの状態で放置しました。なぜなら 2 人は、その光景に究極のアートを見出したからです。

  • 文: Ben Perdue
  • 画像提供: Eric Portès, Benjamin Alexander Huseby, and Tokio Style Blog