リン・イエーガーのプライド パーティ

カリスマ評論家が語る、ニューヨークのプライド パレードの30年と幾千もの思い出

  • 文: Lynn Yaeger

1990年6月の最後の日曜日、ニューヨーク シティを南北に走る5th アヴェニューの南側。1920年代に建てられたビルの前に立って、私はゲイ プライド パレードを見ている。どうしてもこのビルで暮らしたくて、寝室がひとつしかない小さなユニットの購入を申し出た。売却の条件は「現状のまま」。要するに、「修理修繕は一切いたしません」ということだ。でも私は、すっかり心を奪われていた。すごく古い建物だから、電気のヒューズだってガラス管のままで、それさえすごく魅力的だ。ちなみに、配線の具合で、現在に至るまでエアコンは使えない。建築当初から一度も張り替えていない木の床は、かつて暖炉があった場所の色が少し濃く残っている。調理コンロの電気はつかない。でも5th アヴェニューを見下ろす寝室からは、まっすぐ視線の先に、流れる川が見晴らせる。

どうやら私の経済状態はあまりに頼りないようで、大多数の融資会社は住宅ローンを組んでくれなかった。こういうときは神様と取引するものだ。神の存在すら疑っている私だが、私は彼、あるいは彼女、あるいはそれに約束する。奇跡が起きてここが私のものになったら、自宅で毎年プライド パーティーを開きます、と。最終的に、私にチャンスを与えてみようというノースダコタの人の良い銀行を、ローン ブローカーが探し出してきた。かくして、主催者としては至らない点が多々ありながらも、私は約束を守り続けてきた。

自宅で開く初回のプライド パーティーで、私は「ノー ビュッフェ」を準備した。結局これが私のパーティーのトレードマークになるのだが、日頃記事を書くテーブルからノートパソコンをどかして、代りにポテト チップとM&Mのチョコレートを置いただけだ。それ以外には、特に何もなかった。大切な収集品に惨事が降りかかるのを心配するあまり、「アルコール禁止」の規則も定めた。せっかく蚤の市から掘り出した骨董品を守るほうが大事だ。しかし出席者の多くにとって、これは高過ぎるハードルだった。「それだったら、パーティーって言わないほうがいいんじゃないかな?」と、ゲイの活動家であり、コラムニストであり、私の友人でもあるマイケル•ムスト(Michael Musto)は鼻を鳴らした。だから、この厳格な指示はやがて撤廃された。今では、白ワイン、シャンペンといった無色のドリンクとビールまでが認められている。

パレードと同じように、時を経るにしたがって私のパーティーも人数が増え、評判が高まった。1970年、第1回のパレードに参加した数千人のLGBTQの人々—公民権を与えられず、 犯罪者か精神障害者か、あるいはその両方とみなされた人々は、勇敢だった。今ではあらゆる多国籍企業、あらゆる巨大銀行、あらゆる大学、あらゆる職業の労働組合がフロートのスポンサーになるらしい。政治家たちの底なしの穴と、レズビアンのモーターサイクル クラブ「Dykes on Bikes」、スピリチャルなクイア意識を掲げる「Radical Faeries」、老いてなお血気盛んな「ストーンウォールの反乱」のサバイバーたちが、共にパレードする。

私の祝祭も様変わりした。最初はひと握りの知人が数時間集まるだけだったが、今では50人を上回る人が、60平方メートル足らずの床を立錐の余地なく埋め尽くすまでになった。さて今年は、半世紀にのぼる歴史で初めてパレードがない。したがって、我が家でのパーティーもない。

(左の画像)「グリニッチ ビレッジ 1969年」 ニューヨーク公共図書館、原稿・アーカイブ部門、デジタル コレクション 1969年。(右の画像)「グリニッチ ビレッジ 1969年」 ニューヨーク公共図書館、原稿・アーカイブ部門、デジタル コレクション 1969年。(冒頭の画像)「ニューヨーク市警察6分署の外で抗議するゲイ・アクティビスト同盟」 ニューヨーク公共図書館、原稿・アーカイブ部門、デジタル コレクション

プライドとこの近辺は、私の人生と分かちがたく結びついている。まだ10代の初めの頃、父は私をグリニッチ ビレッジへ連れてきた。街路が整然と東西南北に走るマンハッタンから文字通り外れた狭い通りに、私が共感できるものがあるだろうと察知したのだ。事実、西4th ストリートと西10th ストリートの交差点は、グリニッチ ビレッジの奇抜な精神が凝縮した地図上のメタファーだった。当時私の家族は、どの通りも完璧に一直線のロング アイランド近郊に住んでいた。おまけに、どの通りにも退屈で味気ない名前がついていた。例えば我が家が建っていたのは、チャールズ通りとイリノイ通りの角の傾斜地だった。

現在の場所で暮らし始めるずいぶん前から、私はビレッジの悪名高きボヘミアンたちの昔話に心酔していた。1917年にアーティスト仲間と一緒にワシントン スクエアの凱旋門に忍び込み、天辺まで上って、酔っ払い、グリニッチ ビレッジを「ワシントン スクエア自由独立共和国」と宣言したマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)やジョン・スローン(John Sloan)のような人になりたかった。

私は深い悲しみを抱えたティーンエージャーだった。周囲の誰よりも途方にくれ、混乱し、不幸だと確信していた。だから、1世紀も前から世界中の反逆者たちが群れたビレッジには、親近感と心からの愛着を覚えた。ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ジェイムズ・ボールドウィン(James Baldwin)やエレノア・ルーズベルト(Eleanor Roosevelt)も、この場所へ逃避した。いつの日か、このボヘミアンたちの前哨基地がマサピーカ生まれの少女を迎え入れてくれるように、私は願った。

ついに念願の場所へ引っ越した1990年には、もはや噴水のまわりでボンゴを叩くビートニクたちの姿はなかった。かつて彼らが寝泊りした温水も出ないアパートに、今は堂々たる調理レンジとTOTOのトイレが鎮座している。にもかかわらず、私の強情な空想の中で、ビレッジは疎外された人々の安息の地であり続けた。いや、あり続けている! 1年ほど前の夜遅く、近所の食料品店で若干風変わりな服装を若者たちに笑われたことがある。ロング アイランド時代から、私はずっとおかしな格好をしているのだ。ともかく「よくもこの場所で私を馬鹿にできるわね」と、私はデブにやり返した。「ここはビレッジなのよ!」。すると彼が言い返した。「何のビレッジだよ? 何のこと、言ってんだ? 1960年じゃないんだぜ」

そうなのかもしれない。でも、ビレッジは依然として理想と直接行動の聖域だ。これを書いている今も、公園に群衆が集まって、声を上げ、「黒人の命は大事だ」とシュプレヒコールを叫んでいる。

なんと言ってもプライドなんだから! 贖罪の日と同じで、些細な諍いは忘れなきゃいけない

「ストーンウォールの反乱」50周年だった2019年には、惨めなハイスクール時代からは想像もつかないほど多くの人が、私のパーティーへ詰めかけた。そんなときに、ビンテージの絵が何枚か壁から落ちたって、気に病む必要があるだろうか? プライベートでも仕事の面でも、私のサークルは過去何十年かで大きく成長していたし、そういった知り合いがひとり残らず顔を揃えているようだった。昔の行き違いは水に流す。なんと言ってもプライドなんだから! ユダヤ教の贖罪の日と同じで、些細な諍いは忘れなきゃいけない。その日は、パーティーの来客が引き揚げた後何時間もパレードは続き、真夜中が近いというのに、はるか16階にある私の窓まで声を合わせた叫びや喝采が届いた。

悲しいかな、今年は、たとえ仲間が誇らしくレインボー カラーのマスクをしていようと、パーティーを開くのは危険すぎる。でも、おとなしく引き下がる気はない。代りにワシントン スクエア公園に集まることにするかもしれない。シャンペンと、パーティー専門店で売っているプラスチックの笛と、個別包装のスナックを持っていってもいい。毛布を敷いて、常に公正な社会を標榜するジャドソン メモリアル教会が落とす影の中に、レインボー フラッグを掲げたっていい。湿気たポテトチップを食べながら、壊れそうな私の巣の高みから眼下のパレードを見下ろすのとは、ちょっと違うかもしれない。でも、恐怖と波乱に満ちた奇妙な2020年でも、プライドを祝う方法はある。

Lynn Yaegerは『Vogue』のコントリビューティング エディター。過去20年にわたり、ファッション、文化、政治に関する記事を執筆している。記事が掲載された出版物は『New York Times』、『WSG Magazine』、『Architectural Digest』、『Travel & Leisure』、『Departures』など多数。仕事をしていないときは、世界中の蚤の市に出没する。数多くのコレクションに囲まれて、ダウンタウン マンハッタンに在住

  • 文: Lynn Yaeger
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: July 23, 2020