ジュリアナ・ハクスタブルの陰謀論考

作家、アーティスト、パフォーマーが、政治的かつ象徴的な歴史を紐解く手段としてのファッション イデオロギーについて語る

  • インタビュー: Solomon Chase
  • 写真: Kevin Amato

ジュリアナ・ハクスタブル(Juliana Huxtable)は、全てを大文字で書く(そして考える)エネルギッシュな才媛である。ニューヨークを拠点に、アーティスト、作家、パフォーマー、DJ、「Shock Value」パーティーの発起人として活躍する彼女の文章やアート作品には、複雑で暗示的な記号表現や文化的メタファーが詰め込まれている。彼女のきらびやかな視点を通して周囲の世界を読み解くフォーマットを作り出すことで、あらゆるものが解釈の対象となる。この解析作業によって、彼女の私生活、ファッションをめぐる駆け引き、カウンターカルチャーの美学に至るまで、全てが徹底的に調べ尽くされる。ハナ・ブラック(Hannah Black)との終末論的な短編小説共著『LIFE』に加え、今年初頭に出版されたハクスタブル初となる詩、エッセイ、舞台用に書いた原稿を集めた書籍『Mucus in My Pineal Gland』は、怒涛の勢いで進む彼女のキャリアをさらに勢いづけた。さらに本年には、ニューヨークのギャラリー、Reena Spaulingsでの「A Split During Laughter at the Rally」、そしてロンドンのProject Native Informantでのジュリアナ・ハクスタブル展において、多くの新作が披露されている。

この展覧会で、彼女は陰謀論が生み出される潜在的な可能性を提示し、抗議運動のシュプレヒコールに見るリズムの特性を歴史的文脈のなかで紐解く。さらにスキンヘッド文化を取り巻く背景に始まり、人種差別主義と反人種差別主義が美的対立とイデオロギー的対立の中で複雑に絡み合う過程を分析する。それぞれが全く異質な歴史であるにせよ、ハクスタブルが毒舌を交えながら満面の皮肉に満ちた笑みを浮かべ、それらを紐解くことで、ひとつひとつの作業が、互いに繋がりをもつようになる。

Juliana Huxtable着用アイテム:サンダル(Marc Jacobs)Miu Miu jacket. 冒頭の画像 着用アイテム:ブーツ(YEEZY)スカート(Gucci)

ソロモン・チェイス(Solomon Chase)

ジュリアナ・ハクスタブル(Juliana Huxtable)

ソロモン・チェイス:まずは、その象徴的なブルーの唇についての話から始めましょうか。あなたの展覧会「Reena Spaulings」では、そのブルーの唇がスクリーン上に大きく映し出されてましたし、マグネットにもなっていて、重要な役割を担っていましたよね。ブライアン・ドロイクア(Brian Droitcour)が、あなたの魅惑的な微笑みについて、キュッと引き締まった口元と武器にもなる歯、と批評していますが、言い得て妙だと思います。

ジュリアナ・ハクスタブル:その解釈、私も好きだわ。今回の展覧会のために唇を使ったのは、自分を使うことに辟易していたから。自分を全ての中心に置くことが嫌になったの。だから、最初の展覧会では、自分自身や自分の身体に固執したくなかった。

私は、あなたが全てを大文字で考えて、全てを大文字で書くというアイデアがすごく好きです。そこには、人が大文字に対して抱いている、ネガティブな意味での「騒々しい」イメージ以上のものがあります。私は、大文字があなたの外見の一部を体現していると思っています。大文字で考えるというのはどういう感覚なのでしょうか? メールも全て大文字で書くんですか?

さすがにそれはないわ。そんなメールもらったらウザいし、精神的に問題あるみたいでしょ(笑)。全部大文字で書いた時、美しさが生まれるのは、そこに優劣がないから。例えば、活版印刷が一番美しいのは、使われているのが全て大文字の時だと思うわ。整っていてバランスが取れている。私は重要性を感じたことは、全部大文字で書くけど、だからと言って、そこに強調の意味や攻撃性があるわけじゃない。私が本当にムカついている時は、文章が頭から終わりまで、全部小文字。それは暗に、相手をけなしているのよ(笑)。

あなたはニューヨークのギャラリー、Reena Spaulingsで行った「A Split During Laughter at the Rally」と、ロンドンのギャラリー、Project Native Informantでの展覧会と、ふたつの素晴らしい展覧会を終えたばかりです。とりわけスキンヘッズ、パンク、ナチスに関する作品を通じた行われている文化的な記号表現の分析は、現在、手掛けている作業にも共通する要素のように見受けられます。

それらは間違いなく互いに関連しているわ。Reena Spaulingsでの展覧会では、曖昧で視覚的な空間でコンセプチュアルな文脈を提示したのに対し、ロンドンのProject Native Informantでは視覚的なメタファーを用いて、もっと遊ぶ余地があった気がする。あの展覧会はロンドンの歴史の重みと見事にマッチしていたわ。Reena Spaulingsでのスキンヘッドのフローチャートは、当時ロンドンで実際に起きていた事象に基づいているの。Reena Spaulingsでの展覧会以降、「ナチス、ナチス、スキンヘッド、スキンヘッド」っていう感じで、ネオナチを支持する勢力が月を追うごとに増していったわ。

私が本当にムカついている時は、文章が全部、小文字なの。それは暗に、相手をけなしているのよ(笑)

そうですね。この展覧会は、アメリカのバージニア州シャーロッツビルに白人至上主義者が主催した集会で、反対派との間で起きた衝突や死傷事件よりも前に開かれていましたから、ナチズム支持者たちもまだ社会的制裁を受けていなかった、とでも言いましょうか。

展覧会のコンセプトは全て、ドナルド・トランプがメディアで一連の発言をする前から、着想していたの。でも、こういうことは繰り返し起きていることだし、回を追うごとにどんどん下劣で無神経なものになっている。ロンドンの歴史的背景や文脈の中で自分のことについて考えたとき、スキンヘッド カルチャーと自分との関係を確立することが大切だと思ったの。それがあたかも自分の専売特許のように振る舞うつもりはないけど。スキンヘッズや、パンク カルチャーの内部とそこから派生したムーブメントの大半は、ファッションに関連するものだし、自分の立ち位置を指し示す視覚的な記号表現を絶えず追いかけることに他ならないの。私は政治的、象徴的な視点から歴史を捉えるひとつの手段として、ファッションを再考した。ファッションについて考え、従来型の政治の破綻、もしくは政治目標や政治的な抗議を表現する伝統的な手段の破綻について考え、そしてファッションやアイデアの転用をめぐる議論が、もしかしたら今政治で起きていることよりも、先を行っているのかもしれない、って考えたの。だって政治と同じような形で、ファッションについて語る言語体系を、私たちは持っていないから。ナチ、またはネオナチ、白人至上主義の政治とは何なのかという議論には、他者への無関心から生まれる排除意識が、常に付随しているわ。だから、そういう議論は往々にして、対象となるファッションを外部からの視点で語りがちだった。パンクの歴史とモッズ カルチャーあるいはルードボーイとの関係しかり、スカや、実際に黒人のスキンヘッズがいたという事実しかり。今、白人至上主義者たちの象徴になっているものは、もともと、ロンドンの若い黒人のジャマイカ人移民が身に着けていたものなの。それから、パンクという立ち位置にしても、必ずしも政治的に左派的な意図があったわけじゃないけど、他者に取り込まれることに敵対的なパンクの態度が反映されている。このムーブメントが流行った背景には、パンクとファッションとが過剰に結びつけられたことが一因だったし、ファッションはおそらく政治の空白を象徴しているんだわ。さらに言えば、黒人によって生み出され、白人が取り入れ、今や白人至上主義者が取り入れている男性優位主義もある。だから今、スキンヘッズはジャケットの裏地のオレンジを外にして着るし、それが反白人至上主義で反ファシズムであるというサインになるの。

ひとつのイデオロギーを表しているかと思えば、突如としてその反対を意味する。そういった絶え間なく変化している記号を認識するには、複雑な歴史をちゃんと理解している必要がありますね。

その通りよ! 例えば、政治バッジの転用もそうね。Reena Spaulingsでの展覧会では、ニセの抗議として選挙キャンペーンのバッジを作ったわ。でも私はそれをバンドのバッジやパッチとして用いられた、政治的なバッジだと考えたの。いわば、その時期に流行っている視覚的なシンボルは何でも取り入れちゃうバンドみたいにね。今起きている政治的なムーブメントの多くは、意識的にファッションや装飾品を取り入れている。それは文化と文化のぶつかり合いの中に、身を置くことに他ならないんだけど、そういう風には理解されていないわ。みんな、ファッションに関っている人たちはそもそも思考が浅はかだと決めつけてるから。

美をめぐるイデオロギーには一定の寿命があります。あるアイデンティティに便乗して一体化していられる時間、もしくは...

...フェティッシュの対象になるまでの時間よね。スキンヘッズの歴史ひとつとっても、どこで線引きをするのか、どこから白人至上主義者で、どこからがそうじゃないのか、曖昧よね。いつだったか、ショック療法じゃないけど、道徳的、倫理的対立をなくすために、そうした対立をハーケンクロイツを結び付けようという議論さえあったわ。でも、一方で、70年代のロンドンでは、Rock Against Racismという、影響力のある初期のポストパンクのバンドがいくつも集まって、コンサートが開かれた。白人のスキンヘッズと、ブラックスキンヘッズの流れをくむ人々が、連帯した瞬間だったわ。でも、同時に、左派の反人種差別主義者だった多くのバンドがクレイジーな白人至上主義の領域に流れ込んだ瞬間でもある。だから私はDeath in Juneというバンドについて書いたの。彼らは明確な左派でいることから決別して、今は正真正銘の白人至上主義者、ヨーロッパ主義者、反ムスリムになっている。こういうケースはたくさんあるわ。だから私はフェティッシュの対象になるものについても考えるし、そして左派のスキンヘッズの思考についてだって考えるわ。

シンボルと自分の中に取り入れることと、それらをフェティシズムの対象とすることは紙一重ですよね。

もしくは、ひとつのフェティッシュがあって、それを真っ正面から否定することで成立する別のフェティッシュがあるようなものかしら。数年前に、パリであったFred Perryのサンプルセールの前で、左派のアンティファ(ファシストに反対する勢力)のスキンヘッズと、ナチスキンヘッズたちの乱闘があったの。彼らはみんな同じサンプルセールに来てたのよ! 私はこんなことが起きるなんてマジで信じられないって思ったわ。彼らは全く同じ格好をしているのよ。よくわからないけど、これは今、私たちがその渦中にいる狂乱状態と関係があると思うわ。

⁣着用アイテム:ブーツ(YEEZY)スカート(Gucci)

着用アイテム:レギンス(Molly Goddard)

私はよく陰謀論者って言われるけど、陰謀論を掘り下げれば掘り下げるほど、陰謀論者の多くがいろいろな面で権利を奪われていると感じているのだとわかるわ

狂乱状態と言えば、展覧会で展示された文化史や記録は、あなたが書くフィクションや陰謀論と、どのように関わりあっているのでしょうか。私には、陰謀論が歴史の語られ方を考え直す批評的な方法になっているような気がします。

アメリカの政治的議論では、今だと、極端なレトリックとカルチャーが、広く受け入れられているわ。例えば、InfoWarsを唱えてるアレックス・ジョーンズ(Alex Jones)は本物よ。彼なら、選挙に立候補して当選することだって可能だと思う。でも、今起きているのは、人々が互いを名指しで批判しながら、これは間違った知識だ、あなたの世の中を見る視点がズレてると言い合っているだけ。左派政府が彼らの全ての権利や土地を取り上げてしまうと完全に被害妄想に陥っているテキサスのクレイジーなワーキングクラスの白人であろうと、それと対極にいる、政府が様々な細菌やウィルスを空から散布していると信じている「ケムトレイル」派の人たちであろうと、同じことよ。私が陰謀論で好きなのは、誰かを指差してクレイジーと非難することよりも、彼らの論理を取り入れられる点よ。もし皆を陰謀論に巻き込めば、全てが無に帰すから、今ある政治的現実をどうこうするよりも、その無としてひとつにまとまれるんじゃないかしら。陰謀の論理には惹かれるものがあるし、すべてに疑問を投げかけることによって共同体意識が生まれるわ。陰謀論は、個々のアイデンティティを凌駕するし、人びとに連帯感を感じさせる戦略として有効だと思う。私の家族の中の男性はみんな、ラジオ周波で人びとを操れるマイクロチップに関する陰謀と、アメリカ政府が黒人男性を弱体化させている、という黒人優位のホテップ系の陰謀を信じている。でも問題は、論理武装するために、勝手な事実を見つけてくることね。私は、ミソジニー、同性愛嫌悪、性同一性障害、そして世界に対する私の考えを実証できるのと同じくらい確信を持って、黒人男性は弱体化させられているという陰謀や、白人文化と黒人文化との関係にまつわる陰謀を信じるでしょうね。陰謀論者の叔父と話す時に、「私は陰謀論者だし、叔父さんもそうよね」とは言わないわ。「決定的な証拠がないことが、裏の狙いがある証拠だ」という彼の論理展開の仕方に、真っ正面から向き合うの。そういう状況下では、パラノイアは他の何よりも、理にかなったものよ。

証拠や事実がその価値を全て失えば、とても抽象的で哲学的な議論になりそうですね。

私はよく陰謀論者って言われるけど、陰謀論について掘り下げれば掘り下げるほど、陰謀論者の多くがいろいろな面で権利を奪われていると感じているのだとわかるわ。たとえそれが錯覚や被害妄想であったとしてもね。ケイトリン・ジェンナー(Caitlyn Jenner)が見飽きるほどテレビに出ているから、「政府はみんなをトランスジェンダーにしようとしているに違いない」って思い込んで、だから政府はきっと、ケムトレイルの中に女性ホルモンを入れて空からまき散らしていると考えるマッチョな男のようにね。こういう人たちはみんな何かしら、権利を奪われていると感じている。その感情が正当でなかろうが、事実に反していようが、最低限の会話をできる持つ能力に比べたら、さして重要ではないの。

主流でない立場の人間による歴史の解釈は、トップダウンで語られる歴史とは一線を画していますよね。今、歴史はどう流れていると思いますか? テクノロジーは、あなたが望んでいるような歴史や話の流れに役立っていますか?「事実」の欠如と予期せぬところから生まれる個人的な物語の解釈は表裏一体です。たとえ、事実に即していなくても、耳を傾けてもらえる。ここにはポジティブなのとネガティブな両方の副作用があるように思います。

インターネットは、ファクトチェックの役割を完全な意味では果たしてないわ。陰謀論はインターネットがあったからこそ発展したの。だから、ごく最近の過去も含めて、テクノロジーは自分の歴史概念を考え直すの場所を場所を人びとに与えてきた。まさに今回の大統領選がその多くをもたらしたようにね。私が見た限り、多くの人は、「ねえ見て、私たちはオバマの選挙の時の写真をもっている。ウィメンズマーチの写真もある。トランプよりもずっと見に来た人の数が多いわ」といった議論に終始していた。そんなことに時間を費やしたって、どうにもならないわ。一体、そんなの誰が気にするっていうの? そりゃ、明らかにトランプは墓穴を掘りまくっていたけど、彼に惹きつけられる人たち、つまり自分たちの苦しみや、権利が奪われていくと感じていることをトランプはわかってくれている、と考えている人たちに、「証拠の写真がある」なんて話したところで、何にもならない。だって、オバマの就任式の時の方が集まった人の数が多かったなんて証明できる? 写真なんて簡単に加工できるのよ。だから、結局、政府の陰謀だって話になるのよ。

それを聞くと、あなたが書いたこの文章を思い出します。「もし歴史が奪われたら、私たちはウィキペディアのレイヤーを剥がしてそれを取り戻す(タイトル)RE:信憑性」

それはパフォーマンスからの一節ね。アーカイブとしてのインターネットを懐かしく感じた時の私と私の感情について書いたものなの。私は、たぶんこれはアーカイブじゃなくて、完全に操作された少数独裁政治の産物なんだって思ってた。それはウィキペディアから始まったの。海外で研究をするために南アフリカにいた時、アパルトヘイト博物館での展覧会を見に行ったら、それは遊園地のカジノの中にあって、かなり変だなって思ったわ。何故そんなところにあるのか、意味がわからなかった。当時、私はすでにウィキペディアの編集者だったから、ウィキペディアで編集履歴が閲覧できた。そしたら、そのアパルトヘイト博物館がアフリカ系の裕福な白人の国粋主義の一族によって保有されているとする一連の記事を、絶えず編集して削除している人がいたの。たしか採掘業の一族だったと思うけど、アパルトヘイトを撤廃する闘いの中で、人によってはそれがアパルトヘイトを守るための闘いでもあるけれど、彼らは自分たちの側が最終的に勝つと思って、アパルトヘイト博物館の権利を買い取った。でも、一族が闘いに負けた後、ある非営利団体が設立されて、彼らが本物のアパルトヘイト博物館を開く準備を開始した。当然、アパルトヘイト博物館というからには、アパルトヘイト政策が終結した後に、その暗く痛ましい側面を見せることが目的になるのは理にかなっているわよね。けれど、白人の国粋主義者の一族は、その商標を有していると主張し、その非営利団体を訴えたあげくに裁判で勝利し、カジノのテーマパークの一部として博物館をオープンさせたのよ。その博物館は一見、ごくまっとうな博物館として通っているわ。1ヶ月前にそのページに行ったけど、まだ編集作業が続いていた。反アパルトヘイトの歴史を食い物にする白人至上主義の一族、という強大に思えた存在が、実はウィキペディアの編集レベルの存在だってわかった瞬間よ。

狂ってますね。現在、ウィキペディアの知識をもったインターンたちがかり出されて闘っている、歴史を巡る闘争ですね。あなたは、ハイパーリンクのような手法でモノとモノを結びつける、ポストウィキペディア的な手法を用いますね。映像作品「A Split During Laughter at the Rally」の中でやっているように、社会運動と、抗議運動のシュプレヒコールの音楽理論分析を組み合わせてみたり、リアリティ番組みたいな告白と結びつけてみたり。音楽、執筆、パフォーマンス、そして視覚表現のような様々な領域は、あなた自身にとって、どう影響しているのでしょうか?

私はそれぞれが別々に存在しているように感じるし、それらがひとつにまとまり、また再び別々に存在になる、そんな瞬間を楽しんでるわ。執筆と、あらゆる私のアート活動はつながっているの。音楽とパフォーマンスもつながっている。でもDJの活動は、必ずしも他とつながりがあるわけではないわ。私がちょうど今、手掛けているように、製作の領域に入らない限りね。来年早々、ロサンゼルスで製作に集中する期間を設けると自分に課してるの。今まで、コラボレーションしようって声をかけてくれたプロデューサーたちと仕事をしてきたけど、自分のしゃべりや文章を使ってやってみたいアイデアがあるの。ただ音を作って、サンプルを作るだけでもいいわ。自分主導でコラボする方が、その逆より好きよ。人様のテリトリーでコラボするのは、もう十分やったから、自分の欲望のままにやる時期がきたと思う。

10月20日に、あなたがベルリンのクラブ、Berghainのメインフロアで初めてプレイするのを目にしました。あそこのエネルギーに連帯感を感じますか? たとえば、自身が主催するパーティ、Shock Valueのように、共有されたエネルギーの特別な形を生み出すパーティー空間をオーガナイズする人間の視点から、という意味で。また、来る人のプライバシーや匿名性を尊重することについて、どう思いますか。

それはクラブが大げさに宣伝して回ってるせいで、既にちょっと嫌になりかけてるの。私が初めて行った時はキュートだったけど、連帯感は感じなかった。そして2回目に行った時は、「うわあ、ここは地球全体でいちばんアイコニックな場所。たまらなく素敵だわ」って思ったの。以前にもそこでプレイしたことがあったけど、その時は、小さい部屋でプレイしただけだった。メインフロアは別世界なの。めちゃくちゃ楽しみにしているわ。あそこでは今まで、全く毛色の異なる経験をしてきた。私と友達だけで歩きまわって、最後にはドイツ人の男と寝てた。暗かったし、私は自分でもよくわからないドラッグをやってたのかもね。それとは別に、ベルリンで私が知っている黒人の女の子が全員、Berghainに集まって、みんなでバーに座りながら「Berghainでは、今まで一度も黒人の女の子を入店拒否したことがないと思う」なんて会話をする。本当に、拒否されないのよ。

何をプレイするんですか?

ニューヨークでプレイするのは、ヨーロッパでやる時と大きく違うわ。私のDJセットは、全体としては、以前よりアンビエントになって、そこからまた、全くハードで攻撃的で、ノイジーなインダストリアルになったの。私はそれをこう人に説明するわ。もしXXXの映画のセットがロシアか、どこかソビエト連邦の傀儡政権だったとする。霧の中から煙が立ち込め、青いグリッターのハイライトを入れたロシア人モデルたちがいる中で、インダストリアルのテクノがかかっているナイトクラブのシーンのようだって言うの。私はそういうエネルギーを生み出したくてプレイしているの。

Solomon Chaseは、アーティスト、編集者、DISの共同設立者であり、TORSOのパートナーでもある

  • インタビュー: Solomon Chase
  • 写真: Kevin Amato
  • スタイリング: Kevin Amato
  • メイクアップ: Fatimot Isadare