ルル・ワン監督作『The Farewell』の封切り間近
アメリカ人映像作家が、ステレオタイプではなく、特有であることの選択を語る
- インタビュー: Emily Yoshida
- 写真: Andrew Jacobs

ルル・ワン(Lulu Wang)と私は、ニューヨークのロウワー イースト サイドで、果たしてあるのかないのかわからないコーヒー ショップを探している。大いに期待を集めている『The Farewell』のはじめのほうのシーンを撮影した辺りを歩き回って、こじんまりとした可愛いティー ショップやペストリー ショップは何軒か通り過ぎたのだが、どれも目当てのお店とは違う。ピンクのカップがあって、地下鉄の駅の近くで、マンハッタンでの撮影期間中に足しげく通った、というのがワンの記憶なのだが…。結局、当時のライン プロデューサーに電話でSOSを送ると、撮影が終了して何か月も経過しているにもかかわらず律義に応対して、デランシー ストリートとクリスティ ストリートの角へ行くように教えられる。指示に従って引き返したところ、シャッターが下りた閉店状態。コーヒーも、ピンクのカップも、何かが確かに存在したという証拠も、すべてが消えていた。ただ空っぽの店舗を除いては。

「前にも、場所探しで、クルーを同じ目に合わせたことがあるの」。近場の紛れもなく実在するブランチ ショップに腰を落ち着けたところで、ワンは思い出す。中国の長春で探しあぐねたのは、かつてありえないほどエモーショナルな家族の集まりがあったときにワンが滞在していた現実のホテルで、そのときの体験を映画化するためのロケだった。ところがいざ現地に戻ってみると、クルーを引き連れて、堂々巡りをしているばかり。ようやく最後になって、そのホテルは取り壊されたか、あるいは取り壊し中のどちらかに違いないことが判明した。「看板はまだ残ってた、というか、その一部は見えてたの。私たちは、残骸の中を通り過ぎてたのよ」
『The Farewell』の主人公は、オークワフィナ(Awkwafina)が演じる20代の中国系アメリカ人ビリー。家族に敬慕される「ナイナイ(おばあちゃん、の愛称)」がステージ4の肺がんと診断されたために、両親と一緒に中国へ里帰りする。家族の他のメンバーもそれぞれに遠方から故郷へ戻ってくるのだが、彼らは、ナイナイに告知して嘆きながら来るべき死への準備を整えるより、衝撃の予後診断を隠し通すことに決める。それは、往々にして、中国の慣習でもある。そのために、急遽、ビリーのいとこの盛大な結婚式を催し、家族全員が一家の長であるおばあちゃんに「別れを告げる」機会がお膳立てされる。ちなみに、こうした「知らざること」の擁護は、ポッドキャスト「This American Life」が2016年に放送したシリーズのタイトルであり、ワンは同シリーズのエピソードのひとつで、初めてナイナイのストーリーを語っていた。家族の選択には同時に、ひとりの人間の生は単にその個人だけのものではないという、非常に非西欧的な考え方も基本にある。『The Farewell』は思い出だけがテーマの作品ではないけれど、もっとも些細なディテールまで思い出に溢れている。

Lulu Wang 着用アイテム:トラウザーズ(Sies Marjan)
だが、思い出のように儚いものをとらえるのが映画作りでないとすれば、映画作りとは一体何だろうか? 「私、ずっと前から村上春樹のファンなの」と、ワンは言う。村上の小説『ダンス、ダンス、ダンス』の語り手は、奇妙な一夜を過ごして以来忘れられない謎の「いるかホテル」を探すのだそうだ。「探してるんだけど、夢に見ただけなのか、実在したのか、想像しただけなのか、自信が持てない。なぜなら、それが人生のとっても奇妙な時期だから。今の中国もそんな感じ」
思い出を映画へ転換する手法、変わり続ける業界のアジア系アメリカ人観、ワン自身と作品が固定観念とは無関係に自立することを目指す理由を尋ねた。「アジア、おばあちゃん、家族…なんて聞くと、決まり切ったイメージを思い浮かべるでしょ?」と、ワンは言う。「意図してステレオタイプに立ち向かおうとしてるわけじゃないけど、ある特定の物語を語ろうと思ったら、一般的にはなれない。どうしても、人間的になるのよ」
探してるんだけど、夢に見ただけなのか、実在したのか、想像しただけなのか、自信が持てない。なぜなら、それが人生のとっても奇妙な時期だから。今の中国もそんな感じ
エミリー・ヨシダ(Emily Yoshida)
ルル・ワン(Lulu Wang)
エミリー・ヨシダ:サンダンスについて話したかったの。ひとつには、『The Farewell』がサンダンスですごく好評だったから。もうひとつは、まだまだ業界が「アジア系アメリカ人の映画」をとても限定的にとらえていることが、とてもよく分かったから。「同じ系統の映画」として話されてるのを耳に挟んだんだけど、商業的に成功する見込みとして引き合いに出されるのは『ウェディング バンケット』か『クレイジー・リッチ!』なのよね。
ルル・ワン:サンダンスはクレイジーだったわ。上映後すぐ、ものすごくたくさんオファーが来たけど、どれもすごく低い額だったから、A24がまったく違うレベルの金額を提示したときは、本当に驚いた。だけど本当にクレイジーだったのはその後、あるストリーミング会社がA24が提示した額の倍以上をオファーし直してからよ。というのも、ようやくその会社の誰かが実際に『The Farewell』を観て、言葉とか、民族とか、そういう類のことに制約されない内容だとわかったから。それで、とてつもない金額をオファーしてきたの。
金額が意味するものはとても大きいから、とにかく決断に悩んだ48時間だった。『The Farewell』みたいな映画が8桁で売れるという事実は、独立系のコミュニティにとっても、今後制作されるプロジェクトのタイプという点でも、本当に有意義だわ。
そのとおりね。だけど同時に、もし男性監督だったら「僕の映画に1100万ドルのオファーが来なくても、僕の次に上映する白人の男性監督だってそれほどいい値はつかないはずだ」なんて、考えたりはしないでしょうね。
絶対ないわね。最終的には、私にとってどっちが大切かを考えて、A24を選んだの。確実に売れる金額か、それとも、効果的にマーケティングして、劇場公開へ持ち込んで、作品にあったプラットフォームと配給をお膳立てして、引き合いに出されてる映画よりもっと大きな興行成績を上げる可能性に賭けるか。そうでしょ? 収益が少なければ失敗作ということにされるんだから、そういう数字はリスクでもある。

着用アイテム:トラウザーズ(Maryam Nassir Zadeh)

着用アイテム:トラウザーズ(Maryam Nassir Zadeh)
でもそれは、業界の観念が単純すぎるからじゃないかしら? 結局、柳の下のドジョウ、「第二の『Crazy Rich Asians』になれるか?」という考え方だもの。
『The Farewell』は75%から80%程度が中国語で、字幕が出るわけ。だから、『クレイジー・リッチ!』と同列には並べられない。『クレイジー・リッチ!』はリッチなアジア人がびっくりするような贅沢をして、それがある意味でメインストリームにアピールするけど、『The Farewell』はそうじゃなくて、「クレイジーな中流のアジア人」なの。だけど、映画としては、多くの点で大勢の人が関連性を感じられなきゃいけない。私はできるだけ焦点を絞った映画を作りたいけど、興行的に成功させようと思ったら、当然、多くの面でできるだけ間口を広くする必要もある。リューベン・オストルンド(Ruben Östlund)とかヨルゴス・ランティモス(Yorgos Lanthimos)とか、私が好きな映像制作者も同じ葛藤を感じるのかしら…どうなんだろう? それとも、あれくらいになると、アート系の映像作家として通用するのかしらね。
A24のスタッフとも、分類や「系」について話したの。アメリカ人の定義は何だろう? どういうときに人種の「系」が付くんだろう? そういう付加的な定義を歓迎するか、拒否するか? 分類には意味がありうる、とは思う。ある意味、名称をつけることで存在が与えられて、私たちがそれについて話せるようになる。だけど分類は、非常に窮屈な制約にもなりうる。私が「アジア系アメリカ人の女性の監督」である限り、例えばマイク・リー(Mike Leigh)と比較されることはありえない。
マイク・リーを引き合いに出すところがいいわね。
助演者の使い方で、マイク・リーにはとても大きな影響を受けてるの。彼は、とても特有な、ダークで、ドライなコメディを作る。作中の家族をとても身近に感じる…どうすればああいうことができるのか、リハーサルのスケジュールを見てみたいものだわ。リューベン・オストルンドのコメディの作り方もそう。
フィルムメーカーとしては、打ち壊して飛び出したい枠があるわ。例えば、どうしてファミリー ドラマには、スリラーやホラーの撮影技術を使えないのかしら? だって『The Farewell』は、語られないこと、誰もが知ってるくせに口にしないこと、見えないふりをしている怖れ、秘密、欺瞞が大きな割合を占めてるのよ。おばあちゃんのために、誰もが「なにひとつ問題はなくて、私たちはハッピー」というお芝居を演じてる。だけど、観ている人には、語られないことがいつ何時飛び出すかわからないスリルを感じさせる必要がある。そういう緊迫した雰囲気を作り出すには、ホラーやスリラーを参考にするのが最善の方法だわ。
アメリカ人の定義は何だろう? どういうときに人種の「系」が付くんだろう?
参考にしたホラー映画はある?
『ローズマリーの赤ちゃん』も観たし、ヒッチコック(Hitchcock)の映画も少し。撮影監督をやってくれたアンナ・フランケサ(Anna Franquesa)とも、沢山話し合ったわ。あまりカメラを動かさないシーンの後でカメラを動かすと、とても恐怖を盛り上げることができるの。例えば、ただテーブルに座ってるだけのナイナイにカメラが近付いていくときの感じ。家族は食事をしてて、おばあちゃんはすぐそこに座ってる。ゆっくりカメラが近付いていくと、おばあちゃんが私を見て、私が知っていることを今にも見破られそうな恐怖を覚える。だけど、そこからコメディも生まれる。

Lulu Wang (左) :セーター(Maryam Nassir Zadeh)、スカート(Sies Marjan)
初めて観た後、何か月も、スクリーンの色使いが記憶に残ったわ。マイク・リーの日常バージョンでもあったし、同時に、思い出の感覚みたいな柔らかさもあった。
何よりもスクリーンで再現したかったのは、中国の蛍光灯の照明なの。貧しい時代が続いた中国みたいな国にとって、照明が意味することをよく考えてみたわ。貧しければ蝋燭を使うしかない。タングステンの電球と同じで、あたたかみのある光りで周囲だけを照らす蝋燭は西欧世界ではロマンチックに美化されるけど、中国では貧乏の象徴だから、それほどロマンチックなものじゃない。裕福になったら、部屋中影ひとつないくらい、できるかぎり煌々と電気をつけるものよ。私のおばあちゃんが部屋に入ってくると、いつも「どうしてこんなに暗いの?」って言ってたもんだわ。
一方で、香港映画みたいな、ヒップでクールな使い方もしたくなかったの。蛍光灯を使いながら、なおかつあたたかみを感じさせる…。あの映画で私が表現したかった感覚には「あたたかさ」がとても重要だったから、やり方を見つけるのが課題だった。それから、中国ではパステル カラー、軽やかな淡い色使いも、とても人気がある。結婚式のシーンでは鮮やかな色を盛大に使ったけど、それ以外は、中国でよく見かけるパステル調を選んだわ。
中国の文化にはとてもナイーブなところがあるから、パステル カラーが多いんじゃないかしら。中国の人たちは、純な気持ちを本当に大切にする。私のおばあちゃんは、バスルームに可愛い赤ちゃんのポスターを貼ってたわ。おばあちゃんにとっては、「可愛い」、ただそれだけなの。皮肉や風刺は一切なし。私はおばあちゃんの家が大好きだった。おばあちゃんたちはとても辛い人生を送ったから、家の中にまで「エッジィ」な要素を持ち込む必要はなかったのよ。

あの赤ちゃんのポスター、私、大好きだわ。ああいうアート ディレクションのディテールで、とても深みが生まれるわね。実生活でお気に入りのものを小道具に使ったりもした?
ビリーとナイナイが対話してるシーンがあるでしょ。背景は白い壁で、それぞれのフレームに1枚の写真だけが入るの。ビリーの側にあるのは、私のおばあちゃんとおじいちゃんが若い頃、軍隊にいたときの写真。ナイナイの後ろにあるのは、私の父とおじさんが子供だった頃の写真。両方とも本物の写真よ。
おばあちゃんのお墓でも撮影したわ。写真入りのお墓が周りにあったから、本当はそういうのがよかったんだけど、実物には写真がついてなかった。だから、アート部のスタッフがおばあちゃんの写真をプリントして、ラミネートして、それを墓石にくっつけたの。『The Farewell』を観るたびに、そういう小さな気づきがある。本当に意味があるのは、そういうディテールね。
Emily Yoshidaは、ライターであり映像制作者。ポッドキャスト「Night Call」の司会者のひとりでもある。ニューヨーク シティ在住
- インタビュー: Emily Yoshida
- 写真: Andrew Jacobs
- スタイリング: Leah Henken
- ヘア: Marco Santini / Tracey Mattingly
- メイクアップ: Carolina Dali / The Wall Group
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: July 11, 2019