Missoniが織りなす女同士の絆
ドラマ満載のランウェイ、スポーツウェアの遺産、そして女の友情
- 文: Tatum Dooley

Missoni初のランウェイ ショーは、1967年、フィレンツェのピッティ宮殿での展示会で開催された。のちにブランドのシグネチャのニットとなる服の下に、モデルたちは、なんと何も着ずに登場した。当初計画されていた白のブラは、シースルーなラメ入りの生地の下で目立ちすぎていたため、ブランドの女家長、ロジータ・ミッソーニ(Rosita Missoni)がモデルたちにブラを取るよう頼んだのだ。このことが観客と同様にマスコミを憤慨させ、その翌年、Missoniはピッティに招待されなかった。だがその程度で、Missoniが誰もが知る有名なブランドへと成長するのを止めることは不可能だった。
Missoniは1953年、オッタヴィオ・“タイ”・ミッソーニ(Ottavio “Tai” Missoni)とロジータ・ミッソーニのイタリア人夫婦によって、スミラゴで設立された。根っからのスポーツマンでもあるタイは、当初、イタリアのオリンピック チームのためのトラックスーツなど、アクティブ ウェアのデザインを手がけていた。そもそもタイとロジータが出会ったのが、陸上競技の短距離走者としてタイが出場していた1948年のロンドン オリンピックだった。最新の編み機が登場したとき、ロジータがビジネスを拡大することを提案し、今ではブランドの代名詞となったジグザグのシェブロン柄のカラフルなクロシェ編みという、あの誰もが知るデザインを作るようになった。
Missoniの服があからさまに女性のセクシュアリティに結びつき、センシュアルでフェミニンに思えるのは、おそらく初のランウェイ ショーでのスキャンダラスな出来事のせいだろう。ロジータは、ニットが素肌に触れる ものだという、真理をついていた。明るい色合いと模様がゴタ混ぜになった服を着こなせるのは、他人にどう思われるかを気にしない女性、自己の内面をよくわかっている女性だけだ。夏の間ずっとビーチで過ごすような、あるいは、友達とゴシップに花を咲かせながら、隣人が眉をひそめるのもかまわず、裏庭で肌を焼いて過ごすような女性である。バルバドスのビーチでMissoniのニットパンツを履いていたリアーナ(Rihanna)。あるいはMissoniのロンパースを着て、サントロペでヨットに乗っていたリアーナ。もしくは、とっかえひっかえ色々なMissoniのビキニを身に着けていたリアーナ。確か、足を組んでジェットスキーを操縦していた時もそうだったかもしれない。ニット プリントは、スポーツウェア ブランドとしての歴史が示唆するように、その作りにもデザインにも柔軟性がある。日の出から日没まで家の外にいるようなときは、十分な備えが欠かせない。ただMissoniのドレスやトップスを着るだけでは足りない。リラックス パンツやカーディガン、ゆったりと垂れたフープ イヤリングやヘッドバンドも必要なのだ。

Missoniのカラフルなシェブロン柄のデザインは、子どもの頃に作ったミサンガに似ている。ニットのデザインを見ていると、サマー キャンプやブレイズ ヘア、秘密、服の交換など、少女時代の冒険を思い出す。ミサンガを編むことは、単に新しい友情に対してだけでなく、若さゆえの無謀さに対して、協定を結ぶことを意味していた。夏の終わりには太陽と水で洗われて色褪せる運命の、腕にしっかりと結ばれたブレスレットは、有意義に過ごした時間の象徴だ。こうしてMissoniは、女同士の友情におけるプルーストのマドレーヌとなる。
Missoniの女性神話が、ブランドの歴史によってさらに強固なものとなったことは、家族写真を見れば明らかだ。Missoniは何世代もの女家長によって引き継がれており、彼女たちが一緒に写っている写真では、それぞれが異なる高さの段に配置されることが多い。Missoniの3人の女性、創業者のロジータ、娘のアンジェラ、さらにその娘のマルゲリータを取り上げた2010年の『Guardian』紙の記事では、ライターが、この女性たちの仕草に見られる気楽さについて洞察している。マルゲリータは祖母のソファにどっしりと腰を下ろし、ロジータはアンジェラのトップスを整える。そしてマルゲリータは、母親が同じようにトップスを直そうとする手を払いのける。
「私にとっては、ただの会社じゃないの。一族というか、ひとつの部族に所属しているイメージに繋がるところがある」とマルゲリータは言う。しっかりと編まれた絆をブランドの核にした美学という意味では、Missoniの服は一族のあり方を体現している。

Missoni初期のランウェイによって、予想外の事態に対する寛容さと、トラブルに対する親和性は、もはや定まっていた

Missoniの2度目のランウェイショーが開催されたのは、ミラノのスイミング プールだった。「プールの端から端まで、空気で膨らませるエアーチェアが並んでいた。エマニュエル[・カーン(Emmanuelle Khanh)]の夫がデザインしたの。彼は初めてエアーチェアをデザインした人。それから、プールの真ん中に浮いていたエアーハウスもデザインしたのよ」とアンジェラ・ミッソーニ(Angela Missoni)は『Vogue』に語っている。「そしたら突然、その家が壊れたの。ハプニングよ。女の子たち全員が水の中に落ちて、結局、盛大なパーティーになったわ」。Missoni初期のランウェイによって、予想外の事態に対する寛容さと、トラブルに対する親和性は、もはや定まっていた。Missoniの女性像には何に対しても気取ったところがない。
Missoniの初期のランウェイショーを取り巻くスキャンダルは、1968年、リンダ・ローゼンクランツ(Linda Rosenkrantz)の著作『Talk』発売の際に巻き起こった噂と似たようなものだった。この本は、1965年の夏イースト ハンプトンでの友人間の出来事の記録をまとめたもので、セックスとパーティー、娯楽を大きく取り上げていた。そのほとんどがビーチで起きたか、少なくともそういう印象だった。ローゼンクランツの本は、対話、あからさまな描写、女友達の間の噂話に重点を置いていた。そして読み出したらやめられない。女たちにとって話すこととは、直接触れ合うことの一歩手前にある、ある種の親密さなのだ。
ローゼンクランツは次のように書いている。
マーシャ:「あなたが私に優しくしてくれるところ、本当に好きよ」
エミリー:「本当? それって何よりも素敵なことじゃない?」
マーシャ:「私が大好きなもののひとつよ」
エミリー:「私が優しくしてあげてる?」
マーシャ:「もちろん。あなたは私にとても優しい」
そこからふたりは、自分たちが好きなものについて話し話し始める。ある種の嫌われ者たち、日焼けして痩せていること、自分たちの体、自分自身、公衆の面前で話すこと、笑うこと、夕食に出かけた後、ひとりでいること、ベネチア、シチリア、ニューヨークと続く。(マーシャはここで、ニューヨークが嫌いだと言うのだが。) そして、エミリーは自分の妹が大好きだと言う。
それにはどこか告白めいたところがある。他人の目を気にせず、お互いのことも自分自身を愛しく思う。このやりとりを想像するとき、私の中の彼女たちが着ているのが、Missoniに他ならない。
Tatum Dooleyはトロントを拠点にするライター。『Artforum』、『Bordercrossings』、『Garage Magazine』、『Lapham's Quarterly』、『The Walrus』など多数に執筆している。また『The Site Magazine』の客員編集者を務める
- 文: Tatum Dooley
- 翻訳: Kanako Noda
- Date: July 10, 2019