マキシム・バレステロスは赤裸々に語る
ベルリン在住の写真家がカメラに人生を捧げた理由を打ち明ける
- 文: Timo Feldhaus
- 写真: Maxime Ballesteros

夢と悪夢、昼と夜、主体と客体。マキシム・バレステロスの写真の中では、これらの二項対立が交わり合う。SSENSEにも継続して写真を提供しているバレステロスは、 サルデーニャ島で撮影したMiu Miuやミラノで撮影したPradaをはじめ、豪華絢爛なパーティーからプライベートな居住空間、早朝のビーチに至るまで、被写体を追っている。直感的でソフト コアな暴力性と、限りないまばゆさを兼ね備えた彼の作品は、嫌悪感を抱かせると同時に、興味を掻き立てる。彼のファインダーを通して生まれる画像には「どうしても見ておきたい」という気持ちにさせる、避けがたい魅力がある。「人は残酷で美しい」とバレステロスは言う。矛盾は作品の中で溶解する。
ベルリンでティモ・フェルトハウス(Timo Feldhaus)がバレステロスと対談し、最近発売されたバレステロスの写真集『Les Absents』について話を聞いた。電子たばこの蒸気に包まれて、バレステロスが自身のミューズや脆さ、どちらともつかない諸々の事象に思いを馳せる。

Le cul dans le raisin、コンドリュー(2009)
子ども時代
僕はリヨンの田園地帯の出身なんだ。郊外からバスで20分ほど離れたところ。一人でいるのが好きで、近所を自転車でよく走り回っていた。子どもの頃は変な奴だった。いつも泣いてたよ。おかしいくらい泣き虫で、おねしょもしてた。どもり癖があって、言葉を話せないにきび面の怪物みたいな。16歳のとき、母さんがスピーチセラピストのところに僕を連れて行った。すばらしいセラピストだった。その頃から写真を撮り始めた。カメラが僕を惹きつけ、殻から引っ張り出してくれたんだ。
恐怖に立ち向かうこと
旅行は好きじゃない。僕はあまり社交的じゃないし、人見知りする。でも僕の仕事は正反対だから、写真に後押しされてきた部分は多々あるよ。旅行したり、人と話したり、親しくなったりする必要に迫られるからね。ありのままの自分とは真逆の人間を演じてる。これは難しいけれど、素晴らしいことだよ。たとえば、20代に入ってめまいがするようになったんだ。子どもの頃あれほど山に登っていたのに。だけど、写真家になって、僕は変わった。今なら、屋根の上とかに登ったとしても、下を見れば、めまいが消えるよ。

Camille 4 ans après, au local、リヨン(2013)

Crepuscule、ベルリン(2016)
ミューズ
カメラが本当に好きだ。女性と人生を分かち合うのもすごく好き。今まで一緒にいた女性はみなとても大切な人ばかりだった。母さん、別れた妻…女性にいつも恋をしていた。同じ人たちを何度も何度も撮るのが好きなんだ。(先妻の)ジェンがいつもそこにいる。この本の全ては、彼女に捧げたものだ。本の最初の部分は彼女に出会った時期に重なっている。ベルリンに引っ越して2年目のときくらいかな。そして、別居したあたりで本は終わる。何もかもを彼女と一緒に経験していたからね。本当に多くの撮影現場に彼女が一緒にいた。いつも2人であちこち飛び回っていたよ。ここ数年で撮ったのは十数人で、彼らを繰り返し撮ってるんだ。10年前に出会ったときから人々が今までどう変化したかを見るのはとても面白い。生活も身体も変化するから。
興味の対象
暴力、美、攻撃、悲しみ。人は毎日、これらに対処しなくちゃならない。ウィリアム・クライン(William Klein)とメアリー・エレン・マーク(Mary Ellen Mark)は本当にすごいと思う。見た感じは違っても、哲学は共通してる。たとえ人為的な設定でも、重要なのは現実なんだ。起きているときにはファンタジーがあり、眠っているときには夢がある。それでもなお、現実はそこにある。他に言い表しようがないな。

First Love、ベルリン(2014)

Sharp Nights、ベルリン(2017)

Peine de coeur、ベルリン(2015)
フェティッシュ
僕はとても視覚的な人間なんだ。カメラがないと何もできないし、顔やハイヒールに注目せずにはいられない。バーで喧嘩が起きたら僕は写真を撮る。それをよく見たいし、感じたいからね。ハイヒールについて言えば、ラブストーリーのようなものだ。別に珍しい話じゃない。フロイトだよ。3歳頃に自分の母親にペニスがついてないことに気づくってやつ。フェティッシュは、本来存在しない母親のペニスを見てみたという欲望を、代わりに満たすものだ。それは靴の場合が多いけれど、髪や胸フェチのときもあるし、鼻の場合もある。本当かどうかはわからないけど、なんとなく説得力があるな。(ハイヒールを)履くのは僕は好きじゃないよ。世の中には、履くのが好きな人もいるけど。とはいえ、思いつきでフェチになるものじゃないからね。
血
血の色は美しいと思う。僕が使うフィルムに写ったものは特に。それにLouboutinによく合う。だからよく使うんだ。赤には訴えるものがある。常にインパクトがある。もちろん、血の味は知ってるけど、グラス一杯飲むようなことはないよ。そこまでは好きじゃない。

Sniffles、パリ(2015)

Dégradé de vert jusqu'à gris、métalisé、ベルリン(2010)
フラッシュ
最初の5、6年間は、カメラの外の状況を自分の目で見てわかるようにするため、フラッシュを使うことを自分に固く禁じていた。その後フラッシュを買って、すべてが変わった。最高だよ。その一瞬を捉えることができるんだ。すごくいい光に恵まれない限り、瞬間を切り取るにはフラッシュを使うしかない。僕は、昼間でも影を消すためにフラッシュを使いまくる。あらゆるものが二次元に変換され、そのまま写真になる。

Les Absents、ベルリン(2014)

Distorting Mirror、パリ(2015)
影
フラッシュがないと、どんなものでもロマンチックさを増す。本に「Les Absents」というタイトルのすごく好きな写真がある。女性がひとりで地下鉄に乗ってる写真だ。そこには孤独が現れている。この女性は少し年配に見える。家族がそこに一緒に座っていてもおかしくはない。彼女は彼らと話をしていそうな雰囲気だけど、そこには誰もいない。それは、この本全体を通じて感じる感覚に、ちょっと似ている。孤独はいつも僕の写真の中にあったけど、ジェンと別れてからは、有り余るほどの孤独感を、ひしひしを感じるようになった。それほど孤独感は、常に鮮烈なんだ。今じゃ、僕の写真の至るところに孤独が現れている。誰かが亡くなると、花をたむけるように。
一緒にいて感じる孤独
見知らぬ人たちが集まっているパーティーやイベントに行くのがすごく好きだ。いたるところに孤独があるから。誰もが自分の居場所を探している。どこかに属していたいと思ってる。僕はそういう光景を見るのが好きなんだ。そこにいる誰もが、同じだ。この手のパーティーに限ったことじゃないけどね。サッカーファンが、同じチームのファンと会うのだって同じだ。出で立ちは違うかもしれないけど、感じる気持ちは同じだ。あらゆる社会で、素晴らしい人たちと出会って、人に囲まれているのに、何かがもの足りない。人生はこれで大丈夫だって自信をもてるように、色々やってみるけど、人生は僕たちを残して過ぎ去ってしまう。だから、いつも孤独のままさ。でもだからこそ、僕にとって、人と接して写真を撮ることは重要なんだ。そこには美しさと悲しみがある。ルールはない。突き詰めて言えば、どこへ行くにも僕にはカメラが必要だってことだよ。カメラがないと僕にはそこにいる意味がないんだ。
- 文: Timo Feldhaus
- 写真: Maxime Ballesteros