6人のライターと至高のサントラ世界

ジュラシック パークの管弦楽からマイケル・マンのシンセ、ベイビーフェイスのR&Bまで

  • 文: Phil Chang、Kristen Yoonsoo Kim、Vivien Lee、Nicolas Rapold、Ross Scarano、Sam Reiss
  • アートワーク: Tobin Reid

印象的な映像には人生を変える力がある。それを見た人は、新しいヘアスタイルやファッションを、都会を、煙草を、恋人を探しに出ることだってあるかもしれない。しかし、そうした映像を感情に変えるのはサウンドだ。欲望、憧れ、怒り、畏れなど、あらゆる感情を介して、音楽は私たちが観るものに命を吹き込む。エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)のドラムラインが轟かない西部劇、ウェンディ・カーロス(Wendy Calros)のシンセサイザーなしの『時計仕掛けのオレンジ』、「パープル レイン」抜きの『パープル レイン』を想像してみてほしい。映画史に燦然と輝く数々のシーンと、そこにムードを与える音楽を切り離すことは不可能だ。今回は、6人のライターたちが、映画を作った音楽のなかから、それぞれ一押しの素晴らしい挿入曲、歌、シーンを紹介する。

スティーブン・スピルバーグ監督
『ジュラシック パーク』(1993)

2、3年前、サンタ モニカにある友人たちが暮らすアパートで、僕は、子ども時代に夏休みを過ごしたロサンゼルスと、大人になった今、仕事で足を運ぶようになったロサンゼルスとを隔てる10年余りの断絶について考えていた。僕らは改装がほぼ済んだセンチュリー シティ ウェストフィールドに開店したばかりの、とあるレストランで夕食をしようと話していた。その「センチュリー シティ」という言葉が、僕に昔の自分を思い出させたに違いない。それは90年代半に子どもだった僕、フィジカル エフェクトと海洋テーマを偏愛するスティーブン・スピルバーグ(Steven Spielberg)とジェフリー・カッツェンバーグ(Jeffrey Katzenberg)のふたりが開いた、「ダイブ!」という新しいレストランに行きたいと両親にせがんだ僕だった。夢の世界での数々の体験は、僕の成長期の想像力を羽ばたかせたが、その羽ばたかせ方についてある疑問が浮かんだ。果たしてそういう場所は、大人になった僕にも同じ反応を呼び起こすだろうか?

僕は友人たちに謝って、「どうしてもユニバーサル スタジオに行きたい」と言った。幸いにして友人たちはテーマパークが大好きだ。実を言うと僕がそこで再訪したかったアトラクションはたったひとつ、ジュラシック パーク リバー アドベンチャー ライドだけだった。昔から僕は研究施設に関する映画が好きで、『ディープ ブルー』とか『遊星からの物体X』、『エイリアン』、『スフィア』なんかがお気に入りなのだが、1993年の『ジュラシック パーク』は、孤島を舞台に企業の馬鹿げた大プロジェクトがとんでもない事態に陥るという筋書きの映画では、間違いなく断トツの作品だ。僕がユニバーサル スタジオを前回訪れたのは1996年、『ジュラシック パーク』のアトラクションがオープンした年だった。ご想像通り、10歳の僕の脳みそは完全なる超新星爆発を起こした。僕に関する限り、このライドは『ジュラシック パーク』が実在することの証だった。僕はゲートで燃え盛るトーチの熱に炙られ、電柵の爆ぜる音を聞き、横にインジェン社のロゴの入ったクレートを開け、SUV車くらいある巨大なシダをかきわけ、そして映画の世界からかっぱらってきたとしか思えない、売店のグリーンのゼリーを味わった。

ライドの順番を待つ曲がりくねった列に無我夢中で並びながら、僕は畏敬の念と恐怖の入り混じった高揚感に押しつぶされそうだった。ジョン・ウィリアムズ(John Williams)が何度も語っている、彼が画期的かつ完璧な二大ヒット曲のコンボ、「ジュラシック パークのテーマ」と「ジュラシック パーク視察旅行」によって喚起しようとした通りの感情だ。ダムの壁を滑り落ちてTレックスの待ち伏せを命からがらかわしたおかげで、僕たちはびしょ濡れでボートを降りた。降りる前に僕たち一家の隣にいた人たちは、こんなに罵り言葉を使う子どもは見たことがないけど、恐竜たちをいちいち指さしては映画の登場シーンを解説してくれてありがとう、と言ってくれた。

そろそろお気づきだろうが、ジュラシック パーク リバー アドベンチャー ライドで当時の面影を持ちこたえていたものはほぼ何一つない。アニマトロニクスは古ぼけて塗り替えが必要だし、植物は貧弱だ。売店に置いているのは他の映画のグッズばかり。ライドのフィナーレを飾る「落下」は、道路のスピード防止帯を加速しながら越えていくほうが幾分スリリングだろう。にもかかわらず、待機エリアに散らばる岩の背後に隠されたスピーカーから、悲しげな軋み音とともに「ジュラシック パークのテーマ」と「ジュラシック パーク視察旅行」が鳴り響いた瞬間、そうしたすべての荒廃は洗い流される。瞬時にあなたは1993年に『ジュラシック パーク』を観たその場所へと連れ戻され、ジープ ラングラーから押し合いながら降りるグラント博士やサトラー博士と並んで、生きて呼吸するブラキオ‐ファッキン‐サウルスがヌブラル島のなだらかな丘の上で柔らかな光に照らされる姿を、目を丸くして呆然と見つめることになる。

7歳だった僕は、弦楽器のパートがホルンに移り変わると同時に脳の神経網を駆け巡るちくちくとした刺激を処理しきれず、香港の映画館の座席に見事にくぎ付けになっていた。それでも、これからの一生で偉大なる未知に心を奪われるたびに、この永遠のスコアが頭のなかで密かに鳴り響くだろうことを、どういうわけか完全に悟っていた。そうじゃなければ、クラスメートがアイスクリームと引き換えに、僕にTレックスの骨格のシルエットを―スケートのロゴが流行り出す以前の話だが―ノートの表紙に描かせるようになるわけがない。そうじゃなければ、中学のブランスバンドの団員を説得し、つまりは団体交渉を組織して、秋のリサイタルでは「ジュラシック パークのテーマ」と「ジュラシック パーク視察旅行」、またはそのいずれかしか演奏しないと教師に通達したりするわけがないのだ。

ジョン・ウィリアムズは他に代えがたい映画への貢献を果たしてきた。だが真にその才能の鉱脈を見出したのは『ジュラシック パーク』の挿入曲だった。そして「ジュラシック パークのテーマ」と「ジュラシック パーク視察旅行」は、光り輝く宝玉だけでできた作品群の頂点に君臨する光り輝く宝玉のようなサウンドトラックのなかでも、とりわけ光り輝く宝玉だ。この2曲全体にちりばめられたモチーフが僕らの爬虫類の脳とやらを刺激する仕組みを解説している記事は山ほどある。だが、僕個人としては単純に永遠の感謝があるだけだ。冷めたアイロニーによってますます化石化するこの時代に、いったい僕らはなぜ物語を語ろうとするのか、それは生の感情を揺り動かすためであることを、ひとつの音楽がこれからも永久に思い出させてくれるのだから。

ジョン・ウィリアムズ、ありがとう。

Phil Changはニューヨークを拠点にするインディペンデント クリエイティブ ディレクター、ブランド ストラテジスト。Apple、Nike、Netflix、Calvin Klein、SSENSE、Bottega Veneta、adidas、Samsung、HBO、The Museum of Modern Art、Dropbox、ESPN、A24、Arc'teryxなど、業界をまたぐ様々なクライアントと多種多様なプロジェクトに携わる好機を得る

フォレスト・ウィテカー監督
『ため息つかせて』(1995)

「吐息が終わりなのと同じように吸う息は始まりだ。たったひとつ必要な確信は、ひとつが終わるとき、新たな始まりがそこにあると知っていることだ」。詩人のクラリッサ・ピンコラ・エステス(Clarissa Pinkola Estes)は、女性の原型を主題にした私の愛読書の1冊『狼と駆ける女たち―「野生の女」元型の神話と物語』のなかでこう書いている。フォレスト・ウィテカー(Forest Whitaker)監督の『ため息つかせて』(1995)は、本当の愛を見つけてついにため息をつけるその日まで「息をこらえて」いる、シングル女性、女王、恋人、母である4人の友情物語だ。ホイットニー・ヒューストン(Whitney Houston)は既婚男性に恋をしている。レラ・ローション(Lela Rochon)は別れた男と手を切れない。アンジェラ・バセット(Angela Bassett)の夫は、彼女を捨てて白人女のもとへ去る。ロレッタ・デヴァイン(Lorretta Devine)が産んだ子どもの父親はゲイだった。栗色のローライトを入れたヘアスタイル、ブラウンの口紅、ココア色のネグリジェ。90年代の美の女神たちがまとう豊かで輝くような色彩にあふれる映画はもちろんだが、ベイビーフェイス(Babyface)によるサウンドトラックのラブ バラードの数々は、とりわけ記憶に鮮やかだ。そのサウンドは、シングル ライフの迷路を生き抜いていく4人の黒人女性たちの心の変遷を、情感とともに切り取ってみせる。

この物語、そしてサウンドトラックで私がなにより気に入っているのは、ロマンスを超えた、様々なテーマが織り込まれていることだ。それは私たちに女性の成長と癒しのもとを垣間見せてくれる。たとえばハードな1日のあとの電話や、TLCの曲をかけて家で踊ること、深夜のラジオDJ。混み合った店に普段よりちょっぴり堂々と入っていけるのは、ブランディ(Brandy)がかかっているから。トニー・ブラクストン(Toni Braxton)、メアリー・J・ブライジ(Mary J. Blige)、アレサ・フランクリン(Aretha Franklin)、ブランディ、チャカ・カーン(Chaka Khan)、ソーニャ・マリー(Sonja Marie)といった、ソウルフルな黒人の女性R&Bアーティストがずらりと顔を揃えた、至上の構成のおかげなのかもしれない。だが、彼女たちがここで巧みに伝えるのは、ひとりひとりのキャラクターの感情の美しさと、その必然的な幅だ。大切なのは彼女の怒り。彼女の献身。彼女の失望とそれを乗り越える強さ。彼女の前進。彼女の変化。彼女の友情。そこで流れる音楽は究極の「愛をあきらめない」プレイリスト、愛を探すメロドラマのプレイリストにふさわしい。どの曲もまるで流れる水のように次の曲へとつながり、すべてを委ねて深いため息をつきたくなる。初デートのときにステレオでかけるならこれだ。あるいは失恋した直後に、美容院で物思いにふけるときのBGMにもふさわしい。ホイットニー・ヒューストンの問いかけじゃないけれど、「何でみんなこういう曲を書くの? おかげで信じたり夢見たりしたくなっちゃうじゃない」

Vivien Leeはニューヨークとソウルを拠点とするライター兼DJ。『New York Magazine』、『Document Journal』、『Observer』、その他多数に記事を執筆している

マイケル・マン監督
『ザ クラッカー / 真夜中のアウトロー』(1980)

シンセサイザーの音色が永遠に続くことに、僕はいつも感嘆する。鳴らし続けるために、息を吹き込んだり、弦をかき鳴らしたり、弓を動かしたりする必要もない。それはまるで音楽のなかに流れる時間との、新たな関係性のようにも感じられる。たぶんそれに一番近いのは、ずっと鳴らし続けられる、高らかに響く教会のオルガンの音色だろう。マイケル・マン(Michael Mann)監督の『ザ クラッカー / 真夜中のアウトロー』はそんなコードの重なりで幕を開ける。夜のシカゴの街に霧のように音が流れ、金庫破りの一味が「仕事」に取り掛かる。ひとりの男が警察無線を手に車に座っている。もうひとりは建物の警報装置の配線をいじり、どこか奥のほうで、ジェイムズ・カーン(James Caan)演じる親玉のフランクが巨大なドリルを手に金庫破りにいそしむ。フランクが鉄を破壊するにつれ、音楽はスタッカートの効いた旋律へと変化し、軽快に疾走する。時折、挿入曲を貫くように、エレキギターのリフが雷鳴のように轟く。高まる鼓動のようなビートは、ひとたびフランクが金庫のなかに入ると収束し、車で逃走する場面では高音が回帰して、数時間後に夜明けの光が差してくることを暗示する。お宝はしまい込まれ、一味は解散する。何事もなく。

「Diamond Diary」は本作のサウンドトラックにおける主要な3つのシーケンスのひとつで、ドイツのバンド、タンジェリン ドリーム(Tangerine Dream)が担当している。ウィリアム・フリードキン(William Friedkin)監督の『恐怖の報酬』や、『卒業白書』の夢のような地下鉄シーンの音楽を担当したアナログ シンセサイザーの巨人だ。ここでは、彼らの音楽はまるでフランクのインダストリアル寄りの仕事に合わせて作った特注のように思える。初めは順調な仕事の進み具合を、次にはサスペンスを表現するその楽曲は、腐敗したギャングどもと汚い警察に対峙する、裏稼業の倫理と盗人の仁義を彩るサウンド トラックだ。このシンセサイザー曲がフランクの仕事とシカゴの街のムジーク コンクレート―具体音楽と交じり合う。

だが、タンジェリン ドリームは、シカゴ ブルースの故郷を舞台とする映画に選ばれて当然な選択肢とは言いがたく、マン監督もその点は考えた。カーンとチューズデイ・ウェルド(Tuesday Weld)がバーで会う場面では、ノース サイドのナンバーがライブで演奏される。歩きながらつい頭でリズムをとってしまう、マイティ・ジョー・ヤング(Mighty Joe Young)の「Turning Point」だ。だがタンジェリン ドリームの長大なシーケンサーには、『ビバリー ヒルズ コップ』の「Axel F」のような、80年代のクリシェとなった軽やかなシンセとはまったく違う、新奇で有無を言わせない力がある。タンジェリン ドリームの重量級のサウンドは今も僕を魅了してやまない。まるで地の底から湧いてくるようなそれは、誰かが「演奏」しているところを想像するのが難しいほどだ。

マン監督が意図していたかどうかも僕にはわからないのだが、こうしたどっしりしたシンセサイザー音楽は、どこか脆さを持っている。もちろん、そうしたサウンドはぞくぞくするほど冷たく、硬く、金属的ですらある。だが、そのパワーはふっと消えるかもしれない。スイッチが切られることだってある。『ザ クラッカー / 真夜中のアウトロー』のラストで、タンジェリン ドリームの演奏ではないが、ピンク フロイド(Pink Floyd)ばりのエレキギターの雄たけびとともにサウンド トラックが盛り上がるなか、フランクは自宅を爆破し、ギャングのボスを追い詰める。この場面は前科者のニヒルな退場戦略として描かれているが、それを語るのは音楽だ。タンジェリン ドリームが作り上げた荘厳なシンセサイザー音楽が崩れ去り、永遠のコードが途絶えたとき、死すべき人間の時間は、再び早回しで進んでいく。

Nicolas Rapoldはニューヨーク出身の編集者、ライター。『The New York Times』紙に定期的に寄稿するほか、『Artforum』、『Reverse Shot』などで記事を執筆している。2016年以降、雑誌『Film Comment』の編集長を務め、ポッドキャストを運営する

ミゲル・ゴメス監督
『熱波』 (2020)

長年、ポルトガルの映画監督ミゲル・ゴメス(Miguel Gomes)の映画とそのサウンドトラックのおかげで、私は悲しきホリデー シーズンを生き延びてきた。2015年の12月の思い出は、ひとりぼっちでリンカーン センターに出かけ、ゴメス監督の長い長い6時間強もある壮大な叙事詩『アラビアン ナイト』3部作をぶっ通しで観たあと、映画の音楽的主役ともいえる「Perfidia」のいろんなバージョンを聴きながら寒風吹きすさぶアッパー ウエスト サイドをさまよったこと。エンドクレジットが終わったあとも、このプレイリストをかけながら自分自身の報われない思いを煮詰めているうちに、いつしかひそかなる苦悩はロマンティックな気分に変わっていったのだった。

それを遡ること数年前のクリスマス、私の脈打つ心臓をこの胸から力任せに引きちぎってくれたのが2012年の映画『熱波』だ。ふたつの時空を舞台とするゴメス監督のモノクロ劇は、アフリカにおける植民地主義と現代のポルトガル政治へのその残響を描いているが、同時に誰かの個人的記憶をのぞき込む、親密で魅惑的な物語でもある。人生でこれほどロマンティックな作品は、他に数えるほどしか観たことがない。第2部で、語り手のジャン・ルカは60年代の一時期、アウロラという名の人妻と交わした熱い情事を回想する。ちなみにジャン・ルカの声はゴメス監督だが、演じるのは絶世の美男カルロト・コッタ(Carloto Cotta)だ。こうした追憶の断片に会話はなく、その代わり、語りとともに衣擦れのような音と胸を揺さぶるオールディーズのカバー曲がそれを満たしている。なぜかそのほうが、このまばゆくエロティックな映像を彩るのにふさわしいのだ。レ サーフス(Les Surfs)が演奏するザ ロネッツ(The Ronettes)の「Be My Baby」のスペイン語カバー「Tu Serás Mi Baby」が2度流れ、そのたびにそれぞれ別の登場人物が画面で泣き、私は2度とも一緒に泣く。

だが、私にとって人生の宝物というべき1曲のレコード針は、このふたつの場面のあいだに落ちる。それはザ ラモーンズ(The Ramones)によるザ ロネッツの「Baby, I Love You」のカバー。ゴメス監督はBGMとしてではなく、ライブ パフォーマンスにこの曲を使った。ジャン・ルカのバンドが、プールサイド パーティでこの曲を演奏し、フロントマンのマリオが口パクで歌うのだ。ただしザ ラモーンズがこの曲をカバーしたのは1980年だから、これを使ったのはちょっとおかしいし、時代が前後する。歌詞はジャン・ルカの口から出るのではないのだが、その最初の数節はこのシーンの直前に映し出された彼とアウロラの道ならぬ官能のふれあいに、より深い文脈を付け加える―身を焦がす恋情という文脈を。「Have I ever told you / how good it feels to hold you / it isn’t easy to explain. (君に話したっけ / 君を抱くとどんなに幸せか / うまく言えないんだけどさ)」…。

Kristen Yoonsoo Kimは韓国で生まれ、ニューヨークを拠点として活動する映画評論家。『New York Times』に記事を執筆している

スティーブン・ホプキンス監督
『ジャッジメント ナイト』(1993)

映画業界でいいことのひとつ、というか、たぶん最高なことは、それが山ほどの仕事を作り出す点だ。映画が完成するためには仕事、仕事、さらに仕事が生まれる。照明技師たちはライトをセッティングし、助手たちは部門を回す。主任代理や技術スタッフ、美術主任、セットデザイナーがいて、ケータリング係がいる。ひとつの映画でいい働きをすれば、別の映画で活躍するチャンスにつながったり、もっと大きなポジションに出世できたり、あるいは単に仕事を続けられたりする。日照り続きの転職市場で、組合を基本にした映画の製作は、わずかに残ったおいしいマーケットのひとつだ。そのなかで、音楽監督の仕事はだいたい、読んで字のごとし。1990年代にインディアナ州から出てきた新卒のハッピー・ウォルターズ(Happy Walters)が、エミリオ・エステベス(Emilio Estevez)主演の三流アクション映画を皮切りに、ひとつの音楽ジャンルが誕生したと言えなくもない過程でやってきたのもまさにこの仕事だった。

ウォルターズが (その他大勢と一緒に) 監督し、プロデュースし、実現させた『ジャッジメント ナイト』のサウンドトラックは、本来の主役よりも長生きする、よくある付属のおまけみたいなものだ。リアリティTV番組から派生したミームとか、美術館のきれいな絵葉書と言ったらいいだろうか。映画はたしか、警察についての話だったような気がする。でもそのサウンドトラックのほうは、警察についての曲を書いているラッパーやロック グループの競作だ。バンドは人気アーティストから批評家の秘蔵っ子、落ち目のグループまで全方面をカバーし、ラッパーは大物、ニューフェイス、ソロからグループまで何でもござれ。いいレコードなのかと訊かれると答えに困るが、変化に富んだレコードではあるし、ラップ ロックとか、ニュー メタルとか、そういう名前のジャンルを生んだ音楽的多様性を持ち、映画の公開後10年以上も生き延びている。『ジャッジメント ナイト』以前、このジャンルはレイジ アゲインスト ザ マシーン(Rage Against the Machine)のレコードとか、複数アーティストコラボ曲とかで、ちらほらと顔を覗かせてはいた。そして『ジャッジメント ナイト』以後、それは確立した。

2年ばかり前に出た、このレコードについての『Rolling Stone』誌によるオーラル ヒストリーを読むと、思惑と策略に満ちた上院選に関する政治記事を連想する。アーティストたちは囲い込まれ、マネージャーをつけられ、大金を稼ぐ。だが、ラップの世界では1年が10年にも感じることもあるのに、この1993年の音楽はよそよそしくも魅力的だ。インダストリアルな響きのヘルメット(Helmet)とハウス オブ ペイン(House of Pain)のコラボ曲からすべてが始まる。アイス-T(Ice-T)とRun DMCはそれぞれのトラックでだいたいシャウトしてるが、それがいい。サイプレス ヒル(Cypress Hill)は2度登場する。なかには南カリフォルニアが舞台の高校生映画のイントロみたいな曲もある。ここにあるのはゴールポストの混沌だ。このレコードはラップの背後にある多様な製作手法のコレクションとして成功している。

それはすべて、金のある業界がアーティストたちに好き勝手にアイデアを試させ、何が残るかを見る余裕があった時代の確かな記録だ。残ったものだってある。ウォルターズはコーン(Korn)とインキュバス(Incubus)のマネージャーになったし、ロック フェスのオズフェストだって実現した。アイス-Tはメタル グループで歌っていたが、今も歌っている。ウォルターズはこの少しあと、『スポーン』のサウンドトラックで再びコラボレーションの実験作を監督した。そのメタルとエレクトロのマッシュアップは、言ってみればサウンドの続編だろうか。

Sam Reissは『GQ』でビンテージの服についてのニュースレターを執筆し、Inverse.comではパワーリフティングと栄養学について執筆、また家具やデザイン、その他のテーマについて『GQ Style』、『ESPN』などで執筆している

バリー・ジェンキンス監督
『ムーンライト』(2016)

映画のなかで、サザン ヒップホップが意味を持って取り上げられた例は、新聞で取り上げられた機会よりもさらに少ない。ヒット曲「Project Bitch」を生み、キャッシュ マネー レコード(Cash Money Records)が手掛けたニューオーリンズが舞台のクライムドラマ『Baller Blockin』(2000)、メンフィスの伝説的グループ、スリー 6 マフィア(Three 6 Mafia)が曲を書きおろした『ハッスル&フロウ』(2005)、アウトキャスト(OutKast)の『Idlewild』(2006)といった数えるほどの例外を除いて、これといったものはない。サザン ラップが存在しなければ、ヒップホップは現代音楽で一番人気のジャンルにはなっていないのに、出入りするのが巨大シネコンだけなら、そのことを知るよしもないのだ。

バリー・ジェンキンス(Barry Jenkins)監督によるアカデミー作品賞受賞作『ムーンライト』(2016)は、最初のショットが映る前に「通」の聴き手に向かって頷きを送る。耳を満たすのは、浜辺を洗う波の音と、ボリス・ガーディナー(Boris Gardiner)が「Every n***** is a star(すべての黒人はスターだ)」と歌う声だ。なあんだ、とあなたは思うだろう。設定はフロリダでも、やっぱり芸術となると南部以外に信用を求めるのか、と。だが音量を上げて『ムーンライト』をもう一度観てほしい。ガーディナーの声にかすかな、しかし重要な揺らぎを聴きとれるだろう。そう、スクリューが効いているのだ。

DJスクリュー(DJ Screw)の伝説は、色褪せることなく今も語り継がれる。1990年代初め、ヒューストンのロバート・アール・デイヴィス・ジュニア(Robert Earl Davis, Jr.)は、音楽の可能性を永遠に拡大するあるDJ手法を考案した。レコードのテンポを落とす、つまりスクリューと、さらにつんのめるようにいくつかのビートをリピートするチョッピングを組み合わせた技だ。ふたつのターン テーブルでピッチ コントロールとクロスフェードを使い、デイヴィスは地元のアーティストたちや同輩たちのフリースタイルをフィーチャーした、オリジナルのミックスを友達のために作り、他に人気レコードのチョップド&スクリュード バージョンも手掛けた。そうしたテープはコミュニティに捧げるこの世を超越した美しき賛歌、一室に集まった仲間たちが代わる代わる創り生みだすものへのオマージュだった。そういえば今年、「So Tired of Ballin」という24分間のトラックが発掘されたが、それはジョージ・フロイド(George Floyd)による歌詞がそこに入っていたためだった。とまれデイヴィスのお手製テープは街じゅうで引っ張りだこになり、やがてスクリュー テープと呼ばれるようになった。デイヴィスは自宅でテープを売っていたが、1998年に自分で店を開き、自作の音楽だけを置いた。2年後、彼はコデインの過剰摂取によって死んだ。

『ムーンライト』は、映画の前半にはかからないにしても、チョップド&スクリュードをサウンドトラックに使った最初のメジャー映画だ。オープニングのあと、初めてそのリアルな味わいを感じられるのは映画の第3章だ。主人公のシャロンはアトランタで暮らしている。クスリを売り、車体の低いカトラス シュプリームを乗り回して、金歯と彫刻のように磨き上げた筋肉の鎧に隠れて虚勢を張っている。夜、ドライブしながらチョップド&スクリュードの曲を聴くのは最高だ。街角を曲がり、街灯の黄色い光の溜まりを追いかける車の気怠い走りは、スピーカーから流れるゆったりとしたボーカルと鏡映しだ。時間が拡大されていく。ヘッドライトが放つ柔らかな光線と、ダッシュボードのほのかな明かりに照らされ、世界全体が幽玄に満たされる。住宅地の駐車場でハンドルを回しながら、シャロンはエリカ・バドゥ(Erykah Badu)の「Tyrone」を聴いている。ダッシュボードに置かれた王冠は、シャロンがハンドルを切るたびにきらめくが、少しも動かない。彼は急いではいないのだ。「Take my pills, pay my bills/I'm here to let you know that what I feel is real(薬を飲んで、勘定を払って / ここで私のリアルをあなたに教えてあげる)」バドゥはDJスクリューが始めた甘ったるいスタイルで歌っている。そういえば、DJスクリューはミックスでR&Bを素晴らしく効果的に使ったのだった。しばらく後で故郷マイアミへと戻るシャロンのお供は、チョップド&スクリュード バージョンのジデーナ(Jidenna)の「Classic Man」だ。

こうした数々のシーンは短くてさりげない。凡庸な監督なら、そういう瞬間を派手に演出して、この音楽を使うことを思いついた自分の才能に悦に入ったかもしれない。面白いことに作曲家のニコラス・ブリテル(Nicholas Britell)はジェンキンスに教えられるまでチョップド&スクリュードという言葉を聞いたこともなかった。ジェンキンス監督は音楽を物語の筋立ての一部として使っている。映画の登場人物にとって、チョップド&スクリュードは、生活のなかの音のひとつにすぎないのだ。

Ross Scarano はブルックリン在住のライター兼エディター

  • 文: Phil Chang、Kristen Yoonsoo Kim、Vivien Lee、Nicolas Rapold、Ross Scarano、Sam Reiss
  • アートワーク: Tobin Reid
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: November 20, 2020