クラウド随想
空の雲が見えなくなる未来
- 文: Lio Min

本物じゃない雲と本物の雲の共通点は、どちらにも破壊力が潜んでいることだ。でも本物の雲なら、どれほどの豪雨だろうと、いつかは降り止む。地上は惨害を被っても、新たな出発がある。「嵐の前の静けさ」はよく聞くけど、「嵐の後の静けさ」だってある。だからこそ雲はいつだって、静けさ、広がり、希望を暗示するのに、そんな本物の雲がどんどん過去の遺物になっていく気がする。未来は本物じゃない雲の世界にある。途方もなく高額な医療費の弾痕を絆創膏で塞ぐに等しい「ウェルネス信奉」はパンデミックに蹂躙され、政府はあからさまな化学兵器で抵抗集団を潰そうとして、文字通り、世界は炎上している。
私たちは今、本物じゃないのに本物みたいな雲の時代にいる。PhlemunsやLouis Vuittonは絵画のような雲をプリントしたけれど、雲というのはもともとが漫画チックだ。Lazy Oafのピクサーのアニメのように完璧な雲や、リリカ・マトシ(Lirika Matoshi)とディズニーのコラボレーションは、存分にカワイイ要素を発散している。マトシの「バイラルになった」ストロベリー ドレス」は、雲がモチーフでなくても、たっぷりのチュールが雲を思わせる。90年代の終わりや2000年代の初めには、もっと抽象的な表現の雲が復活した。再びUNIFが雲をモチーフに選んだし、Collina Stradaはお得意のタイダイで夢のような雲の世界を描いた。いずれにしても、雲は柔らかさを象徴し、大抵の場合、雰囲気も外見も女性的であることは変わらない。
雲の形は決して棘々しくないし、ハワイ風トロピカルや狩猟用カモフラ-ジュみたいな他の自然界プリントより、目に優しい。子供部屋を塗り替えるDIYガイドには雲の図柄があって、無意識に描かれたであろう子供らしくカワイイ雲は、いかにも女性的だ。若い白人女性であることを熟知して、そのことにうっとりしているラナ・デル・レイ(Lana Del Rey)が、間もなくリリース予定のアルバムに『Chemtrails Over the Country Club - カントリークラブの上の飛行機雲』というタイトルをつけたのも、驚くにはあたらない。本物の雲に昔ながらの本物じゃない雲を重ねたカバーは、自然のまつ毛をつけまつ毛で覆い隠すのと同じことだ。サイバー スペースで従順な女のファンタジーを歌う英国アーティストのtwstは、もっとあからさまに雲と若い女性を結びつけている。EPのカバーは言うまでもなく、モコモコな雲が浮かんでいる「バイセクシャルな照明」のベッドルームが舞台。
雲を表現するときの最大の要素は、例外なく、柔らかさだ。ファッションに限らず、最近のフード界ではやたらと泡立てたダルゴナ コーヒー、ふかふかのミルク トースト、キャンディみたいな色の雲パンが人気を博している。ビジュアル アートの分野でいちばんの雲好きは、アニメ。アニメーション監督の新海誠は2016年の『君の名は』で興行成績を塗り替え、世界に旋風を巻き起こしたが、彼の映画は空模様の研究そのものだ。最新作の『天気の子』は、壮大な雲の祭壇でクライマックスを迎える。聳え立つ巨大な雲は優しく白く、周囲を空の魚が飛び回っているものの、実は犠牲の人柱を捧げる場所だ。人柱を捧げなければ、神たちは東京を水浸しにする。逃げ出した主人公のふたりは、行く手を阻むいくつもの雲を突き抜け、地上めがけて落下していく。雲に対して非常なまでのこだわりを持つ新海は、落下途中の場面に雲のレイヤーを表示し忘れたと気づいたとき、血の気が引いたという。もちろん過ちは律義に正され、市販版にはきちんともうひとつの雲の層が現れていた。

ビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)のミュージック ビデオ「my future」の雨雲に覆われた空は、新海の作品を参考にしている気がする。その他にも、『東京喰種トーキョーグール』のオープニングの壮大な雲のシーンや、少女アニメのセーラ-ムーンの現実離れした空想の背景や、アニメの要素が見受けられる。@meyoco、@maruti_bitaminなど、アニメを見て育った世代のイラストレーターは、「雲っぽい」スタイルで非常に人気がある。空のシンボルがふんだんに登場するだけでなく、描かれるものはどれもふっくらと丸みを帯びて、透明感があり、人も物もちょっと触っただけでシャボン玉みたいに弾けてしまいそうだ。
私たちが雲に投影する柔らかさは、儚さの裏返しだ。のどかな世界、変わり続ける形、もっと確実な変化へ向かうための通過点、それが雲だ。気象としての雲を研究する雲学はあるけれど、私たちの大多数は、到来するものを報せる兆候として雲を見る。ブランドン・テイラー(Brandon Taylor)の小説『Real Life』で私が引き込まれるのは、主人公ウォレスが周囲の自然を観察するくだりだ。もっとも彼の場合、そこから生まれるのは、社会から切り離されて、自覚なき差別に満ちた学究人たる自分への嫌悪だ。ウォレスの無気力と落胆を強調するテイラーは、ウォレスの目を雲からも背けさせる。「ウォレスは、雲を眺め、その緩慢な言語から兆候や前兆を読み取れることを願っただろう。だがそれには、高位の権威、高次の秩序を信じることが必要だった」
ところが、神も同然の全面的な支配力と影響力を持つ本物じゃない雲が、もっとも強硬な懐疑論者にとってさえ現実に存在する。クラウドだ。遠隔サーバーの共同利用を核とする「クラウド コンピューティング」の理念はコンピュータが誕生したときから存在していたが、私たちが「雲」ではなく「クラウド」と呼ぶときは、『エイリアン』の前日談として製作された『プロメテウス』(2012年)の星座プロジェクション マッピングが頭に浮かぶかもしれない。「クラウド」という呼び名自体は、もともとブランディングのツールとして色々な業界で使われていたのだが、インターネットを含めたコンピュータ ネットワークに「クラウド」の呼び名を思いついたのは90年代後半、独立したインターネットを見渡して、オンラインこそ将来のビジネスであり、誰もが金を払ってでもパイオニアになりたがることを予見したテック企業の経営陣だった。

「クラウド コンピューティング」という新語を造り出したと思われるひとりは、拡大し続けるウェブの構想を、「クラウドには境界線がない」と端的に要約した。「思われるひとり」と断ったのは、商標をめぐる初期の闘争の結果、「クラウド」の起源はいまだに争点のままだから。まさしく空の雲と同じように、波乱の未来の前兆だったわけだ。何はともあれ、「クラウド」と「クラウド コンピューティング」は2000年代中頃に大きく成長し、「ディスラプション」や「暗号通貨」と同種のハイテク流行語になり、それにつれてクラウドには境界線ができた。なかでもMicrosoft、Google、Alibaba、Amazonが、インターネットという目に見えないインフラストラクチャの大部分を提供している。ビッグ テックの領土を逃れる術はない。私たちが連動させているものはすべてクラウドの中にあるのだし、クラウドという領土を守る管理人以外のすべての人にもクラウドが実在するという思い込みこそ、現代の最大の幻想だ。
では、私たちは実在する本物ではないクラウドからどこへ向かうのか? 当然、原初への回帰だ。オンライン世界には、コテージコア、俗にいう森ガールがずいぶん前からいる。Tumblrには、みずみずしく生い茂った樹々、澄んだ空気、現代病からの隔離を理想化したイメージが溢れている。付け合わせは、ジブリ映画に出てくるような可愛らしい家、スウェーデンの田舎町を舞台にした『ミッドサマー』の衣装に使えそうなドレスだ。野外では新型コロナウイルスの危険性が低いという意見が大勢を占め始めると、隔離場所を確保できる人たちは自然へ逃れた。それ以外の人の多くは、少なくとも地元の公園へ向かった。束の間、世界の目まぐるしいスピードは減速し、タイムラインに「自然の癒し」のミームが登場し、都市部の大気汚染が一時的に軽減した。外出したときのマスクをしてない写真を投稿するときは、必ず背景に空を入れておくことだ。

私だって集団意識、あるいは集団無意識から自由ではない。この6か月にやったハイキング、キャンプ、ランニングは、それまでの人生での合計より多い。『マイ プライベート アイダホ』とか『パリ、テキサス』とか『ザ ライダー』とか、消費するメディアでさえ、安心できる深呼吸、巻雲が浮かぶ果てしない青空への憧れを反映している。でも実を言うと、私は数年前から雲模様のプリントに憑りつかれていたから、とりたてて目新しいことでもないのだ。前から空の雲を見上げてきたし、今では至るところに雲がある。そのことに初めて気づいたときは、校庭で友だちと雲を指差しては形を言い争った子供時代へ戻った気がした。通りを下がったところにある小学校の、ずっと空っぽのままの校庭を通り過ぎるとき、子供たちの雲判断のことを考える。
空を見上げて本物の雲を見られるのは、あと何世代だろう? 雲を見られるという恩恵がすでに失われてしまった場所が、世界には沢山ある。雲を見るのは必ずしも未来を占うためではない。雲を見るという行為自体がすでに、未来への期待を意味する。空を見上げて空想することの価値を認める人はいないけど、空に浮かぶ本物の雲は夢想を掻き立てずにはおかない。この世界に何を期待するか? この世界の何が満たされない欲求を生むのか? 私は雲に憧れる。雲が表すものに憧れているのだろうか、それとも雲を見ることだけに憧れているのだろうか?
もしかしたら、兆しを探しているのかもしれない。去年の暮れから私は変わり始めた。具体的に一番はっきり現れた変化は、定期的なランニングだ。走るときの私は空を流れる雲になる。汗が雲となって、私を包む。呼吸する毎に、小さな雲が私のマスクを膨らませる。風が強い日はシャツが大きくたなびいて、私の胸の輪郭を呑み込んでしまう。束の間訪れる平穏の瞬間に、鬱々とした気分は消え、ニュースやフィードや私自身から解き放たれて浮遊する。本物ではないけれど実在する私の雲だ。そしてそんな瞬間が去った後も、雨に変わる前に煌めく儚い存在の感覚は消えない。
Bio: Lio Minは、通常、音楽に関する記事を執筆する。男たち、バンド、ロサンゼルスをテーマにしたデビュー小説が近く出版予定
- 文: Lio Min
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: November 27, 2020