Pablo、Romy、Cali

アンダーグラウンドのルネサンスマンCali Thornhill Dewittが、サブカルチャーとメモリアル・スウェットシャツについて語る

  • インタビュー: Thomas Jeppe
  • 写真: Thomas Jeppe

アーティストのCali Thornhill Dewitt(カリ・ソーンヒル・デウィット)は、生粋のロサンゼルス人間だ。彼の経歴には、パンクからアート、そしてセレブリティのグループに至るまで、周辺の集合と定義するのがもっとも相応しい都市LAの、数多くの文化的創造が反映されている。今や有名になったデウィットのメモリアル・スウェットシャツは、そうした要素に満ちており、西海岸のギャングがフリーマーケットで行なっていたデザインと、ハリウッドの大物たちへの個人崇拝を結び付けている。そして、ひとつのアイデアがいかに素早くバイラル化するかを示す格好の例である。ベルリンの雑誌「032c」のために、60年代の人気女優Romy Schneider(ロミー・シュナイダー)へ捧げたメモリアル・スウェットシャツを制作するや、デウィットのデザインはKanye West(カニエ・ウェスト)のアルバム「Life of Pablo」のスウェットシャツで中心的な役割りを与えられた。そして、ついにはForever 21やLAのコピー商品マーケットにまで、様々なバージョンが出回るようになった。非常に精巧な海賊版を作り、オリジナルを作り出した人たちにコピーされること。それがデウィットの夢である。そしてこれは、ローカルのシーンや儚い現実に捧げられた生涯で創造した制作活動の中で、いちばん知られている部分に過ぎない。

アーティストのThomas Jeppe(トーマス・ウェッペ)がデウィットに話を聞いた。音楽の大切さ、彼の美学のルーツ、そしてグローバルなコミュニケーションについて。

Thomas Jeppe

Cali Thornhill Dewitt

トーマス・ウェッペ: あなたが長年にわたってさまざまなサブカルチャーと関わりを持っていることについて、ご自身では、その時々心から納得できるものに惹かれる、と最近言ってましたね。

カリ・ソーンヒル・デウィット: そうだね。しっくり感じるもの、自分が引っ張られるものという意味だったと思う。無意識かもしれないけどね。

そうすると、誠実であるという非物質的な要素から、お互いに相入れないように見えるものにも惹かれるということがも理解できます。

相入れないものなんて何もないと思うけど、自分にとっては。「これをやらないといけない」みたいなルールがこの世にはたくさんあって、門番がいっぱいいるけどね。

もちろん。でも、サブカルチャーって、そうやって定義されるものですよね。形式や言葉によって境界を引くことで。

それが、子供のころ問題だったんだ。ちょうど8歳かそれぐらいのとき、人にからかわれてた。いろんな音楽が好きだったから。

どんな音楽だったか覚えてますか?

たくさん自由があったよ。朝起きて、家を出て、夕食どきに戻って来る。今のキッズたちはこんな生活してないだろうね。外に繰り出して、バスに乗るんだ。若いころは、ほんとに音楽が好きだった。パンクが好きだったんだ。だけど、Duran Duran(デュラン・デュラン)も好きだった。わかるだろ? だから、年上の子供たちが見るんだ。Sid Vicious(シド・ヴィシャス)のTシャツを着て、デュラン・デュランのバッジを付けている。「そんなのやっちゃダメだ」って言われるんだ(笑)。だから「え? どうしてダメなんだ?」って返す。今もそんな感じだよ。今日、このインタビューのために歩いてここまで来たんだけど、Kodak Black(コダック・ブラック)の新しいミックステープを聞いていたんだ。とてもいいね。これで今週はきっと潤うね。もう毎日聞くよ。わかるかな? ひとつのことだけしかしてはいけないとか、ひとつのことだけにこだわらないといけないとか、そういうのって物事を制限しすぎるんだよ。

自分の考えを共有できるコミュニティを見つけたのは、いつですか?

16のときに学校をやめたんだ。世界に飛び出すのが待ち切れなくてね。LAにJabberjaw(ジャバジョー)っていう、年齢に関係なく参加できるスペースがあって、それを見つけたときに学校をやめることにした。パンクやハードコアとはまた違った世界で、奇妙だった。

どんな風に?

まさに、どの年代の人間もいるんだよ。60歳もね。オレのような歳から、60歳のチャールズ・マンソン熱狂者たちまでいるんだ。わかるだろ? ほんとに奇妙だった。

では、そこにいるのはだいたいヒッピー世代ということですか?

いやいや、全員がそうではない。だいたいは25歳ぐらい。だけど、何でもあるんだ。インターネットが生まれる前の時代。Amok Booksを覚えているかい? 彼らはあらゆる奇妙なものをリリースしていたよね。そういう感じなんだ。ジャバジョーにいる人たちを知るようになって、ボランティアをやっていた。つまり、カウンターに立って、コーヒーを配っていたんだ。LAでも、すごく治安の悪い地域だった。しょっちゅうクレージーなことが起こっていたよ。クリップスとブラッズ(LAを拠点とするアメリカの二大ストリートギャング)の縄張りのちょうど境界にあって、抗争の真っ最中だったんだ。ピコ通りとクレンショー通りの交差点の辺りにあって、今はナイトクラブになってる。道の向かいには囚人の更生施設がある。サン・クエンティンやフォルソムの州立刑務所から出所した奴らのために。でも、たしかジャバジョーでは、50人のためにMudhoney(マッドハニー)のようなバンドが演奏していた。Beat Happening(ビート・ハプニング)だったかもしれない。次の日の夜は、ドラッグクイーンのパフォーマンスがあったり。そのまた次の夜は、SM界の重鎮のバースデーなんかがあった。だから、あらゆるアンダーグラウンドな文化が混ざり合っていたんだ。写真家のCatherine Opie(キャサリン・オピー)なんかも出入りしていたし、Goddess Bunny(ゴッデス・バニー:小人症のドラッグクイーン)もジャバジョーのレギュラーだった。Ron Athey(ロン・エイシー)は、その時代からのパフォーマンス・アーティストなんだ。彼はヒーローだよ。彼の写真を見て、自分が16歳だと想像してみろよ。その自分のまわりに彼がいるんだよ。オレがマッドハニーの次にキチガイじみたSMのバースデーパーティがあったと言ったら、ほんとにキチガイじみてるんだよ(笑)。

ひとつのことだけしかしてはいけないとか、ひとつのことだけにこだわらないといけないとか、そういうのって物事を制限しすぎてるんだよ

ということは、80年代や90年代のモダン・プリミティブ(部族社会の身体装飾や身体変形に触発され、ボディピアス、タトゥー、身体改造などを行うムーブメント)世代だということですね。

まさにそう。ほんとの90年代のウィアードだった。LAじゃ、パンクはとにかく暴力的だったし、ギャングがうじゃうじゃいて、そういう人間に会うのは救いだったね。彼らは、オレと同じ対象を攻撃していた。でも、組織的な暴力を用いたりせずにね。Sub Pop(サブ・ポップ)はまだビッグになってなかったし、Amphetamine Reptiles(アンフェタミン・レプタイル)みたいなバンドがみんなプレイしている場所だったよ。

それが、いろんなシーンに対してオープンなあなたの姿勢を形作ったわけですね。

当時も今もね。最近、いっしょに育ってきた奴らのことを考えると、みんな歳をくって、ひとつのことに固執してると思うんだ。「1993年にこんな経験をした。オレはその経験について考えて、そのことを話す」って。オレもだんだん年をくってきて、まわりは「そんな新しいことやってんのか。オレは好きじゃないな」ってなるんだ。新しいことに批判的になる。そもそも新しい言語を学ぼうとしないから。止まってしまうんだ。それが年々積み重なっていく。世界は成長しているのに、ますます関わりを持たなくなってしまうんだ。

それが、ジェネレーションギャップの仕組みですね。

長く生きてれば、自分のまわりに新しい人間の集団が登場してくる。大抵、その95%は2年間目にするけど、その後はまともな生活を始めてしまう。二度と会うことはないよ。何かを与えることのない奴らは、早々に消えるもんだ。なんというか、抜けていくんだよ。クールなファッションに身を包んだ自分の写真が欲しい。そして、マックス・カンザス・シティ(ニューヨークにあったセレブリティが集うナイトクラブ。86年に閉店)なんかに出入りしたい。若いころはそんな生活を欲しがる。ただそれだけで、充分なんだよね。

それは、聞き手の性質という点を突いていますね。つまり、音楽と真剣につながっているけれど、制作するよりも、聞き手の立場から音楽に注意深く専念するという。

そう! それがホンモノなんだ。コミュニティの一員であって、活発なメンバーでいることが、何かを与えるということなんだ。その活動は、自分の望む分だけ大きくすることも、小さくすることだってできる。だから、オレの若いころの夢のひとつは、音楽レーベルを持つことだったんだ。そうすればそのプロセスの一部でいられるからね。2年前には、もう新しいレコードを出すことはないと言ってた。もう充分リリースしたから。でも、今年、Brendan Fowler(ブレンダン・フォウラー)といっしょに新しいレーベルを始めるんだ。LAであるバンドの演奏を見て、それが彼らの初めてのショーだったんだけど、オレらふたりともかなり盛り上がってね。

その新しいレーベルについて教えてください。

Some Ware(サムウェア)という名前。それは、オレたちの新しいシャツのブランドでもあるんだ。LAでパーティをしてきたんだけど、何でもかんでもカタログナンバーを振ってきた。シャツにカタログナンバー、パーティにもカタログナンバーってね。1枚目のレコードはまだリリースされてないけど、今プレスの最中だよ。もうすぐリリースされて、それはカタログナンバーが11になる。レコード・レーベルだからって、レコードにしかナンバーを振れないなんて決まってないから。

メモリアル・スウェットシャツのシリーズと並行して、こうした小規模な活動について考えるのも面白いですね。メモリアル・スウェットシャツの方も、当初は似たようなささやかな規模で制作していました。ところが、ある時点から何かが弾けて、マスに語りかけるようになった。あるときに、不思議な力が作用しましたね。

Forever 21がコピーをしたとき。

そういうことですか?

そうそうそう。

そのコピーは、どんなものなんですか?

何人かがオレに送って来たんだ。書かれていた文字は、新約聖書に出てくるSimon de Cyrène(キレネのシモン)に対するメモリアル。クールじゃないけど、笑えるよ。コピーすること自体は好きだよ。シャツか何かを作って、2年後に地下鉄でそれを中国人女性が着てるのを目にするなんていいよね。オレにとっては、それがシャツを作る理由だよ。

広く出回っていることを、いちばんはっきり知ることができますからね。

一部の人たちは、そのコピーを送って来たとき、オレが怒っていると思っていたんだ。でも、オレにとってはそんなの問題じゃないよ。所有権なんて主張しない。何かにしがみついて、それを大声で主張することもできるけど、あっさり手放したっていいんだよ。オレは後者を選ぶね。

Forever 21に登場するほどの規模になって、もともとの意味が変わることについてはどう思いますか?

それは、同じ意味のままでいられないよね。面白いねじれだと思う。

でも、同時に、このメモリアル・スウェットシャツがどこから来たかということを、あなたは明確に言及していますよね。ロサンゼルスのチカーノ(メキシコ系アメリカ人)にルーツがあるという点で。コミュニティの中にある美学だったわけですよね。

ヒスパニック系のギャングたちが着ていたのをオレが見た、ということを知らせるのは重要だと思う。オレも他の連中も、LAのフリーマーケットで、ほんとに安く作っていたんだ。だいたいが、死人に対するメモリアルなんだ。たとえばエルモンテで、もしオレたちに10人の友達のグループがいて、誰かひとりが死んだとする。そしたらみんなで揃いのを作って、それを着て葬式に行くし、近所でもそれを着るんだ。オレが作り始めたのは、連中が作るのを止めたから。ヒスパニックのギャングが止めたからじゃなくて、もともとみんなが作りに行っていたフリーマーケットの出店が作るのを止めたんだよ。オレ、20枚セットを作ってもらうつもりだったんだ。フリーマーケットに向かって運転しながら「よし、オレは20枚注文するぞ」という感じで。今でもそのリストを持ってるよ。運転しながら、リストを書いていたんだ。Marlene Dietrich(マレーネ・ディートリッヒ)、Harpo Marx(ハーポ・マルクス)、DJ Screw(DJスクリュー)、オレの好きだった20人のリストだよ。その20枚を壁に掛けたかったんだ。真昼に運転しながら、まさにそんなことを考えていた。それで、フリーマーケットに向かったら、もうスタンドがなかったんだ。そこにあったはずが、もうないんだ。「熱プレス機はどこ行ったんだ?」って。LAにもうひとりオレと同じぐらい熱中してるAlexis Ross(アレクシス・ロス)という友達がいたから、電話をしてみた。そしたらアイツは「それは、見つけないといけないな」って。で、ふたりして他のいろんなフリーマーケットを回ったけど、どこも同じ状況だった。だから、アレクシスとオレで、どうしてもやってくれるところを見つけ出さないといけない一大事になったんだ。最終的に見つけ出したのは、ウィスコンシンにある制服のワッペンを作ってる所だった。文字を作ってた奴らも他にいただろうけど、そこはまだ昔ながらのレタリングをやっていたんだ。それで電話して「もう全部終わっちゃった?」って聞いたら、混乱してたよ。「文字抜きやってますよ。高校の制服のために作っています」って。彼らはわかってなかった、オレが気にかけていること、というか…。

絶望。

だから、そこから始めたんだ。熱プレス機を手に入れて、注文をとるようになった。そしたら、すっかりハマってしまったよ。Rene Ricard(レネ・リチャード)が亡くなったときに、スタジオまで自転車で走って、1時間もしないうちにシャツを作って彼の知り合いにあげたんだ。その時から意味が生まれた。これは、誰もができる良い行為だよ。自分のために取っておく物でもないし、売る物でもない。交換するとか、故人に近かった人のためだったり、故人を愛していた人のためだったり。そういうためにあるべきなんだ。

でも、LAのサンティ・アレイに行けば、5ドルで手に入る(笑)。今、また流行っているんだ。これ以上の成果は考えられないよ。

このアイテムが持つノスタルジックな側面に対しては、どのような考えを持っているのか気になります。

メモリアル・スウェットシャツがどこから来たのかを知っている人間なんて、ごくわずかだと思う。でも、今、去年ぐらいからかもしれないけど、ヒスパニック系のギャング文化に対するつまらないノスタルジアが起きている。刑務所にいる奴らのハンカチに描かれている絵とかね。そういうスタイルわかる? そんなの誰もまともに気にしたことなかった。今、みんながそういうものに惹かれても、別にいいんだ。単にデザインが好きなだけなんだから。でも、メモリアル・シャツを作ることの最終的な目標は、どちらかと言えば思いつきから始まって、実現したことが信じられないんだけど、海賊版マーケットに登場することだったんだ。カニエのものでも、「I Feel Like Pizza(わたしは、今ピザの気分:カニエ・ウェストのツアーグッズ「I Feel Like Pablo」のパロディ)」でも、LAのサンティ・アレイに行けば、5ドルで手に入る(笑)。またでも、LAのサンティ・アレイに行けば、5ドルで手に入る(笑)。また流行っているんだ。これ以上の成果は考えられないよ。

過去2年ほどの間に、われわれは世界のいろいろな場所で会いましたね。あなたは、たくさん旅をしています。旅は、制作に何か影響を与えてますか?

影響はあるけど、どんな影響なのかはまだはっきりしないね。何かが起きていても、それを簡単に消化できないんだ。若いころ、クスリのせいか何かはわからないけど、パスポートを取るのにずいぶん苦労した。もっと一生懸命がんばればよかったけど、ちょっと尻込みしていた。だから、オレは19年間アメリカを出たことがなかった。1994年から2013年の間。ほんとに、外に出たくてたまらなかったよ。今は、その失った時間を取り戻しているんだ。

まず最初に、どこへ行ったんですか?

東京。そこで展示会を開くように誘われてたから。大好きになった。東京は大好きなんだ。もう8回ぐらい行ってる。自分にとって第二の故郷と言ってもいい。それもまた音楽がきっかけで始まった関係なんだ。東京にBig Loveというレコード店があるんだけど、そこには小さなギャラリーが併設されていて。彼らはオレのレーベルのTeenage Teardropsのいちばんの顧客なんだ。

そこから、いっきに広がって行きましたね。世界中を旅して、誘いも引く手あまたですよね。

そうだね。そして、同時に自分の作品にも力を注がないといけないようになった。レコード・レーベルをやったり、人のためにグッズをリリースしたりするのは、ずっと自分なりに仕事を作り出す方法だったんだ。オレにはまだ、自分を表に出すというリスクの準備ができてなかったから。そういうことを最初から簡単にできる人もいるけど、オレはずっとそうじゃなかった。それで良かったよ。若いころにそんなチャンスがあったら、きっとムダにしていただろうね。燃やし尽くして台無しにしてただろうね。

今は、自分の作品に力を注いでいると、世間の注目を集めてしまいますよね。プライバシーについてはどう思いますか?

プライバシーは大好きだよ(笑)。きっぱりノーと言ってもいいんだ。カニエとの仕事だって、公にはそのことについて話してないからね。スポットライトが好きな奴らは、自分のことを話して、日に6回もインスタグラムをアップする。オレはそんなことしたくない。匿名でいることは、とても良いことだよ。それが、手に入れられる限りはね。

どうやら、あなたの思いとは逆方向に物事は進んでるようですね。

プライバシーをしっかりつかんでおくこともできるんだ。静かに物事を進めることだってできる。行く先々でガッツポーズをして歩く必要はない。若かったとき、Nirvana(ニルヴァーナ)のツアーに付いていったことがあるんだ。そのときにすでに、自分はこんなに有名で注目を集める存在にはなりたくないってわかってた。誰もが「キャーキャー」って言ってて、まるで竜巻の中にいるようだった。

明らかに、そこまでのレベルに行く必要はないですね。

例えば、新しいコダック・ブラックのミックステープ。オレは好きだよ。でも誰も聞きそうにない。わかるよね? 彼のビデオを見るといいよ。彼はスゴい。ゴールドの差し歯で揃えてる。口の中全部。で、彼はフロスをするのが好きなんだ。フロスで歯を掃除している。自分の歯が全部インプラントだって見せるためにね。彼は歯を嵌めてるじゃなくて、全部入れ替えて金の歯とともに生きているんだ。オレの前歯はフロスできないけどね、ブリッジだから。彼が何を言いたいかわかるよ。それを大事にしているってことも好きだよ。なんせ、彼は若いからね。健康的な歯を全部抜かないといけなかったんだから。とんでもなくスゴいことだよ。オレの歯だけでもかなりの手術だったんだよ。

あなたの金歯は替え歯なんですか?

どうしても金歯にしてくれって、ねばった。1年がかりで、根管17本と9本の歯を抜いたんだ。辛かったよ。

何歳のとき?

ほんの4〜5年前だ。歯がどんどん抜けてきたんだ。ゴールドの前歯の場合は、オレが義母と話しているときに本当の歯が落ちたんだ。こっ恥ずかしかったから、トイレに行って、鏡で見て「なんてことだ!」って。トイレから出て来てからは、なるべくしゃべらないようにしてたよ。そしたら、妻のJenna(ジェナ)が「1本歯が抜けたの? なんで、そんな口の閉じ方してんの?」って。義母は優しくて「歯医者さんに行くお金必要でしょ?」って(笑)。

さすが!

たぶん、でもあなたからはもらいませんよ。

新しい歯が入って良かったですね。

うれしいよ。リンゴも人参も食べてるよ(笑)。ずっとできなかったことをね。

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