歴史を創ったピーター・サヴィル
現代のビジュアル文化を築いた、イギリス生まれのグラフィック デザイナー
- 文: Adam Wray
- 画像提供: Peter Saville
- 写真: Paul Wetherell

ピーター・サヴィル(Peter Saville)は、1本の煙草を吸うのに延々と時間がかかる。話している文の途中で、やおら煙草の箱に手を伸ばす。それはマルボロの白い箱、ゴロワーズの赤い箱、チェスターフィールドの青い箱の順で繰り返される。そうして箱を手に取ると、喫煙する決断を下すまで、しばし考えてから、1本を引き出す。ようやく煙草に火がつくが、そのまま何分も、まったく口にしないこともある。灰皿の縁に置かれたまま静かに燃え続けるか、あるいは四つ葉のクローバーを摘み取るように、丁寧に先端をつまんで火を消される。とにもかくにも、最後にその1本は灰皿で火を消される。程なくして、同じプロセスが新たに始まる。
デザイン会社「メレー ウント メレー」のマイク・メレー(Mike Meiré)は、サヴィルと長い付き合いの友人だ。そのメレーは、サヴィルと話していると「社会的彫像」を見ているような気がすると言う。サヴィルの対話はパフォーマンスに近い。煙草は動きを作るひとつの小さな要素だ。サヴィルは体全体で思考する。上手く言葉が見つからないときは、顔を歪めて両手にうずめ、まるで振付けであるかのように姿勢を保つ。そういう時、私の頭に浮かんだのは、チュイルリー公園にあるアンリ・ヴィダル(Henri Vidal)作の彫像「弟のアベルを殺したカイン」だ。ポートレート写真を撮らせてくれるように、頼めばよかったと今になって思う。
サヴィルの一般にもっとも良く知られている作品は、初期のものだ。例えば、ジョイ ディビジョン(Joy Division)やニュー オーダー(New Order)など、ファクトリー レコーズのバンドのためにデザインしたアルバム ジャケットだ。パンクの反逆精神とモダニスト デザインの秩序ある厳密性を合成した、革新的な作品だった。それらのいくつか、とりわけジョイ ディビジョンの『Unknown Pleasures』に使われたデザインは、レコード ジャケットという元来の枠を超えた、世界的に有名な作品として認識され、中身の曲を聴いたことのない人々でさえ「ああ、あれか」とわかるものだ。
サヴィル自身が認めていることだが、彼の最大の強みは、常に文化の動向をキャッチする感受性であり、文化のビジュアル面に関する彼の視点は大きな尊敬の的だ。アーティストであり16年来のパートナーでもあるアナ・ブレスマン(Anna Blessman)と共同で使っているロンドンのライブ会場兼仕事場には、ポップ カルチャーの歴史が充満している。入口の横で迎えてくれるのは、ニュー オーダーのアルバム「Round & Round」で撮影したルイ14世の胸像だ。サヴィルが発展させた、ある意味、神がかった予言的バイブは、驚くほど多様な作品群を生み出した。例えば、Yohji YamamotoやDiorを初めとするブランドのアート ディレクション、adidasやY-3、さらにはイギリス代表サッカー チームのウェア デザイン、故郷マンチェスターでの10年にわたるクリエイティブ ディレクション、等々。昨年はラフ・シモンズに任されたCalvin Kleinのビジュアル アイデンティティを一新したりと、活発な活動を続けているが、現在の最大の関心は彼自身の作品アーカイブのキュレーションだという。過去30年あまりにわたる未発表の作品群を見直して、ひとつの大きな疑問に対する答えを探す作業だ。すなわち「ピーター・サヴィルは何を表現したかったのか」

Raf Simons 2018年春夏コレクション

私自身も、この疑問を抱いていた。昨年の7月、ニューヨーク シティで開催されたRaf Simons 2017年春夏コレクションでのことだ。チャイナタウンの奥、マンハッタン ブリッジの下を会場に選んだショーでは、印象的な裁断にサイバーパンクのエッジを効かせたメンズウェア コレクションが発表されたが、その中には、サヴィルがほぼ40年前にファクトリー レコーズのために制作したビジュアル イメージを使った一連のウェアがあった。シモンズがそれらのグラフィックを使うのは初めてではなかった。2003年秋冬コレクションにも類似のアイテムが登場したし、現在では、それの多くがRaf Simonsカタログでも最多のファンを獲得している。サヴィルのカラー グラフィックを背中に貼り付けたミリタリー パーカーは、通常、米ドルで5桁の値がつく。サヴィルのイメージ世界が今なおあちこちに登場するのは、どうしてだろう?それが私の疑問だった。
そこで、シモンズにメールで疑問をぶつけてみた。シモンズからの返信は「時代を超越したアイコンだから」の一文のみ。それは理解できる。だが、「時代の超越」とは、一体どういう意味なのか。
ビジュアル年代史を辿るサヴィルの旅路は、実のところ、マンチェスター ポリテクニック校グラフィック デザイン科の卒業を数ヵ月後に控えた1978年に始まった。真面目に勉強しない学生だったサヴィルは、学校の図書館に足を踏み入れることもないまま、学位の取得に必要な講座をなんとか満たしていた。ところが、最後になって、友人から借りられなかった本を図書館で探す羽目になった。そのとき発見した資料が、初期の作品を誕生させる動力になった。
「グラフィックの歴史を記した、正典とも言うべき書物が並んでいる書架を見つけたんだ。それで、20世紀中心の現象であるグラフィックの歴史が、実は19世紀末と20世紀初めの重要なムーブメントから生まれたことが分かった。現代のグラフィックを探っていくと、マレーヴィチ(Malevich)の『Black Square』に行き着く。『2001年宇宙の旅』とインディー・ジョーンズが出会うようなもんだ。そうなると、腰を下して、じっくり考えざるを得なくなる。1977年の11月の終わり、今と同じ午後の3時頃、僕は腰を下して考えた。ちょうど40年前だ。そのとき、自分は何も知らないことがわかったんだ。文化の歴史を、なにひとつ知らなかった。だから、知る努力をすべきだと思った」
サヴィルはグラフィックの正典を自分の作品に取り込み始めた。歴史に残された要素を取り上げて、現代という背景に置き換えた。両者を組合わせた手法の可能性には自信があった。過去の作品との繋がりを理解できる少数のマンチェスター住人と通じ合うことができたし、再使用する作品は正式に価値を認められたものであったから、芸術としての価値が備わっていることは確かだった。だから、ファクトリー レコーズのために制作した最初のコンサート ポスターからヤン・チヒョルト(Jan Tschichold)を連想できる人間がだれひとりいなくても、視覚的に優れた作品であることを感知して、意識するしないにかかわらず、おそらくタイポグラフィに関する何かを学ぶかもしれない。「1978年の僕は、世界のグラフィック界で起きていることを全部わかってるつもりでいた」。サヴィルは語る。「過去から探し出して現代へ移し変える…僕は、そのパイオニアだと思ってた。本当はそうじゃなかったけどね。僕が知らなかっただけで、エイプリル・グレイマン(April Greiman)はもう同じ手法を試していた。だけど、僕が試していたのはポップ カルチャーの領域で、グラフィック デザイナーというよりは、むしろファッション デザイナーみたいな仕事のやり方だった。ファクトリー レコーズは、まったく前例がないほど自由に、僕の好きなようにデザインさせてくれた」
サヴィルが「自主集団」と形容するファクトリーは、1978年、収益性は完全に無視して音楽とアイデアのみに奉仕する、というパンク精神に基づいて作られた。創設者のひとりであり、事実上アート ディレクションを任されたサヴィルにとって、ファクトリーは、独自の創作意欲を追求するより、基本的に顧客のニーズに応えることを要求されるグラフィック界ではめったに与えられない創作の自由を意味した。
唯一の制約はアルバム ジャケットの寸法だけ。サヴィルは自由に動いた。特にニュー オーダーの場合は、バンドが目にしないうちにジャケットが印刷に回されることもあった。そしてニュー オーダーの人気が出るにつれ、視覚的引用を追究するサヴィルの手法にもファンが増え始めた。1981年に発表されたニュー オーダーのデビュー アルバム『Movement』では、イタリアの未来派フォルトゥナート・デペーロ(Fortunato Depero)が制作したポスターを使い、テキストだけをアルバムのカタログ情報に書き換えた。本質的にロゴの流用である。1983年の『Power, Corruptions, and Lies』では、アンリ・ファンタン=ラトゥール(Henri Fantin-Latour)作『Basket of Flowers』に、サヴィル自身が考案した産業カラーコード使用の画像を重ね合わせた。サヴィルはこの最初の創作段階を理想主義と位置付け、私たちの対話を通じて何度も言及した。「あらゆるものを皮肉や嘲笑の対象にすることだけが、目的ではなった。そういう肯定的な側面があったから、見る人とのあいだに、ある種の友好的な関係性が生まれたと思う」

Peter SavilleによるYohji Yamamotoの広告、1991年
80年代末には、商業的に採算のとれるプロジェクトより芸術的に満足するプロジェクトへと関心が移行し、折からの不況と相まって、サヴィルは破産した。ファクトリーでの自由にすっかり甘やかされていたから、興味を持たなかったり、趣味が悪いと感じる仕事はしたくなかった。初期作品の理想主義は忍び寄る皮肉っぽい現実主義へと変質し、Yohji Yamamotoのために制作した1991年キャンペーンで暗示的に表現された。
「1990年に東京でショーをやった」。サヴィルは回想する。「ニック・ナイト(Nick Knight)が書いた『Nicknight』に端書きをつけたサトコ(ナカハラ)は、当時『Zero 3』マガジンの編集をやってたけど、仲のいい耀司を展示会へ連れて行ったんだ」。実は、サヴィルはナイトやアート ディレクターのマーク・アスコリ(Marc Ascoli)と一緒に、80年代の後半を通じてYohji Yamamotoの優れたカタログを多数制作していたのだが、このときまで耀司はサヴィル自身の一連の作品を知らなかった。「マークはそれまで、僕の仕事を全然耀司に話してなかったんだ。それで、耀司はとても興味を持った」
耀司は『Zero 3』の6ページ分の紙面を買って、好きなようにページを埋めるように、サヴィルに指示した。「ファッションは関係ない。感じたとおりにやってくれ」。ただひとつ、耀司の店舗の住所を含めることが条件だった。ぎっしりと詰まった本棚のひとつからサヴィルは1冊の雑誌を取り出し、あるページを開く。そこには、Yohji Yamamotoのブティックの住所が絡み合い重なり合った都会の光景がある。「耀司はすごく気に入った。マーケティングの部署へ雑誌を持っていって、『ほら、店の住所だ』って。いかにも耀司らしいやり方だった」
サヴィルと耀司は、同じような不満を共有していた。1991年秋冬シーズンで耀司がデザインしたのは、 木材とアルミ箔を使った、実質的に着られないウィメンズ コレクションだった。次のキャンペーンのアート ディレクションはサヴィルに依頼された。「レコード ジャケットをやったときと同じようやって欲しい、ということだった。耀司はファッションに飽き飽きしてたんだ」


左右の画像:Peter SavilleによるYohji Yamamotoの Game Over メンズウェア キャンペーン、 1991年秋冬コレクション


左右の画像:Peter SavilleによるYohji Yamamotoの Fasching ウィメンズウェア キャンペーン、 1991年秋冬コレクション
サヴィルの仕事には、ふたりに共通した不満が反映された。90年代初期の不況に加えて個人的な財政難にも直面していたサヴィルは、世界の経済構造に疑問を持ち、その視点からファッション業界を微妙に批判した。メンズ キャンペーンは、印象的なストック画像を雑誌やアート関連の書籍から選んだまったく無関係なビジュアル イメージと組合わせた。ファッション以外のイメージといい、遠回しな出来合いのコピーといい、全体の批判的なスタンスといい、当時の他のキャンペーンとは異なる型破りなキャンペーンだった。アーティストのココ・キャピタン(Coco Capitán)がGucciのために制作した2017年キャンペーンには、これと大いに共通するところがある。ニューヨークとミラノの人通りが多い区域で、建物の無地の壁全体に、それとなく心に訴える文章を大雑把にペンキで手書きし、Gucciのロゴを添えたキャンペーンである。サヴィルの挑発は因習を打破する耀司の強固な姿勢に後押しされていたが、近年のGucciのキャンペーンは、一体何に誘発されて登場したのだろう。単に、大手のファッション ブランドがこの種の反プログラミングを採り入れるのに、ほぼ30年を要したということだろうか。
バーゼルで開催されるスイス最大のカーニバル「ファスナハト」の報道写真を使ったウィメンズ キャンペーンも、メンズと同様に曖昧だった。耀司のマーケティング部門はこれら2つのキャンペーンに当惑し、激怒した。使用を拒否する市場もあった。同じキャンペーンを今週の雑誌に掲載すれば、何の抵抗もなく受け止められるだろうに。
サヴィルがアート ディレクション、メラニー・ウォード(Melanie Ward)がスタイリング、デヴィッド・シムズ(David Sims) -ちなみに、シムズにとっては初の大きなファッション撮影になるはずだった-が撮影を担当して、ベルリンで制作予定だったメンズウェア キャンペーンがキャンセルされるに至って、サヴィルと耀司の関係は冷めた。サヴィルはロサンゼルスへ向かい、新しいメディア プロジェクトに取り掛かるが、結局のところ、サヴィルの言葉によると「ビバリーヒルズで困窮した生活を送る」ことになる。
仕事もなく、事実上一文無しで、ほとんどホームレスのサヴィルは、目的もなくロサンゼルスの街で車を走らせながら、アート プロジェクトの可能性を夢想し続けた。そして多少の方向性をつかんで1994年にロンドンへ帰ったが、若きイギリスのアーティスト集団YBAの作品に圧倒されてしまった。「ロンドンへ帰って最初に目にした作品のひとつはマーク・クイン(Marc Quinn)の『Self』だった」。自分の血液5リットルをシリコンの型に入れて凍結させた、クイン自身の頭部像だ。「あれを見て思ったんだ。『とてもじゃないが、僕にはこんな真似はできない。さっさと退散するしかないな』って」

Diorキャンペーンの画像より、写真撮影 Nick Knight、コンセプト Peter Saville、アートディレクション Van Tranin consultation、1998年春夏コレクション
必要に迫られて、サヴィルはファッション ビジュアルの仕事へ戻った。1998年には、再度ニック・ナイトとチームを組んで、ジョン・ガリアーノ(John Galliano)が新クリエイティブ ディレクターに任命されたDiorのキャンペーンを制作した。だが、高級ブランドを傘下に抱える複合企業が支配的になりつつある業界で、サヴィルは満足を得られなかった。「デザインと広告を不気味に交配する」ブランディングの発明も目の当たりにした。そこに参加するのは倫理に反するとも感じ始めた。ひとつには、ファクトリーの作品で生かしたテクニックが、一連の企みに組み込まれてしまった罪悪感もあった。
「文化史に残された正典を自由に参照する手法が、尊敬、配慮、信頼のカケラもない商業的な実践にされると、僕には見抜けなかった。世間知らずだった」。サヴィルは語る。「商売気のある90年代の世代は、文化のコードを使って得られる効果を、市場の新しいターゲティングとしてとらえた。僕の初期の作品や類似の作品を探し出して、利用して、意味もなくやみくもに消費した。僕の目に映ったのは、借金してまで、要りもしないものを買う大衆だったよ。 そして、大衆に売りつけて利を得ようとする、スタイリッシュに装った新しい企業の徹底した意志だ。まるで、ドラッグの売人だ。『Game Over』で、 耀司と一緒に大量消費に対する疑問を提示できたのは、とてもよかった。だけど、僕は、買わせるために身売りする気はなかったからね。体制に対する疑問の場合、自分の正直な意見を実際に表現できる場所は、アートの世界しかないと、僕は確信している」
だが、アイデアはなかなか活発なアート活動に転換できなかった。2000年代に入ると、サヴィルはリメイクを諦めた。そこで、2003年にロンドンのデザイン ミュージアムで開催予定の回顧展「Thank You and Goodbye」に向けて、過去のアーカイブを選り分けながら準備を進めているとき、ラフ・シモンズ(Raf Simons)がコンタクトしてきた。シモンズはコレクションにサヴィルのビジュアルを使いたいと考えていた。同じ問い合わせが別の時に来ていたら、応じられなかっただろう。というのも、サヴィルのアーカイブはそれまでロンドンのあちこちの保管場所に分散していたからだ。だが丁度このときは、展示会の準備のために、すべてのアーカイブが一か所に集まっていた。
シモンズがサヴィルの作品とめぐり合ったのは、彼の同世代と同じく、レコード店だった。「ピーターがジャケットをデザインしたレコードを買ったとき、ピーターのことも知ったんだ」。シモンズは言う。「確か、僕が17か18の頃だったな。ピーターと僕はお互いの視覚言語に共感するんだ」。アントワープからチームを引き連れてやって来たシモンズは、アーカイブにじっくり目を通し、興味のある作品を撮影して帰った。
シモンズがどうする気なのか、サヴィルにはまるで予想がつかなかった。コレクションが発表された場にもいなかった。「パリへ行くカネもなかったしね。ショーは始まって、終わった。その後、ビデオを受け取った。でも、なんだか、よくわからなかったんだ。とりわけ、ありとあらゆるものを意味不明に並置したパーカーとかね。『ラフは一体何をやったんだ?』と考えてたら、アナが『ファンがやりそうなことじゃない? あなたとの繋がりを表現してるのよ』。それでようやく、『ああ、そうか。そういうことか。なかなかいいじゃないか』と思ったね。ラフは、ある意味で、ドキュメンタリーを作ったんだ」。シモンズがやったことは、本質的に、サヴィル自身がファクトリーでやったこととさほど違わなかった。シモンズは、サヴィルとは別の正典、サヴィルをも含めた正典を利用しただけだ。
サヴィルにとって、シモンズのショーは始まり、そして淡々と終わった。ファッション界にとっても同じことだった。反響は、『ニューヨーク タイムズ』紙のファッション評論家キャシー・ホーン(Cathy Horyn)が「クリーミーなトップコートとスーツ」を取り上げた、わずか1行のみ。ファクトリー アイテムが注目を集める現在は、すっかり影が薄くなったアイテムだ。その後、シモンズのこのコレクションが高く評価されるようになったのは、シモンズの名声が大きくなったせいばかりでなく、サヴィルの業績に対する評価が高まりを見せたこともある。そしてそれには、シモンズとサヴィルに等しく感化された新たな世代のデザイナーたちが、少なからず貢献している。

Raf Simons 2003年秋冬コレクション
Raf Simonsコレクションの後にも、サヴィルの作品はファッション関連で何度も登場した。 Jun Takahashiの2009年コレクションUndercover、Supremeの2つのコレクション、等々。 だが、サヴィルの影響が後の世代に及ぼした、いわば下流効果をもっとも明瞭に示すデザイナーはヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)だ。今シーズンのOff-Whiteに登場するフーディは、「モナ リザ」の肖像に、自分の部屋へ親の立ち入りを禁ずるティーンエイジャーがドアに貼り付けそうなDIY的テープのプリントでアクセントをつけている。サヴィルの手法を使い、アクセル ペダルの上にコンクリート ブロックを置いて加速し続けたに等しい、痛烈な視覚イメージだ。
アブローは、サヴィルと同類だと感じている。「俺のキャリアの後半に最大の影響を与えたのはピーター・サヴィルとトム・サックス(Tom Sachs)だけど、創造的な思考と指導という点で、俺とピーターは同じ人間みたいに感じるんだ。外見は正反対だし、歳も30違うが」。アブローは電話で語った。
「俺はカニエ・ウエスト(Kanye West)のアルバム カバーをデザインしたけど、カニエの音楽は世代を代表する音楽だ。そういう音楽のパッケージを作れることは幸運だった。 ピーターも同じだった。ラフが完璧なシルエットのデザインにファクトリー レコーズのジャケットを使うのは、ものすごく重要なんだ。ラフがデザインした強烈なウェアを目にしなかったら、俺はデザイナーになってなかったと思う。あのコレクションのフィッシュテールのパーカーは、俺が持ってるレア アイテムのひとつだ」
ストリートウェア、つまり現在のファッションの多くは、サヴィルの影響がなければ、違うものになっていただろう。アブローの台頭は、サヴィルの足跡を辿る第二世代のデザイナーが成熟期を迎えたことを象徴している。サヴィルと同じく、アブローもレコードのアルバム ジャケットのデザインからキャリアをスタートし、後にファッションへ移行した。だが、ストリーミングの時代が到来してアルバム アートの影響が追いやられた現状を考えると、次世代は最初の段階を飛び越すのかもしれない。サヴィルが30年遅く生まれていれば、最初の作品は、レコード ジャケットではなく、Tシャツだったかもしれない。スニーカーからハンドバッグまで、現在の若者が最初に所有するファッション アイテムのコレクションは、かつてのレコードの代わりだとサヴィルは考えている。レコードという物理的媒体が消えた後の真空を満たすものだ。その転換に対して、サヴィルは不安を感じている。「60年代のファッションとビジュアル イメージを、僕はよくLSDに喩えてきた。多少の危険はあるけど、多くの人の地平線を拡大する作用があった。だけど、今はクラックだ」。初めてアブローに会ったとき、どうしてファッションに抵抗する若者達がもっと沢山いないのか、戸惑いを口にしたと言う。「どうして、見込みのある若者たちがノーと言わないんだろう? どうしてみんな、青い服だけ着て、ファッションを拒絶しないんだろう? ヴァージルは、ちょっと驚いたみたいだった」

Peter SavilleによるAdidas adicolor スニーカー、2006
サヴィルは正しい。過去40年にわたって、消費のリズムは飛躍的に増大した。サヴィルが開拓したテクニックは、これまでもこれからも、企業に乱用され続けるだろう。さらに欺瞞的かつ無意味な方法で…。ここに、本質的な疑問が立ち現われてくる。ネスト化されたリファレンスというコンセプトは、どこまで放置されれば完全な崩壊に行き着くのだろうか? だが、闇雲に消費へ突っ走る社会は、なにかひとつだけの規律で救済できるものでもないだろう。そこに楽観の余地がある。一方で、アブローのようなデザイナーは、自分たちを尊敬するティーンエイージャーたちに対して、それぞれ独自の創作への方向転換を促している。サヴィル自身が証明しているように、優れたアイデアを持つひとりの人間が、適切な時に適切な環境にいれば、それだけで視覚文化の進路は大きく変わるのだ。
ベルリンにあるバウハウス資料館は、サヴィルが初期に多くの刺激を受けたインスピレーションの源泉だ。その外に、4行の詩を刻んだ標識がある。
EXTEMPORALE ZONE
REPRÄSENTATION DER EWIGKEIT
IN JEDEM AUGENBLICK
UCRONIE VOR UTOPIE
意図されざる領域
永遠の表現
あらゆるすべての瞬間に
ユートピア到来以前のユークロニア
「ユークロニア」は、仮説上の時系列、すなわち代替の歴史を考えるコンセプトだ。フランスの作家シャルル・ルヌーヴィエが、1876年に発表した小説『ユークロニア(歴史のユートピア):そうではなかったが、そうであったかもしれないヨーロッパ文化の発展の不確かな素描』(仮題)の題名として造語した。だから私は、4行詩の最後の行は「より良い世界は夢の中で誕生する」と解釈する。
シモンズがサヴィルの作品を「時代を超越した」と形容したのは、多分、このことだったのだろう。サヴィルのレコード ジャケットは、既に何世代もの人間を虜にし、ある種の表現方法として存在し続けている。ファンが、オマージュとしてその表現方法を使い、新たに創造することで、彼のレコードジャケットは、時の流れを超越してきたのだ。
「歴史という言葉は重い」。メレーは言う。「だが何にせよ、ピーターは存在し続ける何かを成し遂げたんだ。伝達構造を象徴する何かをやり遂げた」。花を描いた19世紀の絵画が脱工業後の象形文字と並び、レトロフューチャー的な戦慄を作りだすと同時に、別の時代の古典を再登場させる。デザイナーが国際的大企業のロゴを流用するのは、笑いの種にしているのと同時に、権力構造が混乱をきたした架空の世界を空想しているからだ。現在、あらゆるビジュアル領域で、これらのプロセスが基礎ツールとして実用されている。サヴィルの、私たちの視覚世界に対する影響は、今なお生き続け、進化しつつある。
Adam WrayはSSENSEのシニア エディターであり、過去に『Vogue』『T Magazine』『The Fader』といった雑誌でも原稿を執筆している
- 文: Adam Wray
- 画像提供: Peter Saville
- 写真: Paul Wetherell