愛の告白はエロティックなSMSで
6人のライターが贈り合う遠隔バレンタインのメッセージ
- 文: Aaron Edwards、Blair McClendon、Jamie Hood、Rachel Tashjian、Sam Huber、Tiana Reid
- アートワーク: Michael Rinaldi

あなたが恋しい人に最後に送ったテキスト メッセージは何だった? 誰かの自分への思いをかき立てるために最後に撮った写真は? 正直に打ち明けて。あなたがいまだに待ち焦がれているDMは? 今年のバレンタインのために、6人のライターがSSENSEのリクエストに応え、それぞれ愛の言葉を使って欲しいもの、そして欲しい人との距離を縮め続ける秘技を披露してくれる。
僕は半永久的にシングルだが、それはバグではなく仕様だと考えたい。バレンタインデーがくるたびに、僕が思い出すのはウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)自身がひとり暮らしである理由について語った、「私、自分の家に人がいるのが嫌なの」という含蓄ある言葉だ。
この頃、この言葉は新たな意味を帯びるようになった。簡にして要を得た警句というより、人類の安全を守るための世界的要請といってもいい。ただしこれには例外がある。僕は友人全員にべたぼれで、愛情を抑えきれない。彼らだったら僕の家にいてくれてもいい。ちなみにどんなに彼らを愛しているか、それを相手に語るのも大好きだ。友人同士の溢れんばかりの愛の表現は、最も深いロマンティックな愛情にも匹敵する。
そうした愛はしばしばSMSのやりとりで膨らんでいく。たった今、TikTokの撮影術について話し合っていたと思ったら、次の瞬間には、こんなふうだ。


離れてても、こんなにいい感じの濃い友情を築けるって俺たちすごくない? 同じ部屋にいるのと変わらないね。全然、遠慮がないし。
そうそう、僕も今言おうとしたんだ、知り会えてすごく運が良かったし、感謝してるって。こんなに大人になってから、実の兄弟みたいな友達ができてほんとよかったよ。
早く会いたいなあ。めっちゃ会いたい!!!
こっちもそう、ほんとそう。
このふたりの友情のパワーって、、、距離を超えるよね
まじ超える、、、、!!!
、、を入れてくれてサンキュ
友情のちょっとした証だよ
_
こうしたやりとりが僕の生きがいだ。僕は友への思いがつまった青いチャット風船たちの王国を治める王様だから。風船たちは、僕の友への深すぎる愛情が実は一方通行なのでは、とか、相手がドン引きしたらどうしようといった、心にもやつく射手座特有の不安を和らげてくれる。もうひとつ、別の友人とのやりとりを紹介しよう。

あと、CoDの話をしたとき、他人が自分について持ってるイメージ通りに振舞えるか自信ないって言ってたよね。俺、めっちゃわかる気がしたの、忘れらんない。
うん、お前だったらわかってくれると思ってた。何でも話せるし、親切だし、気前よくて、いつも助けてくれてさ。なのにこっちは何かずっとそれを台無しにしてきた気がする。今でもだけど
そんなことないよ。初めてお互いに親友だって言い合ったとき、お前が本気で言ってくれてるんだって感動した。こんないろいろやらかしてるのに、そんなこと言ってくれるんだ、って。でもやらかしたおかげかもだけど
www ふたりとも馬鹿みたいだね、相手が気にかけてくれてるってお互いにびっくりして
顔はいいけどアホだから
大人になるにつれて、こうしたつながりは恋人同士の愛情の代用品などでは絶対にない、なにか美しいものへと昇華してきた。ロマンスは、あらゆる深い人間関係の深い割れ目に生息している。セックスは素晴らしい。だが、息せき切って、どんなに自分に会いたいか告げてくれる友をあなたは持ったことがあるだろうか? 「これが終わったら」、あなたの腕のなかに飛び込み、カウチで一緒に酔っぱらいたいとどんなに心から願っているか、伝えてくれる友を? ふう、照れる。
Aaron Edwardsは作家で、現在はTV番組の脚本を執筆中。ハドソン バレーでリスと友達になろうと奮闘中

最高にロマンティックな映画といったら、誰かがマイケル・ダグラス(Michael Douglas)を殺そうとする映画に決まってる。今、頭に浮かんでいる作品―『危険な情事』、『ローズ家の戦争』、『氷の微笑』、『ディスクロージャー』、『ゲーム』、『ダイヤルM』、そして『サウンド オブ サイレンス』―はどれも、メッセージとヌード画像をセットで送り合うセクスティングの時代よりも前の作品だ。そのことが危うさと緊張感を最高に盛り上げる。仮に『危険な情事』のグレン・クローズ(Glenn Close)に、完璧なセルフィーをマイケル・ダグラスにSMSで送りつける手があったなら、彼女は彼の全人生をめちゃめちゃにしようと企んだだろうか? まあ、その…やっぱり企んだかな、とは思う。彼女にとって、それはいわゆる「パレットの色数が増えた」ことにしかならなかっただろうから。
このマイケル・ダグラス殺しの衝動をかき立てるのは、テクノロジーの欠落ではなく、「オペラ的生き方」だ。エロティック スリラーはネオ ノワールに分類されることが多いが、その実態はオペラだ。なにしろ恋愛が生死にかかわる問題なのだから。そもそも『危険な情事』のグレン・クローズがマイケル・ダグラスを殺そうとするのは、彼が美しく興味深い女性を捨て、つまらない女のもとに走る臆病者についてのオペラである『蝶々夫人』を彼女と一緒に観に行こうとしないためだし。まったく、なんというでくのぼう!
というわけで、私は愛する人たちすべてに、バレンタインのギフトとして、YouTubeの特別なオペラの動画を送ろうと思っている。メンズウェアのトップを務める仲間には、Armaniが衣装を手掛けた、『コジ ファン トゥッテ』、クチュール原理主義者の友人たちにはクレイジーすぎるマゼンタ色のボウ ドレスでモーツァルトを歌うキリ・テ・カナワ(Kiri Te Kanawa)、マリア・カラス(Maria Callas)の熱唱は、去年の1月から会えていない親友へ。モンセラート・カバリエ(Montserrat Caballe)の「清らかな女神よ」は大切な母に。カバリエとカラスのライバル関係についてのミニ ドキュメンタリーは、ふたりの親友兼ライバルへ贈ろう。そして、「仕事上の夫」たちには、フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)とカバリエの奇妙なデュエットを。
今、大切な人たちをオペラに連れていくにはこれしか手がない。そこで、私はこれを愛の表現であり…、相手を「守る」行為だと考えることにした。波乱のドラマに身を投じることを拒んで、命を危険にさらす凡庸なマイケル・ダグラスより、ブロンドの殺し屋になるほうがずっと好みだ。
Rachel Seville Tashjianはニューヨークで夢を実現する雑誌人間。バレンタインの相手は美術作品の筋骨隆々の男性である

僕は恋人と8年半付き合っている。20代の僕にとって、もっとも当然で、かつもっとも異常な事実だ。若くして生涯のパートナーを見つけることは、より大きな歴史の流れから見れば些細なことだ。とはいえ、それを経験したことが、僕たちと30歳そこそこの知り合い全員とをくっきりと隔てている。その期間のちょうど半分、僕らは別々の街に暮らしていて、ふたりをつなぐものは長い通勤列車だった。その数年間、週の平日はテキスト メッセージで頻繁に彼と心を通わせ、彼のもとを訪れる週末は、彼以外の僕が愛する全員と、やっぱりテキスト メッセージでつながらなければならなかった。
僕らは言葉の世界で働いている。彼も僕もよくしゃべる。だが、話す相手がお互いではないことがほとんどだ。僕らの交わすテキストはいつも優しいけれど、短くて端的で、事実や感情の簡単な報告だ。離れて暮らしていた年月、僕らにとって儀式に最も近かったものは、眠りにつく前、ふたりのうち先にそこにたどりついたほうから送る、締めくくりのメッセージだった。「おやすみベイビー」あるいは「おやすみダーリン、😴😴😘😘」という、バリエーションのほとんどない限られた語彙のメッセージは、無口なロマンスにふさわしかった。
そんなこぢんまりした言葉の囲いのなかで、僕らの愛は育っていった。思春期直後の芝居がかった態度は、もっと落ち着いた何かへと成熟した。「おやすみベイビー」―それは僕をメロドラマから救ってくれた。若かりし僕なら空白の画面に、取り繕った冷たさや、隠された別のストーリーを映し出したことだろう。その言葉は頼もしい簡潔さで、心を宥めてくれた。この習慣はふたりの人生をつなぎ続けたが、そのつなぎ目はゆるかった。それは時折、州の境界を越えてふたりの同期を復活させ、毎日何をしていても、必ずお互いのもとへと戻っていくことを確認させてくれた。
しかし、それはまた、ふたりの間の空間にドラマを生んだ。彼か僕―僕のほうが多かったが―、のどちらかがまだ外にいて、その日がまだ進行形のうちに届いたときがとりわけそうだった。「おやすみベイビー」が、バーのカウンターや友達のカウチや僕のデスクの隅に置いたスマートフォンを光らせると、僕は彼のオフィス ワークと健康的な習慣、自分とは違う生活リズムを思い出す。僕はテキストの交差点で手を振り、自分の道を進んでいった。
ふたりともたまたまニューヨークに来ることになり、ここ2年かそこら、僕たちは一緒に暮らしている。パンデミックの前、おやすみのテキストは、ふたりが別々に過ごす週末の夜に蘇った。ふたりのベッドからパーティーへと、いくつもの街区を越えて投げられるロープ。そのふたつの言葉は、推測であれ、想像であれ、相手の声の響きを運ぶ最も純粋な媒介者だ。それはふたりの距離を維持する働きをする。「僕はここにいるよ、でも君はそこにいたらいい」という「おやすみ、ベイビー」。あるいはそれは距離を縮める役目を果たす。「僕はここだ、帰っておいでよ」という「おやすみ、ベイビー」
Sam Huber は『Bookforum』、『The Nation』、『n+1』などで、文学、フェミニズム、クィア カルチャーをテーマに執筆している
僕はおしゃべりだが、以前は欲しいものを言えなくて叱られたものだ。欲望というやつは、僕の口を開かせるくせに喉を塞ぐというムカつく習性がある。言いたいことがあるとき、僕は文章に頼りがちだ。初めてラブレターを送ったのは4年生の時だった。内容は覚えていないけど、お気に入りの野球カードを1枚、封筒に入れた。ふたりとも野球に熱を上げていたからだ。今、数十年の時を遡る紙の連なりが、僕と、僕が欲した人や物とを結んでいる。
じかに顔を合わせると、大事な瞬間に僕の頭に浮かんでくるのはつまらない決まり文句だ。「君が欲しい」、「会いたかった」、「キスして」等々。真剣なつもりでも、そうした言葉はいつもあまりにありきたりに感じる。手紙だと、もっとうまく言える。そのほうが自分の意識下にあるものを翻訳しやすい。ただし、それはよかれあしかれメロメロに甘ったるい。「君が欲しい」しかり、「今、僕はこんなふたりを思い浮かべている」や「君のこんな姿が頭から離れない」しかり。僕が思い出す数々の場面は、セックスよりも、セックスに近い何かであることが多い。ベルトがベルト通しから引き抜かれるときの感じ。夏の遅い朝、眠る誰かの肌をじりじりと灼く光。大げさかもしれないけど、欲することによって、僕はいつも記憶の手綱を握ったつもりでいるのかもしれない。「君の背中に乗せた自分の手を覚えてる。またそれを見たい」。
受け取る側にいるほうが気楽だ。ただしシンプルにしてほしい。毎回「またすぐ会おうね」で十分だ。とはいえ、文章を書くことは恋の前触れとして最適だと思う。ベッドで待つことについてのテキスト メッセージ―、それはもっといい時代には格別な趣がある。ビデオチャットなんかじゃ野暮すぎて代わりにならない。僕が、君が欲しいというときは、君に会いたいのだ。目を離しても、またそこに君を見つけ、他のすべてが霧消する。スマホの画面はそれにはあまりにも明晰だし、手紙はそれ単独では成り立たない。僕が後で言い忘れそうなことを伝えるだけだ。
以前、誰かに訊かれた。もし自分がオルフェウスだったら、後ろを振り返ったと思う? 僕は答えた。「うん、たぶん。念のためにね」。彼女は僕を見ずに言った。「思うけど、男の人って見えないものを信じないことが多いよね」。僕は反論したかったが、彼女の言い分通りのことをすでに告白してしまっていた。何も言うべきことはなかった。だから僕は、黙って彼女を見た。
Blair McClendonはライター、映像エディター、映像作家である。ニューヨーク在住
たぶん、愛は時を越えて欲望を転写する何かだ。愛することの妊孕と変容を明らかにすることが、こんなにもたやすかったことがあったろうか―。花開いていくそれを追跡する、チャンスやツールも今はよりどりみどりだ。
日曜日、私はある刹那を追いかける―。あなたが私を愛していることにあなたが気づいたことに私が気づいた一瞬。その瞬間を解剖し、ガラスの下にピンで留めつけたい。一条の光を捕らえ、自分の力に酔いしれ、そこに私の私たるゆえんを見出し、あなたの爆発する感情の源を突き止めたくてウズウズする。あの少女に住まう手段を知りたい、永遠に彼女である方法を。今は静かな彼女に。過ぎ去った私たちは、過ぎゆく時間のなかで沈黙を余儀なくされるから。
愛する人、あなたをもっと近くに抱くために、私はすべてを記録する。記録はきっと、物がその物であることの、私たちの愛が白熱の光であることの証になるだろうから。私たちの痕跡を、私が集め蓄えたなら、世界に鳴り響く恐怖をかき消してくれるだろうか?
私は何も消さない。あなたのすべてがあまねく場所に必要だから。
テキストを、日記を、私は梳るように探す、その瞬間を突き止め、それ以外の瞬間と切り離すために。瞬間だなんて。愛がそんなに縮まってしまうものだろうか。
今夜、それとも別の夜、私は身じろぎを、かすかなため息を、あなたの腰の一突きを捕まえる。私は言う、あなたが私のなかで果てるとき、それは狂気そのもののよう。私はジョン・キーツ(John Keats)とファニー・ブローン(Fanny Brawne)の夢を見る。愛したのは手紙のなかだけなんて、なんて単純でなんて恐ろしいのだろう。
あなたが初めてその言葉を口にしたときを知っている。自転車でレッド フックの界隈を走ったあの晩。私はあなたを追って縁石に飛び乗ろうとし、そして転んだ。歩道が手のひらを受け止め、その前で野球の試合が繰り広げられていた。母親たちが私に声をかけ、私は「大丈夫、大丈夫」とあえいだ。そしてあなたの腕のなかで泣いた。その後、あなたの愛が傷を癒す薬になった。
それともあなたがあの曲―『McCartney II』のなかの曲を送ってくれた日。私がビートルズのファンじゃないことをあなたが知ってることを私が知ってることをあなたは知っていたくせに。それでも私はその歌詞の暗号を読み解き、あなたを見つけた。私を見つめているあなたを。
私たちは画面越しにロマンスをふんだんに実行する。
Googleドライブはあなたが私のために書く歌を横取りする。
クラウドは私の独りよがりなヌードをかくまっている。
たぶん、こうしたことを私は後悔するだろう。でも私はここにいて、あなたをこんなにたくさん持っている。いつも、どんなときも。
私の昔の恋人たちが、誰ひとり私を写真に収めなかったことを綴ったことがある。私がいかに幻になった気がしたか。彼らの人生のへりをなぞる影に。
でもあなたは私の写真を撮る。ある種の実存が授けられる。それはあなたの丸ごとの世界に含まれる、形ある私の愛すべき身体なのだ。
Jamie Hoodは詩人、エッセイスト、伝記作家、その他いろいろ。これまで『The Rumpus』、『Peach Mag』、『The New Inquiry』、『Teen Vogue』、『Transgender Studies Quarterly』に作品が掲載された。2020年末に初の著作『how to be a good girl』をGrieveland社より刊行。ブルックリンで物を書き、バーテンダーとして働き、犬を育てている

様々に書き留められた2020年における社会全体の孤独は、私の場合、意外なオマケつきで幕を閉じた。長距離恋愛の恋人にZoomで対面したのだ。理由は言えないし、言うつもりもないけれど、私たちはいまだにお互いに触れ合ったことがないとは言っておこう。たいてい私たちの親密さは、グループ ビデオ コールから1対1の音声通話への切り替えによってスイッチが入る。電話は現実世界のエロティックな拘束具だが、デジタル メディアの時代の電話というのも、ちょっと過剰、ちょっと特別、ちょっと闘争的な感じがする。テレフォン セックスは行き止まりではなく、そう、何というか、力の均衡なのだ。
ゲイのセックスはどんなときもまっすぐだった。こっそりと。たがを外して。強烈なのだ、わかるだろうか。誰か別の人の丸い月に狂気のように深く潜る。ある種の半端な愛おしさ。一種の生真面目な尻。思弁上の不敵。だが、電話の混沌とした脆さ―、くぐもった、らせん状の、奇妙なゴムに似たわたしのヘッドフォンの音―が、時折わたしをほんの少しストレートな気分にさせる。ばかげて、不条理主義にすら聞こえるのは承知の上だ。私は音を立てずに放尿する、電子レンジで温めた夕食をそっと咀嚼する、ドアベルに応えて走る。でもわたしが言わんとするのはこうだ。ふたりにはずっと電話しかないことをうすうす感じはじめたとき、私が望んだのはこれだけだった。誰かが耳を傾けているという厳粛な信頼。あの肉体のない声。会話の途中で切れる通話。それがわたしを酩酊させた。なぜなら恋人よ、愛は確かにここにあり、それは大胆不敵だから。
Tiana Reidは作家で、コロンビア大学の博士号候補。ニューヨーク市在住
- 文: Aaron Edwards、Blair McClendon、Jamie Hood、Rachel Tashjian、Sam Huber、Tiana Reid
- アートワーク: Michael Rinaldi
- 翻訳: Atsuko Saisho
- Date: February 12, 2021