スヌーピーが奏でる甘く切ないシンフォニー
孤独が忍び寄るとき、チャーリー・ブラウンの愛犬が不安を和らげてくれる
- 文: Max Lakin
- イラストレーション: Hassan Rahim

1984年、ファッション界の錚々たる一流ブランドがルーブル美術館に集合し、それぞれのスタイルを縮小サイズで展開した。モデルを務めたのは、高さ30センチ余りのスヌーピー(Snoopy)と妹犬ベル(Belle)のぬいぐるみだ。現在パリ在住というベルが表に出てくることはほとんどないし、しかもファッション通というのは都合が良すぎる気がしないでもないが、事実なのだから仕方ない。ともかく、ずばり「スヌーピー&ベル イン ファッション」と銘打たれた展示では、Diane von Furstenberg、Hermès、Jean-Paul Gaultier、Versace、Oscar de la Renta、Oleg Cassiniらがデザインを競った。Balmainは、シロテンの毛皮で縁取ったベルベットのマントをスヌーピーに着せた。カール・ラガーフェルド(Karl Lagarfeld)は手慣れたもので、ビジューがついたお揃いのChanelのツイード ジャケットや、麦わらのカンカン帽をはじめ、計6点という力の入れよう。Issey Miyakeはシグネチャのプリーツ地をつかった浴衣。Gucciは、いかにも都会のエリート風なホワイトのテニスウェア。どれもお遊びではない。デザイナーたちが本気でスヌーピーのためにデザインしたものばかりだ。
漫画『ピーナッツ』で数々の名言を放ってきたビーグル犬のスヌーピーが、今の世代に限らず、あらゆる世代に愛される不滅の名犬になったのはなぜか? いずれにせよ、人気の高い「文化財」をファッション界が見逃すはずがない。いつの時代にも、必ず特許をとって利用する。なかでも、チャールズ・シュルツ(Charles Schulz)が誕生させたスヌーピーは並外れてアパレルに使いやすく、あらゆる手法のブランディングが喉を潤しにやってくる泉に等しい。過去6年を振り返っただけでも、ファスト ファッション ストアの商品棚から有名ブランドのランウェイまで、スヌーピーはこだわりなく姿を現した。Marc Jacobsでは、コットン スウェットにプリントされた。スチュアート・ヴィヴァース(Stuart Vevers)が手がけたCoachでは、ウッドストック(Woodstock)と同じイエローのサッチェルでハッピーなタップダンスを踊っているし、全身ブラック レザーのS&M風ぬいぐるみにも変身した。現代アーティストのカウズ(KAWS)は、スーバー ヴィランのビザロが暴れ回るポスト ポストモダニズムな世界へスヌーピーをワープして、Uniqloのポケット Tシャツに登場させた。もちろん、目はお決まりの「×」だ。H&M、Forever 21、Gap、ASOS、Championにも、それぞれのスヌーピーがいる。問題は、量販ブランドが「スヌーピー カプセル コレクション」を発表するかしないかではなく、次の「スヌーピー カプセル コレクション」まで、どれくらいの期間を耐え忍べるか。Lacosteは2010年に『ピーナッツ』と抱き合わせのコレクションを販売した後、丸5年間、泉へ戻ることなく持ちこたえた。
そもそもスヌーピーは、複数のキャラクターで構成された『ピーナッツ』という総体の一部にすぎないが、そんな位置付けを超える熱烈かつ膨大な数のファン集団を持っている。スヌーピー ファンは、軽い気持ちで「スヌーピーが好き」なのではない。心の底から「スヌーピーを愛している」のは、Instagramで4万8100人のフォロワーを誇る@snoopyinfashionを見れば一目瞭然だ。カリフォルニアにはシュルツの作品だけを展示したシュルツ美術館があるが、これだけではさほど珍しくはない。しかし東京に分館までオープンしたのは、ピーナッツのキャラクターのなかでもスヌーピーだけ。スヌーピー ミュージアムでは、スヌーピー漫画に描かれたあれこれにまつわる企画展が開催されるほか、自分だけのスヌーピー人形を作れるぬいぐるみワークショップもあり、4月まで予約はいっぱいという大盛況だ。

ファッション界は漫画が大好きだし、好みも大して煩くない。大変なデザインの部分は全部漫画が引き受けてくれるし、ノスタルジーという心の琴線を、確実に息長く、かき鳴らしてくれるからだ。消費者の財布を開かせる、もっとも簡単で確かな方法でもある。これはスヌーピーにも当てはまるが、スヌーピーの専売特許ではない。Marc Jacobsはミッキー マウスと不思議の国のアリスも使っている。Coachは、象のダンボやバンビと仲良しのウサギのサンパー(日本名は「とんすけ」)で、しなやかなレザー グッズの販促と拡販を期待した。Gucciはねずみ年にあやかって、ミッキー製品を販売した。いずれも強力なキャラクターではあるが、スヌーピーに見られる星の数ほどに豊かなエモーションの広がりには欠ける。スヌーピーの気分は、陽気さと生真面目さに挟まれたすべての領域にまたがって、あらゆる微妙な揺れを包含する。シックなモノクロの単純な線描はどこに配置しても背景とぶつかることがないから、確かにスヌーピーの利点ではあるが、すっきりしたグラフィックが魅力の決め手ではない。『ピーナッツ』のキャラクターたちは、巨大で頑丈な一枚岩と化した管理組織と結び付かず、無邪気で、党派や政治とは無縁だ。それぞれに神経症の気配を漂わせるキャラクターが寄り集まった集団は、同様の傾向がある人々に親近感を抱かせる。そして、聖書の時代から人間の愛情を約束されている動物として、犬のスヌーピーはそのすべてを合わせ持っている。1960年代後半には、シュルツの『ピーナッツ』は、75か国、2,600の出版物に配給された。翻訳言語は21に上る。サンパウロでもコペンハーゲンでも、スヌーピーに会えたのである。
人気の衰えを知らないスヌーピーは、当然ながら、ランウェイから姿を消すこともなかった。ジャン=シャルル・ドゥ・カステルバジャック(Jean-Charles De Castelbajac)は、1989年秋シーズン、両腕の部分にスヌーピーのぬいぐるみを連ねたクロップド コートをデザインした。さながらスヌーピーのフジツボだ。ベッツィ・ジョンソン(Betsey Johnson)は、いかにも彼女らしく、スケートボードに乗ったスヌーピーをクリスタル パヴェのペンダントに仕立てた。2007年にニューヨークで開催された春シーズンのショーでは、ベッツィ・ジョンソン、アイザック・ミズラヒ(Isaac Mizrahi)、ジェレミー・スコット(Jeremy Scott)をはじめとするデザイナーが『ピーナッツ』のキャラクター全員に高級仕立て服を着せるチャリティ ショーが始まった。ジェレミー・スコットは、スヌーピーの皮を剥いで仕立てた毛皮のコートをデザインした。かなりゾッとするアイデアだが、2007年は今とは違う時代だったわけだ。アメリカを象徴するイメージを、あたかもテクノロジー以前の文明から遺された古代文字のように服に取り入れるのが大好きなアレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)は、2016年の秋シーズン、ストライプのタンク トップにスヌーピーをプリントした。豪奢を尽くしたハプスブルク家を思わせるマキシマリズムのデザインが続くなかで、売れる可能性のあるシンプルなこの1枚は、逆に目を引いた。「スヌーピーは哲学者と同じだ」とミケーレは説明しているが、それでは何のことだかよくわからない。スヌーピーは、初めて姿を現したほぼ70年前から、時系列のどこにも固定されていない。例えば、ディズニーのシンデレラは20世紀中頃の旧弊な家父長社会、スポンジボブには新世紀の過剰な刺激といった具合に、他のキャラクターにはそれぞれの時代が刻印されているが、スヌーピーは一切の重石から自由であり、世代と流行のあいだを流れるように移動する。

2014年、Instagram世代のために「スヌーピー&ベル イン ファッション」が復活した。今回、特注ウェアをデザインしたのは、Isabel Marant、Dries Van Noten、DKNYなど。Opening Ceremonyは、スヌーピーとベルにデザート ブーツとスタック ヒールを履かせた。Rodarteはノスタルジックなタイダイを着せた。Zac Posenはフローラル模様のプリンセス ガウン、Calvin Kleinはスラブニット風セーター。このショーは、世界遺産保護の使命を帯びているように、3年をかけて、世界各地を巡回した。
スヌーピーが幅広い層にアピールするのは、スヌーピーのあり方のせいだろう。自分を飼い犬とは心得ず、誰にも恩を感じない。チャーリー・ブラウンなど、あまりにも情けないので、大っぴらに馬鹿にする始末だ。クラスメイトの上下関係も平気で無視する。第一、人間みたいに二本足歩行している犬なのに、誰も気にしない。スヌーピーは、盲目的に服従するペットというパラダイムを吹き飛ばし、自分のやりたいようにやる。独我論と苦悩がほどよく混じり合った状態で大半の日々を怠惰に過ごす姿は、まだまだ不平不満のマントにしがみついているX世代のツボにぴたりとはまる。だが、スヌーピーはしょぼくれることなく、実に豊かな内面生活を楽しんでいる。毎度のごとく却下されるのに、挫けることなく赤いタイプライターで三文小説を書き飛ばし、暇な時間には第一次大戦時の空中戦を繰り広げる。人間に養われる犬であることを良しとせず、さまざまなアイデンティティを、想像するだに忌まわしいジェレミー・スコットのスヌーピー皮コートのように羽織っては脱ぎ捨てる。例えば、フェミニストのペパーミント・パティが制服規則の廃止を訴えたときは、生徒会でパティ側の弁護士になった。元祖インフルエンサーともいえるジョー・クールに変装したときは、お洒落なスタイルをアドバイスする。自意識を職業や怪しい権威と関連づける気がまったくないところに、会社への忠誠は時代遅れで、独創性が社会で通用する通貨でありライフスタイルだと考えるミレニアル世代は、たちまち共感する。
子供向けの漫画に見えた『ピーナッツ』は、パワフルなテーマ、シュルツの言葉を借りるなら「人々が抱いている恐怖」を外面化した。孤独もそのひとつだ。米国民の暮らしが政治不安や社会の混乱に刺激される時代には、いや、それを言うならいつの時代にも、孤独は表出する。国家が戦争の泥沼に嵌ったときは軍規や軍服がファッションへ沁み出してくるように、毎日生きていくこと自体が苦悩へ傾きかけるときは、孤立に直面した人々に共有される分母として、漫画がウエストのないシフトドレスやバッグに現れる。シュルツが与えてくれた孤独の解毒剤は、文字通り自分の脚で立つことを知っているビーグル犬だった。自立心を支えに気持ちを転化していくことは、ある種の自由だ。暮らしのなかで孤独を強く感じるとき、スヌーピーは、数多くの人が共有する不安や不安への対処に明るい光をもたらすマスコット的存在になり始める。周囲と距離を置き、自分の決断とコミュニティーのニーズをうまく調整し、手に入る小さなことに喜びを見出しながら生きていくのだ。ファッションは限りない自己の再創造を約束する。首にスカーフを巻くだけで別人になれると請け合う。その約束に、スヌーピーは人生を賭している。それこそ、スヌーピーがいちばん人間に近いところだ。
Max Lakinは、ニューヨーク シティで活動するジャーナリスト。『T: The New York Times Style Magazine』、『GARAGE』、『The New Yorker』、その他多数に記事を執筆している
- 文: Max Lakin
- イラストレーション: Hassan Rahim
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: March 19, 2020