かつてクラブは教会であった

ティム・ローレンスが記録した、1980年代初期のニューヨーク ダウンタウン年代記

  • 文: Alex Needham
  • 画像提供: Duke University Press
  • 写真: Mattias Peterson (Tim Lawrence portrait)

伝説的なハウス&ディスコDJのダニー・クリビット(Danny Krivit)によると、80年代初頭、ニューヨーク市では約4000件のライセンスがナイトクラブに発行されたという。2016年、その数は120にまで落ち込んだ。ニューヨークのクラブ文化の衰退は、うんざりするほど繰り返し聞かされる話である。理由に挙げられるのは、ジェントリフィケーション、1994年から2001年にかけて市長だったルドルフ・ジュリアーニ(Rudolph Giuliani)のクラブ撲滅政策、あるいは、若者のいちばんの関心やこだわりがダンスフロアからスマートフォンに代わったこと、等々。だが、ニューヨークのナイトクラブは終焉を迎えてはいない。それどころか、昨今の政治的絶望は復活を促す格好の土壌かもしれない。ティム・ローレンス(Tim Lawrence)は、新著 「LIfe and Death on the New York Dance Floor, 1980-1983 (仮題:ニューヨーク ダンスフロアをめぐる生と死 1980−1983)」で、アート、コミュニティ、異文化の交わり、実験、そして昼間の世界の抑圧に対抗するレジスタンス地帯を作り出しうる空間として、ナイトクラブを再認識させる。

街を再び社交化して、
無理なく暮らせて、
憎悪のない、
開かれたものに
したいという望み

1980年から1983年にかけてニューヨークのナイトクラブで湧き起こった創造性の驚くべき盛り上がりを、ローレンスは詳細に記述している。当時はちょうど、ディスコに代わって、ポストパンクやヒップホップが台頭した時期だった。Mudd Club、the Danceteria、Paradise Garageなどのクラブは、キース・ヘリング(Keith Haring)やジャン・ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)からラリー・レヴァン(Larry Levan)やマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)に至るまで、アーティスト、ミュージシャン、ファッション デザイナーがコラボレーションを行なうるつぼと化した。

「メディアが描写した70年代と80年代のニューヨークは、かなり一貫してる。荒廃、犯罪、強盗、殺人に象徴され、未回収のゴミが放置され、機能不全に陥った危険な街」。教鞭をとるイースト ロンドン大学にほど近いカフェで、ローレンスは語る。「面白いのは、僕が今までに当時の経験を質問した500人くらいの人が、全員口を揃えて、あれはすごく素晴らしい時間だったと答えることなんだ。とても自由で、文化が豊かで、街には音楽が流れ、人々はお互いに関わっていた。もちろん、多少は尖ったところもあったけど、それほど恐ろしい場所でもなかったんだ」

インターネットはおろか、留守番電話でさえ珍しかった当時、ニューヨーカーが社会の動向を知ろうと思ったら、社交以外に方法はなかった。「Facebookなんてなかったからね。パーティは、楽しむだけじゃなくて、仕事を探す場所でもあった。それに、みんな窮屈なアパートで暮らしてたから、自然と家の外に足が向いた」。著書には、主なナイトクラブで流れていたレコードのプレイリストだけでなく、そこで育ったコミュニティが入念に報告されている。例えばミッドタウンのthe Danceteriaには、生演奏とDJのほかに、ビデオ ラウンジまであった。二番街にあったthe Saintは、おそらくゲイのダンス クラブの純粋な理想の姿であり、あっと言わせるライト ショーや公然セックスに寛容だった。ラリー・レヴァンは、Paradise Garageで基本のセット リストを流す際、精密に細工したサウンド システムを使って、黒人やラテン系のゲイ男性が大多数を占める観客に最大限のインパクトを与えた。その結果は、ナイトクラブというより、むしろ宗教的体験と言うにふさわしいものだった。グレース・ジョーンズ(Grace Jones)は、先ごろ出版した自叙伝「I’ll Never Write My Memoirs (仮題:自伝は絶対書かない)」 で、Garageは教会だったと記している。オンラインのコミュニティも人と人を繋ぐ可能性を秘めてはいるが、一晩中踊り明かす肉体的感覚を再現することは決してできない。

ニューヨーク史のこの時期の描写が強い共感を呼ぶのは、孤立と政治的分極の時代を迎えて、人々が団結や繋がりを切望しているからかもしれない。Netflixで放映されているバズ ・ラーマン(Baz Luhrmann)のドラマ「The Get Down」は、ヒップホップ黎明期のサウス ブロンクスが舞台である。ファッション ブランドのBianca ChandonとSacaiは、共に、Paradise Garageに関連したコレクションをデザインした。エディ・スリマン(Hedi Slimane)が「V」マガジンに寄稿するニューヨーク日記の最新記事では、ニューヨークのアイコンを集めたポートレートに、ノーウェイブの英雄ジェームス・チャンス(James Chance)やリディア・ランチ(Lydia Lunch)の顔も見える。

そして、例えば辛うじて合法なクイアのスペースSpectrumなど、秘密で、多人種で、性的にも音楽的にも冒険的だった80年代初期の精神を今も残すニューヨーク パーティが存在する。他にもPapi JuiceやGhe20g0th1kなど、有色人種のLGBTによる有色人種のLGBTのためのパーティは、最先端の紛うことなきアバンギャルドな音楽に合わせて、ダンスをしたり、遊び相手を探したり、ラディカルなファッションを誇示できる場所だ。ブルックリンのセックス クラブで開かれるマルチメディア パーティAmerican Whoerer Storyでは、詩の朗読、ダンスフロア、ビデオ アート、奔放な性的雰囲気などをアトラクションを催す。参加者は、裸身もしくは気合の入った派手な出で立ち。私が訪れたハロウィンの夜は、Vetementsのスタイリストであるロッタ・ヴォルコバ(Lotta Volkova)が手術中のジェネシス・P・オリッジ(Genesis P-Orride)に扮して姿を現した。

ローレンスと私が話をしたのは、トランプの就任式とその直後に一連の抗議活動が起きた数日後だった。抗議の行進から独立系書店での読書会やアンダーグラウンドのパーティに至るまで、人々が再び都心に集まり始めていることに、ローレンスは希望を見出す。「私たちが通過してきたネオリベラルの時代に対して、反発があるのは分かっている。トランプのせいで、醜い面が表面に現れた。その反面、街を再び社交化して、無理なく暮らせて、憎悪のない、開かれたものにしたいという望みがある」

どちらも、ファウンド
オブジェクトを使う
造形アートや異質な
要素を組み合わせる
マッシュ アップの手法を
信頼していたし、
強いDIY精神を持っていた。
このDIY精神は、
多様なバージョンの
パンクに形を変えた

西洋社会の大部分が、相互不信と強い敵対感情や偏見に煽られ、怒りと政治的分極化に支配されている現在、境界を打ち壊した80年代ニューヨークは彼方の夢に思える。だが、その大半は、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)が大統領の職にあった時期に進行した。50年代の郊外的保守主義をアメリカのラディカルな都市スペースに復活させようとしたレーガンは、トランプに引けを取らないほど人々の分断を煽った。

そのような政治状況にもかかわらず、ジャンル、地域、人種を超えて、アーティストはつながり始めていた。バスキアは、自分のバンドGrayと一緒に、アートパンクというジャンルを作った。アフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)は、全く異質なアルバム「Planet Rock」で、クラフトワーク(Kraftwerk)をサンプリングした。ジョーンズ(Jones)は、イギー・ポップ(Iggy Pop)やジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)をカバーした。すべては、相互の称賛や好奇心から生まれた。ローレンスの著書を読むと、ブロンディがいかにいち早くヒップホップを理解していたことに驚く。ブロンディがファブ・ファイブ・フレディ(Fab Five Freddie)へのシャウト アウトやデヴィー・ハリー(Debbie Harry)のラップをフィーチャーした「Rapture」を作ったとき、ヒップホップというジャンルはまだほとんど存在していなかった。だが、サウス ブロンクスの文化とダウンタウン マンハッタンの文化が衝突したサウンドは、まさに時代を象徴した。

「全く違う価値観を持っているような二つのコミュニティーが出会って、生産的な交流が生まれる。それは、1980年代初期の大きなテーマのひとつなんだ。しかも、すごい勢いで結びつきが発展していった」。ローレンスは続ける。「ダウンタウンの若者の大部分は、いわば郊外から亡命してきた連中でね、退屈から逃れて、実験的な人生を試して、CBGBやMudd Clubに出向く面白い集団だった。白人中産階級の出身だけど、金はなかった。生活費はそれほど要らなかったんだ。片や、ブロンクスのパーティ ピープルは、圧倒的にアフリカ系アメリカ人かラティーノの労働者階級。このふたつの集団が出会ったとき、互いの芸術的な価値観やスタイルが、ほとんど同じなことに気付いたんだ。どちらも、ファウンド オブジェクトを使う造形アートや異質な要素を組み合わせるマッシュアップの手法を信頼していたし、強いDIY精神を持っていた。このDIY精神は、多様なバージョンのパンクに形を変えていった。だから、完全に分離した別の血統であったにもかかわらず、芸術的な価値観はとても簡単に結び付いたし、素晴らしいコラボレーションも生まれたんだ。『Rapture』みたいにね」

このような文化の大変動を支えたのは音楽だが、他の芸術形態に関しても、影響されない分野はほぼ皆無だった。ローレンスが挙げたのは、ヒップホップを扱った初めての映画「Wild Style」。映画、音楽、アートの世界をひとつに融合したこの映画は、「ダウンタウンで活動していた白人のアーティスト兼映像作家のチャーリー・エーハン(Charie Ahearn)と、アフリカ系アメリカン人のグラフィティ ライター、フレッド・ブラズウェイト(Fred Braithwaite)のコラボレーションなんだ。ノーウェイブ映画に出てたダウンタウンのスターのひとりで、Mudd Clubの常連だったパティ・アスター(Pat Astor)が出演してる。アスターは、Funという名前のイースト ヴィレッジで最初のギャラリーをオープンして、ダウンタウンを拠点にする白人のアートパンク友達の作品を展示してるけど、グラフィティ アーティストの作品も展示してるんだ。ふたつのグループが出会ったギャラリーは、ギャラリーというより、ほとんどパーティに近かった」。バスキア、ヘリング、デイビット・ウォジャローウィッチュ(David Wojnarovicz)が先導したニューヨークのアーティスト集団は、ストリートやクラブやギャラリーの交流を表現する象徴だった。

言うまでもなく、この中のふたりはエイズによって命を絶たれた。ヘリングは41歳、ウォジャローウィッチュは37歳だった。ローレンスの著書のタイトルにある「死」は、エイズを指す。1984年のニューヨークで湧き起こったコカインの蔓延も、クラブシーンが衰退する一因となった。もしエイズが猛威をふるってなかったら「パーティへ行きたいと思う人が、もっとたくさんいただろう。そしたら、後に起きた変化、特にジュリアーニ市長時代の変化に抵抗する手立てが見つかっていたかもしれない」。しかし、SaintやParadise Garageなどのクラブが閉業したのは、エイズよりも経済が大きな要因だったと、ローレンスは言う。「Paradise Garageが閉業したのは、地元の組合からの圧力があったからなんだ。オーナーのマイケル・ブロディ (Michael Brody)は、賃貸契約の更新を断られたから閉業する、と発表してるんだよ」

ニューヨークのジェントリフィケーションには、今やすっかりお馴染みの悪役が登場する。ローレンスの指摘によれば、ニューヨーク市長エド・コッチ(Ed Koch)が導入した法人税減税の恩恵を最初に受けたひとりが、ドナルド・トランプ(Donald Trump)だ。この減税のせいで、マンハッタンのダウンタウンはとてつもなく値上がりし、遊び場にしていたアーティストにはとても手が出せなくなった。そして、ひとたびアーティストやミュージシャン、クラブ愛好者が去ってしまうや、ニューヨークの文化を豊かにしたラディカルで自由な発想の創造性も消え去った。

ローレンス自身、1994年にニューヨークに引越し、この街が変容するパワーを身をもって体験した。引越しの理由はコロンビア大学で博士号を取得することだったが、それは同時に、Sound Factory Barで彼のヒーローだったリトル・ルイ・ヴェガ(Little Louie Vega)のDJを見られることを意味した。ローレンスが出会ったナイトライフのレジェンドは、ヴェガだけではない。「バーバラ・タッカー(Barbara Tucker)の『Deep Inside』や『Beautiful People』を聴いて夢中になってたのに、本人が目の前にいるんだ! ダンサーのウィリー・ニンジャ(Willi Ninja)はドアマンだったけど、中に入ってきては踊ってたよ」

熱心なクラブ愛好者であったとはいえ、時間的にも物理的にも、活動に参加していなかったローレンスは、年代記を書くには適役だろう。ナイトクラブは本質的に儚い。酒とドラッグで記憶は朦朧とし、ダンス フロアでメモを取る者はいない。何枚も写真を撮る者もいなかった。ローレンスが言うには、「アートパンクやヒップホップのシーンで写真が撮られることはあったが、ポスト・ディスコのダンス シーンに至っては、ダンスフロアでカメラを見ることはほとんどなかった」

ローレンスが使う資料は、昔のフライヤー、「East Village Eye」のようなアンダーグラウンド系の新聞、そして何よりもインタビューである。プロモーターやDJからパーティの主催者やサウンドエンジニアまで、シーン経験者のインタビューでは、時として記憶違いが起きる。「アーサー・ラッセル(Arthur Russell)と仕事をした、デヴィッド・マンキューソ(David Mancuso)とスティーブ・ダキスト(Steve D’Acquisto)に何回かインタビューしたことがあるんだけど、目の前で殴り合いの喧嘩が始めたことがあったよ。どっちの記憶が正しいかで、揉めたんだ」。とはいえ、ローレンスの3冊の著書は、あの時代を生きていたらきっと体験をしたに違いないと思わせる正確な描写が、広く評価されている。

ローレンスの著作のさらに重要な点は、仲間を見つけたり新しい可能性に心を開く場所として、ナイトクラブが大切だと現在も考えている人々に、蜂起を促すことだ。ローレンスの言葉を借りるなら、Paradise Garageで踊ることは「音楽的、社会的な変容の経験」、パーティが政治性を持ちうる永遠の証明である。

  • 文: Alex Needham
  • 画像提供: Duke University Press
  • 写真: Mattias Peterson (Tim Lawrence portrait)