表裏を一転するトールビョルン・ロッドランド

ミームが新たな教会となった理由を、アーティストが語る

  • インタビュー: Robert Grunenberg
  • 画像提供: Torbjørn Rødland

2017年春、ロサンゼルス。小さな木のドアをくぐると、そこはカリフォルニアでもっとも甘美な隠れ家のひとつ、西ハリウッドはサンセット大通りに位置する伝説のホテル「シャトー マーモント」の庭園である。私は今、インタビューのために、アーティストのトールビョルン・ロッドランド(Torbjørn Rødland)と一緒にいる。カリフォルニアに降り注いだ1ヶ月に及ぶ豪雨の後で、私たちが辿る庭園の小道の両脇には、満開を迎えた植物が青々と生い茂っている。ノルウェー出身のトールビョルンは、6年前、ここへ引っ越してきた。「L.A.は仕事をするのに良い場所だよ。外の世界を閉め出すことができるから。ベルリンやニューヨークは邪魔が入ることが多くてね」。過去何十年かをアメリカ、ヨーロッパ、日本で過ごし、写真イメージの領域で独自の位置付けを確立した彼は、そう話す。ヴィンテージのベンチに腰を下ろしたところで、未完のプロジェクトについて質問する。あらゆるものが、映画中心にまわっているハリウッドへ来る前、トールビョルンが撮りたいと思っていた長尺の映画のことだ。「エンターテイメント業界があまりに多くを提供するから、何かをアートとして行なうことに対して、未熟な段階の情熱はあまり存在しないんだ。あらゆるものが職業化されて、あらゆるものに金がまつわる。アートの制作は、むしろアウトサイダー的だ」と語るトールビョルン自身、大衆的な写真と芸術的なイメージ制作を調和させて、哲学への関心で結び付ける。その異分野の対話こそ、私が探りたいことだ。

ローベルト・グルーネンベルク(Robert Grunenberg)

トールビョルン・ロッドランド(Torbjørn Rødland)

ローベルト・グルーネンベルク:以前、自分は商業写真家というよりむしろ詩人だ、とおっしゃっていましたね。写真とアートを区別しますか?

トールビョルン・ロッドランド:写真は開かれた媒体だ。アートに使われることもあるけど、ほとんどの場合はそうじゃない。写真家か、それとも「写真を使うアーティスト」か。それがアートとしての区別だ。僕は写真家なんだ。僕が何気なく作ったイメージから、プロジェクトが発展していく。写真という媒体の限界を理解して受け容れているのが、写真家だと思う。写真に可能なこと、自分が写真というメディアでなしうることを、僕は作品で追究してるんだ。

写真に対して、その他に影響を受けた考え方はありますか?

学生の頃、僕はアメリカとドイツのポストモダン アートを理解できることに気付いた。ピクチャー ジェネレーションとか、ジェフ・ウォール(Jeff Wall)とか、ハンス・ペーター・フェルドマン(Hans-Peter Feldmann)とか。どうしてああいうものが作られたか、理解できたんだ。そこから出発して、僕にとってアートの生みの親とも言えるポストモダンのアーティストたちが否定した属性をもう一度取り入れること、なおかつ彼らのプロジェクトを忘れず、ノスタルジアに浸らないこと。それが僕の課題だった。ポストモダンを土台にして、ポストモダンという素晴らしく外向的なアートに内向性を加えて、深めたかったんだ。ところが、それが人を混乱させる。おかしなことに、いまだにモダンからポストモダンへの転換を歓迎する情熱が存在しているんだ。モダンやポストモダンという言葉を使うことは、もうないと思うんだけどね。

近年、モダニズムとポストモダニズムを合成する哲学動向がありますね。メタモダニズムと呼ばれていますが、あなたの説明で、そのメタモダニズムを連想しました。基本は、ユートピアや文化的発展を信じた20世紀初頭モダニズムの発想です。第二次世界大戦後、ポストモダニズムが登場して、モダニズム的な考えは破綻したと主張しました。そして、あらゆるものは相対的であるとする、厭世的世界観を提唱しました。メタモダニズムは、モダニズムの希望や誠実さを意識しつつ、ポストモダン思想の皮肉や相対主義を反映した新たな提案です。

そうだね。今の時点では、前進の手段は合成だ。それは、サンプリングやマッシュアップじゃない。今の僕たちは、あらゆるものに言語があることを知っている。ただカメラを手に世界へ出て、単純に、現実そのままの一部を切り取ることはできないんだよ。あらゆるものは、何らかの写真美学や写真のタイプ、もしくは写真の伝統に繋がっている。完全に純粋なものなんてないけど、それでも新しさのパワーがあるものを探し求めることが、僕たちの仕事なんだ。僕が1990年代にとった解決策は、それらすべて見通した人物の存在を認めることだった。でも、もしかしたら、見通したと確信してるものの中に、まだ自分では見たことがないものがあるかもしれない。僕は内面に飢えていたけど、ポストモダンが拒んだ内面と同一じゃなかったんだ。

感情的な要素に関心があるということですか?

感情的なもの、心理的なもの、エロティックなもの、精神的なもの。そういうものがコンセプチュアル アートの言語的内面を豊かにする。そして、色々な意味や言語のレイヤーが混じり合って、興味深いコンテンツがを作れるようになる。そういうプロジェクトの限界も見てきたけど、同時に、以前のもっと無邪気なアートに逆戻りできないことも分かっていた。新しいプラットフォームを開発することが、終わりなきチャレンジだよ。

下劣なものを味わってみたら、もっと面白いと思う。大衆的な写真が抱える問題的な側面ともっとリスキーな対話をしてみること。インスタグラム文化の感性には共感する。インスタグラム文化が、僕のアート作品の正当性を立証してくれると思うこともある

同時代的なイメージの制作を考えますか?

そうだね。でも、同時代である理由の一部は、以前に存在したものと関連していること、神話的な構造や魔術的な直感の存在を認めることなんだ。批判的な言語遊びの時代を後にして、新たに感情移入や内面性に焦点を当てるとき、もっと象徴的な対話が開かれる。

現在デジタル スクリーン上に押し寄せる膨大なイメージや、ニュースフィードの画像やインスタグラムのスナップ写真に、注意を払っていますか? そこでのアーティストの役割は何でしょうか? 「別の」イメージを提供できるのでしょうか?

写真としてのアートの役割は、批評家のように外側に存在すべきだ。どうもアート界は、そういう考えに縛られて、身動きが取れないように見えることがある。アーティストは、アウトサイダーの立場から、大衆的なものを再配置したり、反映したり、風刺することができる。それも重要な仕事だ。でも誤解しないで欲しいんだが、近頃盛んなミーム文化は、あらゆるものに対して確実に風刺のひねりを加える。それと同じ目的に、何百人ものアーティストが向かう必要ないよ。

ちょっと下劣なものを味わってみたら、もっと面白いと思うんだ。つまり、大衆的な写真が抱える問題的な側面ともっとリスキーな対話をしてみるってこと。インスタグラム文化の感性には共感するよ。インスタグラム文化が、僕のアート作品の正当性を立証してくれると思うこともある。三人称から二人称、そして一人称へ向かう関係新しい動きを感じるんだ。三人称は「世界に存在するオブジェとして、写真がここにある」、二人称は「私はこのオブジェと対話している」、一人称は「これは私の一部になった。今やこれこそが私だ!」

具体例は?

以前のロルキャットは、でたらめで、冷ややかで、滑稽な感じが、まさにポストモダンなミームだった。キャプションのスペルが正しくないせいで、見る人が言語を意識するようになった。面白くて可愛いかったけど、私的なものじゃなかった。この点が完全に変わってきている。インスタグラムで「目標」や「気分」のハッシュタグを入力すると分かるよ。今や、好き勝手に見られる過去と現在と未来から、ミームが拡大していくんだ。ロルキャットから@fuckjerryへのムーブメントは、ピクチャー ジェネレーションからニュー アートとしての写真へ向かった動きと、相似してるんだ。

いまだにモダンからポストモダンへの転換を歓迎する情熱が存在している。モダンやポストモダンという言葉を使うことは、もうないと思うけど

ソーシャルメディアでは、ミームがパワフルなフォーマットになりました。言語、イメージ、ユーモアの組み合わせで作用するミームの仕組みには、詩的な要素があります。メインストリームのメディアやブランドが利用するコミュニケーション ツールにもなりました。Gucciも、ミームを使った広告のキャンペーンを発表したばかりですね。

僕たちはミームを、ポジティブでユーモラスなもの、一体化できるものとして捉えるから、普通の広告キャンペーンより深いレベルで語りかける。詩以降の精神が理解する詩のように、ね。詩人に関する第一のルールは、何か自分の個人的なことを明らかにすることができて、それが過去のどんな本にも書かれたことがなければ、何千もの人が共感して理解してくれるってことだ。たくさんのミームを動かしている原動力も、この法則みたいだ。日常生活で観察する、他の人、テクノロジー、イメージとの相互作用だね。そしてそれらすべてに、新鮮で、意外だけど本物の感情的な反応が生じる。僕たちの人間性は、もはや教会に規定されない。では誰が、教会に取って代わるのか? 科学者には、あまりその気はないみたいだ。科学者の焦点は、可能と事実だからね。

企業ブランドは、新しい形態の宗教ですね。

間違ったブランドと繋がるのは恥ずかしくて、真っ当なブランドと繋がるのはクールだ、ということになってる感じだね。僕からすると、どんなブランドであれ、ブランドと繋がるのは絶対クールじゃなかったけどね。世代的の違いなのか、個人的な違いなのか、北欧人のバックグラウンドに関係があるのか、分からないけど。

自分の作品に、北欧的な視点や感じ方を見つけられますか?

かなり複雑だね。でも、ノルウェーのアートには、一種メランコリアが流れている作品が多い。初期のカシミア キャット(Cashmere Cat)、サックス奏者のヤン・ガルバレク(Jan Garbarek)、80年代のバンドのアーハ(A-ha)。みんな歌詞に、山頂に立って、雨に打たれながら泣いている情景があるんだ。感情と憧憬の感覚が、自然や風景との関係に結びついている。完全な都会環境で育つノルウェー人は、多くないんだ。みんな、おそらく僕と同じように、毎日森を抜けて学校へ通うんだ。ノルウェーのブラック メタルは、雪が降った後の暗くて物音のしない森を通り抜ける経験から生まれる、と言ってもいいと思うよ。それで全部の説明がつくわけじゃないけど、自分がやっていることを理解するためには、先ず北欧的な思考を理解する必要があるとは、いつも思っていたよ。

北欧の国々の他に、アメリカや日本で過ごしたこともありますね。アメリカや日本の要素に影響されましたか?

アメリカ人に教えられたのは、キッチュなものを真剣に捉えること、そしてそれを過剰に解釈すること。自由になって、新しいフロンティアへ進むことも重要だ。日本人は、ヒューマニズムから生まれたのではないイメージの周囲に、高度なコミュニケーションを発展させてきた。日本で生まれるイメージは、世界に自分たちの理想を押し付ける文化からは生まれてこないんだ。これは目から鱗が落ちる体験だったよ。

例えば?

グリム兄弟が収集したドイツの童話は、元来、セックスとバイオレンスがいっぱい出てきたんだ。年月を経て、ディズニーのアニメを頂点に、段々と洗浄されていった。登場人物は可愛くなって、何もかも、保守的な両親に育てられる子供にふさわしくなった。アメリカに占領されていたとき、日本人は特にディズニーに心を奪われて、近代の漫画へ繋がっていったんだ。目をどんどん大きく描いて、ますます可愛いくした。同時に、少しずつ、暴力や性や曖昧性も取り戻していった。このサイクルには美しいところもあるけど、西洋人は混乱したり、動揺したりする。どれが子供向けで、どれが大人向けなのか、すぐには見分けがつかないからなんだ。何でもすごく可愛いんだよ! 可愛いうちはね。

あなたのイメージには、暴力、権力闘争、物理エネルギーの要素があります。これについて話してください。

僕は大衆的な写真から取った形式を扱うけど、晒しものにして皮肉るつもりはないんだ。美しくロマンティックなカップルを撮影するとき、一般的な介在を受け入れたら、正しいバランスを手に入れるのはすごく難しいことに気付いたんだ。そんな写真は、皮肉に見えるか、商業写真として解釈されるか、どちらかだ。

それを避けるひとつの方法が、カップルを不釣合いにすることですか?

そう。年が同じじゃないカップルもいるし、背格好や人種が違うかもしれない。あるいは、写真の中での存在感が違うかもしれない。僕のプロジェクトには、暗黙のうちに必ず、非二元的な状態が必要なんだ。善悪とか白黒とか、基本的な記号に関心はあるけど、両方の力は互い反発して調和するんだ。ブラック メタルは、黒だけを一方的に受け入れて、白へ宣戦布告するけど、撚り合わさった両極が互いを必要とするという東洋的な考えに、僕は惹かれるね。これはポケモンのキャラクターや「千と千尋の神隠し」にも、そういう考えが現れている。どのキャラクターにも、善のバージョンと悪のバージョンがあるんだ。

「ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア」「ブレイキング バッド」「ホームランド」に代表されるアメリカのテレビ シリーズの新世代でも、複雑で曖昧なキャラクターへの転換が特徴でしたね。

過去20年間のアメリカ文化の変化に、日本のポップ カルチャーを引きずってる要素があるのは面白いね。もうひとつの例は、アメリカの若いメインストリーム層が過激な性やポルノグラフィーに前より寛容になったことだ。

撮影する人に曖昧性を求めますか?

僕が求めるのは個性。何か自分よりも大きなものを表現できて、個人から焦点を外せる人。もちろん、それがモデルがやってることだけどね。モデルの仕事は、あまり明確になりすぎないで、見る人が望むことを投影させることなんだ。

あなたのイメージ、とくに静物イメージの場合、一緒にしても必ずしも意味を成さないものや、質感、物質性、機能が同じではないものが組み合わされていますが、違うレベルで意味が生まれる組み合わせ方ですね。

僕はそれで意味を作りたいんだ。でたらめにオブジェを組み合わせることはしない。ポストモダンへ移行していたときは、無作為が解放を意味したけど、今はもう必要じゃない。世代の問題じゃないかな。僕が興味を引かれるのは、深いレベルで意味をもったり、意味がありうることを感じさせて視線を釘付けにする並置だ。

アートを制作することは、混沌とした人生に意味を作り出すでしょうか? 解放的で実存的な経験ですか?

僕は物事を理解しようとしているけど、その中には、自由に関わる問いと結びついたものがある。僕は緊縛したり、カゴに入れた身体の写真を撮ったけど、直接的にしろ比喩的にしろ、そこにはいろいろな解釈が可能だ。僕にとって、ケージに閉じ込められている状態は、まだ子供で、人生が始まるのを待っている経験と結び付いている。僕にとっては意味のあるイメージだ。僕は、簡単に、行為から離れた観察者になれるんだ。夢から学ぶ人がいるように、僕は自分の写真から学ぶんだ。

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