風変わりなミューズたち

奇人変人に捧げる讃歌

  • 文: Erika Houle

カーダシアン一家が王朝を築く遥か以前、元祖ミューズはヘシオドスが記述した9人の姉妹神であった。花の冠をかぶり流れるような衣に身を包んだミューズたちは、まさに原始のインフルエンサー、詩人を覚醒する霊感の源であった。だが、一夜にして有名人が誕生し、#inspoがインスピレーションやモチベーションをアピールする現在、「ミューズ」を構成するのは一体どんな要素か? 無名の存在から引き抜かれたデジタル世界の流行仕掛人は、花道を与えられ、1〜2シーズンの間、人気を享受する。しかし霊感とは、元来、機械的に作用するものではないはずだ。もっとも素晴らしい創造的パートナーシップは、もっとも奇妙な関係でもある。これは、彼らに送る、愛情と慰労の念である。コラボレーションと長丁場のゲームを続けた変人やロマンチストに讃歌を捧げよう。風変わりなミューズたちに#シャウトアウト!

フリーダ・カーロ & ペット

肩に止まったり、首にしがみついたり、抱かれたり...。フリーダ・カーロ(Frida Kahlo)のペットたちは、作品においても実生活においても、フリーダの手の届かないところにいることはほとんどなかった。絵と動物と共に過ごす時間を治療の方法とすることで、フリーダはどうにか強迫観念をやり過ごすことができた。「私が一番よく知ってる人間は私自身」と言った彼女は、 自画像を孤独のなせる技と思っていた。だが、常に身近にペットがいたフリーダは、決して本当のひとりぼっちではなかっただろう。おそらくフリーダにとって、愛玩した動物たちは明確に別個の存在ではなく、むしろ自分の一部、「壊れた」と表現した自分の肉体からの空想的逃避だったのではないだろうか。メキシコの伝統を体現するイズクウィントリや異様に手足の長いクモザルなど、動物たちの肉体は特異だが、優しく情緒的なフリーダの描写からは、動物との真の一体感が見てとれる。

アン・ドゥムルメステール & パティ・スミス

16歳でアルバム「Horses」に出会い、何年か後、初のパリ コレクションのサウンドトラックに「Wave」を選んだアン・ドゥムルメステール(Ann Demeulemeester)は、敬愛する見ず知らずのミュージシャンに3枚の白いシャツを送り届けた。パティ・スミス(Patti Smith)は、2014年に出版した「Ann Demeulemeester」で、この思いがけないプレゼントを「アントワープから届いた小包」と呼んでいる。「慎ましいプレゼントから、認められる歓びが湧き起こった。私はひとりじゃないことが分かった」。 それを機に、ドゥムルメステールとスミスのあいだには、ファッション界と音楽界の便乗的な重なりを超越した、かけがえのない友情が始まった。ふたりの繋がりから生まれた作品では、創造力が相互に交信され、授受されている。

ステラ・マッカートニー & 両親

「生まれ」か「育ち」かと言えば、ステラ・マッカートニー(Stella McCartney)がファッション・デザイナーとして成し遂げた成功は、「生まれ」と「育ち」が等分に貢献している。母は著名な写真家、父はビートルズの一員。生まれたときから無限のチャンスに恵まれていたと言っても、過言ではない。だが、スタイルは持って生まれるものという決まり文句とは反対に、マッカートニーは努力を重ねて技能を培った。「両親は、ほとんどファッションに無関心だったわ。単に仕事上、ファッションとの接点があっただけ。視覚的に両親からとても刺激を受けたのは、そのせいだと思うの。だって、あの人たちのファッション感覚ときたら、論理的でもなければ、考え抜かれたものでもなかったから」。16歳のとき、名門紳士服店が集中していることで有名なサヴィル ロウで、エドワード・セクストン(Edward Sexton)に弟子入りした。長年にわたって、父のスーツを仕立てた人物である。彼女自身のクリエイティブな閃きは「とても自然という意味で、生活の一部と言ったほうがいいと思うわ」。2016年には、ファッションに対する父のおおらかなアプローチを変わらぬインスピレーションとして、初のメンズウェア コレクションを発表した。しかし、マッカートニーのデザインは、過去の流行の再現ではなく、マッカートニー一家に深く根付いたインスピレーションから生まれてくる。それは、絶えず変化する業界において、持続を可能にする基盤だ。

ヴィヴィアン・マイヤー & 自身

2017年の現在、セルフィーは単なる自撮りに止まらない。iCloudに準備されたアルバムであり、来客の目に留まる場所に置くベストセラーの豪華本であり、国を挙げての祝日である。しかし、観衆がいるとは限らないとき、あるいはダブル タップ機能や目がハートになった絵文字による確証が得られないとき、果たして私たちはわざわざ写真を撮ったりするだろうか? デジタル以前の時代に、ヴィヴィアン・マイヤー(Vivian Maier)は自分を写し続けた。バスルームのキャビネットにはめ込まれた鏡の中の自分、歩道に影を落とす自分、 フォルクスワーゲンのホイールキャップに映った自分...。内向的なヴィヴィアン・マイヤーは、独りだったが、鏡像とふたりだった。多くの作品では周囲に人々が存在するにもかからわず、公共の場所でマイヤーは揺るぎなく個であり続ける。その才能は、世界における彼女の立ち位置、すなわち独立していながら世界に注意を向ける存在を、雄弁に物語っている。

リック・オウエンス & ミシェル・ラミー

フランスの哲学者ドゥルーズは言った。「他者の夢に捕らえられたらお終いだ」。オウエンス(Rick Owens)の「プロテジェ」として知られるミシェル・ラミー(Michèle Lamy)は、この言葉が座右の銘だろう。エキセントリックな反逆児ラミーは、自分の果てしない夢を生きてきた。ラミーとオウエンスは、衣服、音楽、家具を介して、実験を体現する。ブランド名には夫の名前が使われているが、デザインを生んだビジョンが妻に帰せられたことは数え切れない。ラミーは、ジェンダーの固定概念に関連するという点においてのみ、「ミューズ」というレッテルに違和感を表明している。だがオウエンスは相変わらずレミーを「妖精界の魔女」と呼び、「すべてを彼女自身が思うままに楽しんでほしい」と言い続ける。

  • 文: Erika Houle