「みんな見栄っ張りなんだ」
アリ・マルコポロスのストリート写真が歩んだ30年
- 文: Ben Purdue
- 写真: Ari Marcopoulos

歩道とスケート スポットをスタジオの延長のように使い、アリ・マルコポロス(Ari Marcopoulos)は、30年以上にわたって、ストリートの美学とファイン アートの間に横たわるスペースを占めてきた。ラッパー、スケートボーダー、グラフィティのスローアップを記録したリアルで妥協のない写真は、マルコポロス作品の特徴である日付けがあろうとなかろうと、ひと目でそれと分かる。アムステルダムに生まれ、ニューヨークとロサンゼルスを拠点にする彼の作品は、親密でありながらも冷静な客観性を備えている。荒廃した風景、GucciやSupremeの本、家族のドライブ旅行。対象が何であれ、イメージの飾らない近密感には使い捨てのフォーマットが相応しい(好んで使うのは、モノクロ コピーのジン)。このようなハイとローのアプローチによって、マルコポロスは現代の若者のビジュアル言語に大きな重要な影響を与えてきた。

新しいモノグラフ「Ari Marcopoulos: Not Yet」の編纂にあたり、マルコポロスは、キュレーション作業の大部分を、友達とコラボレーターと家族の手に委ねた。この本のデザイナーであるコニー・パーティル(Conny Purtill)が選んだ90年代のティーンスケーターの写真と一緒に、マルコポロス自身が選んだバスキア(Basquiat)、KRS・ワン(KRS-One)、ビースティ・ボーイズ(the Beastie Boys)といった80年代アイコンのポートレートが並ぶ。アーティストのポール・マッカーシー(Paul McCarthy)が選んだ不気味な穴と地下室と木の作品群の次には、息子イーサン(Ethan)が記憶から選んだ都市の風景やストリートのシーンが続く。各章毎に、作品を通して選者とマルコポロスの関係が語られ、包括的にマルコポロスのクリエイティブなレガシーを研究する著作を構成している。
今のニューヨークと彼の知る80年代のニューヨークがそれほど変わらない理由、ストリートウェアとハイファッションの接近、サブカルチャーの真の定義を、マルコポロスが語った。

ベン・ペルデュ(Ben Perdue)
アリ・マルコポロス(Ari Marcopoulos)
ベン・ペルデュ:80年代のニューヨークと現在あなたがいるニューヨークでは、若者の文化やシーンに大きな違いがありますか?
アリ・マルコポロス:今は、全てにおいて、量が多い。若者には何も違いはないな。クリエイティブな活動をしているヤツが増えたように感じる。でも、僕が付き合っているいろんなグループを見ても、ほんと、そんなに違いはないね。インターネットや携帯の情報端末が物事を変えたなんて、短絡的過ぎるよ。オレは、何もかもが増加したんだと思う。もっと多くの人間、もっと多くのアーティスト、もっと多くの本。街も変わってきているよ、もちろん。巨大な不動産開発にデカいショッピングモール。それでもオレはニューヨークが好きだけどね。
インターネットでないとすれば、ニューヨークのサブカルチャーの発展には、何がいちばん大きな影響を及ぼしているでしょうか?
果たしてサブカルチャーなんてものがあるのか、分からないな。もしサブカルチャーがあるとしても、本物のサブカルチャーだったら、それが何なのか、しかとは分からないはずさ。サブカルチャーは商品化されてしまってるよ。もう何がサブカルチャーなのか、分からないね。今のサブカルチャーは、さしずめテロリストかな? 表に出て来ないで活動してるから。そりゃ、クールなことをやっているヤツらはたくさんいるよ。ダンスの振付のノーラ・チッポムラ(Nora Chipaumir)なんかは、ほんとにスゴい。でも、言いたいのは、今はハイ ファッションブランドがサブカルチャーのふりをしてるってことだ。

アート界は写真という表現を正統な芸術形態として扱わない傾向があるので、あなたは連帯感から、グラフィティのようなアンダーグラウンドなアートに惹かれたのでしょうか?
オレはずっと、広告に対抗する手段という意味で、グラフィティが好きなんだ。みんなグラフィティに文句を言うけど、クソみたいな巨大な掲示板の広告には何も言わない。オレに言わせりゃ、広告の掲示板のほうが、グラフィティよりずっとヒドい。アート界の偏見を解読するはなかなか難しい。明白な偏見もあるけど、要するに、利益目的の業界だからな。そんな所に魂なんてない。もちろん優れたアーティストはいる。だが、超高価なキャンディ ショップだと思えば間違いないさ。1億円のチョコレートチップ クッキーだよ。
それで、正統とみなされない写真という形式を使うようになったのですか? 家族の写真アルバムやジンのような「下位」コンセプトに焦点を当てて、その可能性を押し広げていると?
ジンは、オレがやっていることを、短時間で比較的安く見られる手段なんだ。そのプロセスで、みんなとシェアできる。今はジンを作っているヤツが多いけど、チャンスさえあれば、オレはいつも本の形にするね。大きな出版社がからむと、いろんなことを考慮しないといけない。マーケティング部門から色々な要求が来る。何が売れて、何が売れないか、理論を持っているからね。オレは、そんなことに興味はないんだ。オレはただ、自分の中にある物を吐き出したいだけだ。

写真に日付けを入れたり、質の悪い紙にコピーしたり。そういう作品の見せ方にも、あなたの考えが反映されているんですね?
日付けを入れる理由は簡単だよ。撮影日が分かる、それだけ。オレも、いつ撮ったのか思い出せる。コピーは、安いうえにきれいだから。複製には、シルクスクリーンとかコピーとかリソグラフとかCプリントとか、色々な方法があるけど、結局、最終的にオレがどう仕上げたいかで決まるんだ。オレのスタジオには、安物の白黒プリンターがあるんだけど、それもスゴくいいよ。
この本のキュレーション作業の一部を他の人に任せるのは、気持ちの上で大変でしたか? それとも、ホッとした感じでしたか?
難しくもあったし、気も楽になった。声を掛けた人間は全員信頼してたけど、オレは、人に口出しされずに自分で全部やることに慣れてるからね。でも、自分の作品に他人の目が向けられるのは、素晴らしいことだ。アートの大部分は観客のためにあるんだから、何かをまとめる時に、実際に観客を巻き込むのは賢明なことだよ。問題は、16ページという制限があったことだ。だから、みんなジンを作ったようなもんだ。

オレはただ、自分の中にある物を吐き出したいだけだ
みんな、作品を自由に選べたんですか?
それぞれだね。みんな自由裁量だったけど、もちろん、誰がどういう方向に流れるかはなんとなくわかっていた。記憶を遡って選んだ者もいれば、対話しながら決めた者もいる。オレとその人間の個人的な関係を表現してる章もある。
誰のセレクションにいちばん驚きましたか?
オレのいちばん下の息子のイーサンだな。最初に自分の記憶に残ってるイメージで始まって、そこから他の作品へ目を向けた、とてもユニークなセレクションだ。兄のカイロ(Cairo)も、イーサンのチョイスに驚いていた。でも正直に言って、誰のセレクションにもちょっとした驚きがあったね。自分のセレクションにも。


あなたは、スケーターがトリックをやろうとする寸前の、魔法のような瞬間を捉えることが多いですね。こうした空間や時間の狭間にある被写体の魅力は、何でしょうか?
特定の瞬間というより、夢を見てる状態だね。別にスケートに限ったわけじゃない。集中して、オレがいることすら忘れてる。意識の集中が普通と違う状態を生じてるんだ。とても美しい瞬間だ。

オレはずっと、広告に対抗する手段という意味で、グラフィティが好きなんだ
Supremeのようなスケート ブランドと、Gucciのようなラグジュアリー ブランドと、両方でコラボレーションされてますね。これらのブランドは、今や同じ線上に並んでいると思いますか?
どっちもクライアントで、クライアントがオレに報酬を払ってくれるおかげで、オレは自分のまわりにあるものを撮り続けることができる。GucciもSupremeも同じさ。服を作って儲ける。オレがブランドの写真を撮って稼いでいるようにね。それに、許容範囲なら、オレの自由なビジョンに任せてくれる。まあ、Gucciがストリートウェアに歩み寄って、Supremeがハイ ファッションに歩み寄って、お互い接近してきてるとは思うね。Gucciは、長い間、実際にはストリートウェアの影響を受けていないのに、ストリートウェアのステイタス シンボルだった。それを喜んでいたかどうかはともかく。今は、両方のブランドをステイタスシンボルとして、ひとつのスタイルに組み合わせている人を見かけるよ。どのラグジュアリー ブランドでも10万円のボンバー ジャケットを売ってるけど、軍の放出品の店へ行けば5000円で手に入る。そんなありふれたものでも、ステイタス シンボルになりえるんだ。



メイン ストリームと交差しつつある現在でも、ストリート美学の近密性と刺激は健在ですか?
金のない連中からファッション フリークまで、ニューヨークにはイカしたヤツらがそこら中にいるよ。オレも含めて、見栄っ張りの集まりなんだ。つい最近、ブルース・ナウマン(Bruce Nauman)の展示会でビデオを見たんだけど、ナウマンはジーンズに白いTシャツを着て、何の変哲もないレザーブーツを履いてるだけなんだ。それなのに、とんでもなくクールだったな。
- 文: Ben Purdue
- 写真: Ari Marcopoulos