ComplexConとは何だったのか

レンバート・ブラウンと巡る、コンテンツの核心へ迫る旅

  • 文: Rembert Browne
  • 写真: Hannah Sider

それは私のちょうど右手にあった。ATMから60ドルを下ろそうと待っていたときだ。餌だ。放置されたジョイント、青いフォー・ロコの缶、半分空いた15ドルのライト ビール。すべてが大理石のカウンターに並んでいる。 最も邪悪な形で現実世界に姿を現した、スポンサード コンテンツ(#SponCon)の静物。今年で2回目となるイベントComplexConの2日目のことだ。イベントは 「ポップ カルチャー、アート、フード、スタイル、スポーツ、ミュージックなどがひとつにまとまった前代未聞のフェスティバル & エキシビジョン」と宣伝されていた。主催者側の委員として、ファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams)、村上隆、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)、そしてColetteのサラ・アンデルマン(Sarah Andelman)などの顔が並び、ブランド好きにはたまらない週末の乱痴気騒ぎ、さながらファッション リーダーの世界博覧会である。

だが、問題がある。私がカリフォニアのロングビーチに来ているのは、ファッションやセレブの目撃情報をリポートするためでも、週末の音楽ライブをレビューするためでもない。ついでに言えば、私は遊びに来たのでもない。そうではなくて、わずかばかり『プラネットアース』的要素の入った、文化人類学のためなのだ。どんな人たちがどんな理由でこのような週末イベントに来るのかを解明するため、私はここに来た。私はこの手のイベントであれば、追い出されるまでとどまっていられる実績があるため、担当編集者から私にお呼びがかかったわけだ。

2日間のイベントは、3つのメイン セクションに分かれている。パネル ディスカッション、音楽ライブ、そしてマーケットプレイスだ。マーケットプレイスには、巨大な博覧会さながら、Nikeadidasのようなメジャー ブランドから、驚くべきことに今なお人気のUndefeatedや成熟したThe Hundredsのような世界で展開してるブランド、またRaisedやWish ATLのような、比較的小さいブランドまでのブースやインスタレーションが立ち並ぶ。マーケットプレイスでまず最初に目につくのは、その行列だ。至るところで長蛇の列ができている。この停滞状態から吸い取られたエネルギーが充満したこの空間は、野心満々のクールな若者が集まる就職フェアのようになっていた。迷路のような空間で、商品を眺めたり、買い物に勤しんだりしている人々ですし詰め状態だ。購入したものを手離さない人も中にはいるが、多くの人が、特に目立つ場所に設置されたeBayのブースに直行し、さっそく購入したものをネットで転売している。この空間には、確かにComplexConの「Con(集い)」の部分が表れていた。物に執着する人々の宴である。だが、ファッションに特化した場所にしては、彼らはほとんど救いようがないほど、スタイルと自信に欠けていた。私が見たことのあるこれに最も近い状況は、ネットでしかギャンブルをしたことのない人で溢れかえるカジノのメインフロアだろうか。

何かをやったり創作したりしてクールになりたいという欲求が、ただ単にクールでありたいという欲求に取って代わられるという、文化的シフトが起きているのだ

コンベンション センターが設置された場所もあって、あたかも、大人たちが上階で「文化」について語る中、子どもたちが階下でその具現化を試みているかのようだ。私が記憶する限り、「文化」という、曖昧で多分に問題含みの包括的用語は、クリエイティビティや真正であることと同義だった。それはまた、往々にして、流行の最先端を行くヒップホップや若者、黒人やラテン系の若者の代名詞でもあった。有意義ではあるが使い古された「文化のためにやっている」という言い回しも、突き詰めれば次の2点に要約できる。期待されている表現の場で、そして他に誰もまだそれをやっていない場で、自分自身のストーリーを語ること。そして、作品が表現しているという人生を生きることだ。偶然による場合も多いが、究極的にはこの2つの機能を演じることで非常に望ましい成果をあげることができる。つまり、文化的資本となる。

だが、このマーケットプレイスは、文化が脈打つ場所と位置づけられていたにもかかわらず、何かが違う。この場所は、望む限りの資本に支えられ、商いの活気に満ちあふれていたが、私が長年文化だと考えてきたようなものの形跡はほとんど見られなかった。これは間違っていると思った。不快だった。そしてその時、自分の方が、2017年において重要とされることを見失っているのではないかということに気づいた。「文化」という目もくらむような言葉に、今なお意味があるのであればの話だが。

企業として、Complexは今日のメディア時代を象徴している。 ほんの短い期間、話題を集めること、理想的にはバズることは、長期にわたる持続可能性よりも魅力があるのだ。これは必ずしも悪いことではない。ただ、そういうものだと理解するのは重要だ。そして、このような精神性を体現するのがComplexConなのだ。つまり、Complexというビジネスが、やるべきことを正確に遂行しているにすぎない。クールだと考えられうるものなら何でも集める。どう考えてもクールでないものですら集める。中にはそれをクールだと考える人がいるはずだからだ。その意味では非常に民主的で、参加するための敷居は低い。ここでの根本的な信念は、この場所でクールなふりができないなら、どこに行ってもクールなふりなどできない、というものだ。このメディア生態系のハイパーアクティブな性質から、無名の人々が、一瞬にしか感じられないような短時間のうちに、一躍時の人になってしまう。そして、これは真に際立った才能のためというより、むしろ運命のいたずら、あるいはアルゴリズムによって引き起こされる。このシステムは一見、操作できそうに思えるため、人々は自分たちの選んだ創作物に磨きをかけるため地道に精進するのではなく、より多くの時間をかけてSNSの技術を磨こうとする。何かをやったり創作したりしてクールになりたいという欲求が、ただ単にクールでありたいという欲求に取って代わられるという、文化的シフトが起きているのだ。馬車の後ろにそれを引く馬が繋がれているような本末転倒だ。ちなみに、この馬車にはSupremeボックスロゴがデザインされているのだが。ComplexConにいると、SNSでどれだけ話題になるかで成否が左右されるインターネットの現状を、送り手と受け手の両サイドから見るかのようだった。これはコンテンツ クリエイターのための週末なのだ。物理的にはロングビーチで開催されていたかもしれないが、実際は、そこはネットの世界だった。どの方向を向くか、どの通路を歩いていくかによって、文化の2つの側面のうちひとつと直面する。博打打ちか詐欺師か。ロングビーチでの2日間、生まれながらの博打打ちとして、この変化を肌で感じ、目で見て耳にした。詐欺師はここにいて、ますます活気づいていた。

日曜日、会場に到着すると、誰もが昨晩のN.E.R.D.のステージがひどかったという話をしていた。確かに、いくつか誤解を生む情報が事前に流れていたせいもあった。N.E.R.D.再結成として宣伝されていたにもかかわらず、新アルバム発売に向けた公開ライブイベントだったからだ。そうはいっても、『星の王子 ニューヨークへ行く』のダンスステップと、「Rhythm Nation」と、ブロードウェイ ミュージカルの『ライオンキング』と映画『RIZE ライズ』を、全て掛け合わせたようなライブは壮観だった。すさまじい大音量が鳴り響き、新しくなったN.E.R.D.の音楽に合わせた演出のパーティーで、ケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)やアンドレ・3000(André 3000)、 リアーナ(Rihanna)をフィーチャーしていた。だが、どういうわけか、翌日会った誰もがこのライブを酷評していた。

そもそも、会場の人たちが、この週末に一体何を望んでいたのかがはっきりしないのだ。だがキャレドがシューズを配ると言った瞬間、それが何だったのか明確になった。キャレドのこの発言で、群衆は自制心を失った

DJキャレド(DJ Khaled)のパフォーマンスがあり、それは彼の膨大な数のヒット曲のメドレーで始まった。人々は盛り上がり、5秒間ほどだが、キャレドがサルサを踊り出したときなど、特に会場が湧いた。そろそろ通りの向かいのカリフォルニア ピザ キッチンで夕食でも食べようと会場を去ろうしていた矢先、キャレドが突如ステージのセンターを離れてDJを始めた。明るい声で、このパーティーを大晦日の年越しパーティーのように盛り上げるぞと叫んだ。キャレドは古い曲から新しい曲まで、DMXやジェイ・Z(Jay-Z)からカーディ・B(Cardi )までかけた。私の周りのほとんどの人は、この歌わないラッパーの「Bodak Yellow」の合図を夢中になって見つめた。

私自身は楽しんでいたが、ベストヒット コンサートからパーティーへとライブが移るとき、奇妙にも観客の熱が冷めるのを感じた。これが、会場の人たちが望んだことだったのかははっきりしない。そもそも、会場の人たちが、この週末に一体何を望んでいたのかがはっきりしないのだ。だがキャレドがシューズを配ると言った瞬間、それが何だったのか明確になった。キャレドのこの発言で、群衆は自制心を失った。週末の音楽イベントという意味合いは、見たところ、誰にとっても最も重要度が低かったようだ。ミュージシャンはそこにいたが、彼らが音楽を演奏していないときこそ、彼らは最も求められていた。

そして、真昼間にはミーゴズ(Migos)のステージがあった。私は、この尊い3人組のパフォーマンスを見られることにワクワクしながら、暗くして夜のような雰囲気を作り出したコンベンション センターの一角に立っていた。すると、ひとりの男がやって来て、ジョイントに火をつけて吸いながら、その友人が動画を撮影するのを見ていた。男は、途中、「Bad and Boujee」を歌詞の多くを飛ばしながらラップすると、動画をInstagramに投稿した。それからふたりは役割を交代して、同じことを繰り返し、それが終わると去って行った。

断言できるが、こんなにダサいものをこれまで見たことがない。見ていて恥ずかしかった。だが、それもどうでもいいことだ。なぜなら、外の世界から見れば、ミーゴスの限定ライブでハッパを吸う彼らは最高にカッコいいのだから。

これを見て、そこにいることが重大なことのような気になった。この2日間、私は、人々が世界に向けて発信するイメージを完全なものにする様子を目の当たりにした。そして、ComplexCon後の数週間、あのコンベンション センターについて書かれたものや、そこから投稿されたものの数々を見ていたが、あたかも「ComplexConで実際に起きたことを、決して人に話してはいけない」というのが、このイベントでの第一原則かのようだ。「実現できるまで、ふりを続けろ」という格言は、正確には、「ふりを続けていれば実現できる。そして続けられる限りはふりを続けろ」になってしまった。

日曜日はヤング・サグ(Young Thug)、M.I.A.、そしてグッチ・メイン(Gucci Mane)という顔ぶれだった。もう見たくなかった。この話題についてはもううんざりだったし、L.A.のホテルは本当に快適だったからだ。だが、もし刑務所での「健康的生活」を経てスリムになって復帰したグッチ・メインの無料ライブを見なかったと言えば、サンクスギビング休暇でアトランタに帰ったときに、みんなに合わす顔がなかった。最後にマーケットプレイスを通り抜けた。ほとんどのブースは片付けられていた。だが、まだ開いていた残りわずかのブースには、一握りの人々がまだ列に並んで何かを待っていた。ガードマンが彼らに、ここを去ってコンサートを見に行くよう懇願していたが、動く者は誰もいなかった。

Rembert Browneはフリーランス ライターで、今年は「The Fader」、「The Ringer」、「Bon Appetit」、「Bleacher Report」などに寄稿。過去には常勤ライターとして、ブログ「Grantland」や『New York Magazine』に執筆していた

  • 文: Rembert Browne
  • 写真: Hannah Sider