フィオルッチを語る10のイメージ
ミラノのクリエイティブ ディレクターが遺した、気まぐれで永遠、そしてセクシーな足跡
- 文: Giangluigi Ricuperati

エリオ・フィオルッチ(Elio Fiorucci)は、幻のムーブメントの主要人物であった。歌、写真、運動、スローガン、コラボレーション、思想に、ハイとローの概念がなだれ込んだ1965年から1970年にかけての変革の期間、彼の仕事はポストモダン スタイルのポップ ファッションと形容できたかもしれない。フィオルッチのビジュアル世界は、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)、ロイ・リヒンテンシュタイン(Roy Lichtenstein)、アレックス・カッツ(Alex Katz)などのアーティストや、エットーレ・ソットサス(Ettore Sottsass)のようなデザイナーから大きな影響を受けている。フィオルッチの作品では直感がさらに単純に濃縮され、子供のような無邪気と象徴、エロティックと悪趣味が混在している。独創的なマーケティングの天才であり、大胆で関連性の豊かな広告やステッカーをまるでデジタル以前のインスタグラムのごとく活用して、自らのイマジネーションを拡散し、自らの美学を冷戦時代の少年少女の脳裏に焼き付けた。1967年に初の店舗がミラノにオープンしたのを皮切りに、数多くの支店が世界中にオープンしていった。70年代には成長しつつあるカルトでしかなかったブランドは、80年代初頭についに花開き、少なくとも2世代にわたって、ティーンたちの共有イメージを彩ってきた。
フィオルッチの奔放な想像力が今なお私たちの琴線に触れるのは、おそらく、彼がグラフィックによるある種のパロディやイラストレーション全般に愛情を捧げていたからだろう。結局、私たちは描かれた幻想の時代を生きているのだから。フィオルッチは、また、あらゆるものが初めて混じり合った時代を思い出させてくれる。エリオの残した足跡を評価するには、イタリアのステッカー出版会社Paniniとのコラボレーションを見るのがいちばんだ。それらのステッカーは、現在に至るまで、長きにわたってブランドを象徴してきた顔のひとつでもある。「深みは表面下に隠れている」というオーストリアの詩人フーゴ・ホーフマンスタール(Hugo Hoffmanstal)の座右の銘に従えば、社会の表皮の下に隠れた深淵を細密に描いた肖像画家として、フィオルッチを位置付けるべきだろう。
私が唯一、最初で最後にエリオ・フィオルッチに会ったのは、2011年11月のある霧深い日。ミラノのドゥオーモに程近い、小さな劇場のステージ上だった。彼は紳士的でシャイだった。そして、生涯のヒーローであるエットーレ・ソットサスに関するスピーチを前に、とても集中していた。スピーチを始める前に、彼は例の数百枚ものステッカーを披露して、私を圧倒した。かつて「アイデアとフォームのミラノ工場」と呼ばれた過去を納得させる、気前の良い備忘録だった。
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彼の名前は永遠に80年代と結び付くとしても、ブランドの基礎が築かれたのは70年代だった。80年代アイコンのひとりだったダイアナ妃は、フィオルッチの熱狂的なファンであり、わざわざブランドに特定のアイテムをリクエストするほどだった。後年、エリオはインタビューで語っている。「僕が作ったズボンがないとプリンセスはご不満だと思うと、とても満足だったね」

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もし私たちの夢に郵便が必要だったら、どんな切手を貼るだろう。フィオルッチのステッカーのように、華麗で派手な切手かもしれない。イタリアはモデナを拠点とするステッカー アルバム専門の出版会社Paniniは、紙と糊が作り出すその小ミュージアムで、何世代にもわたって、イタリアの子供たちの想像力形成に一役買ってきた。いちばん有名なのはサッカー選手のステッカーだが、イタリアの甘美な80年代は、Paniniがファッションにも手を広げる絶好の時期だった。なにしろ、80年代はジョルジョ・アルマーニ(Giorgio Armani)とジャンフランコ・フェッレ(Gianfranco Ferré)の時代。ポップアートのセンスを備えたエリオ・フィオルッチは、Paniniにとって必然の選択だった。フィオルッチ ステッカーは、今や熱烈なファンが羨望する高価な収集品であり、すべての人が共有する文化遺物であり、カラフルで独創的なフィオルッチの想像力を現在に伝える証拠品だ。

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フィオルッチ ステッカーは1984年に発売が開始された。最初は、200種類がストーリー、エレクトロン、ピンナップ、ロマンス、ダンス、スイミングの6つのテーマに分類され、新聞や雑誌の売店で販売された。どのステッカーも小さな名画と言うべき質の高さで、暗示的、明示的な関連性がふんだんに盛り込まれ、立派な教育ツールとして通用した。ひとつのイメージの中に、ピンナップ カルチャー、アレックス・カッツ、そして言うまでもなくロイ・リヒテンシュタインの要素が見てとれる。

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肌の露出に対する社会の認識の変化を物語るこのキャンペーンは、現在と全く異なる時代の産物である。この写真は「女性に対する暴力」を誘発しうるとして、フィオルッチはイタリアの広告監督当局に召喚された。

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フィオルッチが、ある時期、緊密にコラボレーションした相手は、あらゆる意味で社会のビジュアルイメージを革新した写真家オリビエロ・トスカーニ(Oliviero Toscani)であった。トスカーニは、ブランド展開という目的のために、ドラマチックでジャーナリスティックなイメージを登場させた、最初の広告マンだった。死が間近に迫ったエイズ活動家デビッド・カービィー(David Kirby)の有名な写真を使い、論議を巻き起こしたBenettonのキャンペーンの立役者でもあった。また、70年代に手がけたJesus Jeansキャンペーンでは、聖書のテキストとデニムのホットパンツを対比して、イタリア全土にショックを与えた。
この素晴らしい1枚の写真で、トスカーニとフィオルッチは、当時は違法のアンダーグランド表現であり、現在なお世界中で発生しつつあるグラフィティのカルチャーをスキニー デニムと結び付けた。

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イタリア思想界の重鎮がそれぞれ自分が憧憬した人物について語る、という企画のイタリア国家統一150周年記念イベント「Canale150」。参加者であったエリオ・フィオルッチは、イタリア人に愛されたステッカーというフォーマットとヒーローを組み合わせ、エットーレ・ソットサスの大判のステッカーを持ち込んだ。ソットサスについての講演は、次のように始まった。「キャリアを始めて間もない頃に彼を知ることができたのは、私にとって、この上ない幸運でした。あれは、私がミラノのサンバビラに店をオープンさせた頃でした。エットーレは、文化やデザインでミラノを代表する存在であり、イタリアの文化史における有数の最重要人物であり、もっとも広く知られ、もっとも愛された人物のひとりだったからです。そして、間もなく、私は彼と関わりを持つ幸運に恵まれました。というのも、私はデザインや建築に情熱を持っていたし、洋服だけではなく、デザイン オブジェの販売も考えていたからです。彼が私をスタジオに招待してくれたときから、私たちのささやかな友情が始まりました」

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メンディーニ、アルキミア、メンフィス(Memphis)、そしてフィオルッチは、理想の組み合わせだった。80年代初頭は、ポストモダン特有の斜に構えたアティチュードが頂点に達した時代であったし、フィオルッチ自身、ちょっとした哲学者であると同時に、メンディーニの最高の顧客のひとりでもあった。

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フィオルッチは、決して、ノスタルジーに浸るタイプではなかった。ウォーホルへの傾倒は、いとも簡単に、ポップアート界の真の直系相続人キース・へリング(Keith Haring)へと対象を変えた。偉大なるキースは、フィオルッチに影響を与えると同時に、フィオルッチのイメージから影響を受けた。

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1983年、初めてのセルフタイトル アルバムを発売したばかりのマドンナは、ニューヨークのStudio54で、初めてメディアにお目見えした。Fiorucciのブランド15周年を記念したパーティー会場。ピンクとブルーの巨大なケーキの中から飛び出した青いドレスのシンガーは、ステージでパフォーマンスを披露した。

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エリオ・フィオルッチの世界には、ウォーホルがいない時にもウォーホルがいた。もし大巨匠ウォーホルが自分のバンドをExploding Plastic Inevitableと名付けてさえいなければ、その名前はフィオルッチ自身のオルタナティブ ロック バンドにぴったりだったろう。アンディ・ウォーホルの継ぎ接ぎで作品を作っても時代遅れに見えなかったという事実から、いくらかでも、当時の無邪気をはかり知ることができる。しかし、その通り、すべてはまだそこに存在していた。20世紀という時代には、性別を問わず、今は亡き超人たちがまだ存在していた。そして、エリオはそんな半神半人たちと一緒にいるのが好きだった。

- 文: Giangluigi Ricuperati