2010年代の
辛口ファッション記録
トラックパンツのグローバリズム、新たな国粋主義、危機的状況における色彩をアイシャ・A・シディキが考察する。

こんな時代に、1年を振り返ったり、総括をするなんて不思議な気分だ。1年を振り返るという行為は、ものごとがもっとシンプルな時代にこそ、相応しい行為であるような気がするが、2018年はとにかく過去が顧みられることのない1年だった。トレンドに関して言えば、通常よりも格段に変化のスピードが速く、それらに名前がつくよりも先に確立され、メディアは、ほとんど本来の役割を果たしていなかった。ケーブル ニュースは、とりとめのないBGMを流す機械と化した。評論家やコラムニストは、この不公平な世の中で、答えが既に溢れかえっている問いを議論していた。全国紙は兎にも角にも極右に寛容的で、伝統的なメディア機関で働く幹部たちが共感の眼差しを向けるのは、ネクタイを締めたファシストの権力者であり、彼らにターゲットにされた人たちではなかった。一方で、この時代において、唯一健全な状況を保っていた産業は、ファッション業界だった。あらゆる面において「健全」と評価されたことなど、ほぼ全くない業界だ。世界中のファッション コミュニティの直感的な集団的選択が、今の時代に有益な足跡を残すことを選んだのかもしれない。未来を占うのがお茶の葉だとすれば、現在を理解するには、ファッションを見ればこと足りるのだ。

トラックパンツのグローバリズム
トラック パンツは、フランスのカレーにある難民キャンプで暮らす者、もしくはサウス ロンドンのDJ、あるいはアジア系の男性高齢者、またはスーパーモデル ── そのいずれが穿いていても不思議ではない、唯一のアイテムだ。今日、トラック パンツは、「新しいトレンド」ではなく、カルチャー シフトを表している。かつて厳格にカウボーイのためにあったジーンズが一般にも浸透していったように、トラック スーツも同じ道を辿っている。あるアイテムが社会に広く浸透するには、ふたつの段階を踏む必要がある。まずはジャンルの崩壊が起きること、それからジャンルが再定義されることだ。陸上競技における着用から、イギリス、フランス、ロシアの様々な労働者階級のサブカルチャーのユニフォームとも言うべき普段着へと変化していったトラック パンツの変遷は、その両方の段階を踏んでいた。イギリスではチャヴ、フランスではラカイユ、ロシアではゴプニクと、どれも腑に落ちないレッテルを貼られながら…。今日、トラックパンツはその特殊性を失い、2010年代のジーンズとも言える存在になっている。快適で、実用的で、幅広い価格帯やサイズが用意され、もはや時代そのものを意味するようになっている。
石油の多元主義
1250ドルのGucciから30ドルのadidasまで、今日幅広い価格帯で手に入るトラック パンツが、現代の象徴となったのは、実に皮肉なことだ。スポーツが起源であるという事実は、ごく一部の人たちに許された贅沢な活動であることを想起させるし、それ以外の人たちにとっては、あこがれの対象となる。天然素材の生地とは異なり、ポリエステルの場合、質によってランク分けされるほど品質に差異がない。にもかかわらず、価格はピンキリだ。ポリエステルの服は、大型スーパーのウォルマートで売られていようが、ラグジュアリー ブランドのものだろうが、同じように、酸とアルコールの化学反応を起こすために石油を使う。その結果、天然素材にはない伸縮効果があり、着用や洗濯による劣化には比較的強い。また、廃棄された後も分解されにくい。この強度の高い生地の普及と流行は、このトレンドが過ぎてからも長きに渡り、2018年の爪痕としてその影響を残すだろう。
「ビニール」と呼ばれて今年出回っている、コーティング加工されたポリエステルは、映画『マトリックス』のコートとよく比べられるが、それはノスタルジックではなく反動だ。Calvin Klein 205W39NYCのコーティング加工のトレンチコートがその良い例だ。ちなみに、春から夏にかけてなら、ベージュをおススメする。高解像度メディアが登場してから久しい今日、私たちはツルツルでキラキラしたもの、限りなく滑らかなものを欲している。ハイライトとグロウが主導する最近のメイクアップのトレンドがファッションにまで波及してきたようだ。着古したコーデュロイやオヤジ臭いベースボールキャップは、しまっておこう。ヴィンテージが醸し出す風格なんて考えるだけ無駄だ。2018年は文字通り、キラキラするべき年だったのだから。
CDの裏や「アトミック パープル」色をしたNintendo 64に代表される、虹色や合成素材の台頭に隠れて、蛍光色は今や見る影もない。虹色が成功した一番の例は、Sies Marjanのトレンチ コートだ。また、2016年には悪趣味だと思われていたものが、今ではスパンコールが手触りがよいと言われたり、ポリウレタンやPVCのすべすべな感触がウケている。こうした素材は、人の視線はしっかりと「釘付け」にするが、触ってみると手からするりと抜けてしまう。ビニールは、facetuneを使って画像加工されたような、蛍光色のポリエステルが主流だ。M&MのようなグリーンのMarniのビニール コートや、棒状グミのトウィズラーズを彷彿とさせるレッドのMSGMのビニールドレスは、カラフルな色でコーティングされている。もし燃やしたらと、インスタグラムのスライムビデオのようになるだろう。Margielaが、銀色の防火シートもどきの服を作ったのは、こうした燃えやすい生地が大勢を占めるせいなのかもしれない。

2000年代のパステル、2010年代の色彩の飽和
誰もが、アメリカのコメディドラマ『となりのサインフェルド』に出てくるちょい役を彷彿とさせる格好をしていた、過去何シーズンかのトレンドは終わった。代わりやって来たのがはっきりとしたラインに飽和色を使ったアニメの主人公のような格好の時代だ。そして鮮やかな色彩の時代の終焉の兆しが見える前に、ごく短期間、柔らかい砂色のスエードがファッションの潮流を支配した。Yeezyが発売され、Urban OutfittersとZaraのベージュのフーディとオリーブ色のレギンスがそれに続いた。ランウェイは、パステルのシルク、ぴったりとしたストレッチ ニットとファーで溢れた。それは、まるで、ディストピアな未来を豪華なキャンプとして捉えるサバイバリストたちならではの贅沢な装いだ。今年はチェリー レッドやバービー ピンクのような鮮やかな色、卵の黄身の色や、おもちゃメーカーFisher Priceで使われるようなセルリアン ブルーが席巻した。Adder Error、Marine Serre、Martine Roseといったブランドは、原色人気のおかげで、ここ最近、さらなる注目を集めている。
これらの色の多くは、90年代のゴツい電子機器や電子おもちゃによく見られた。Sony Sportsのイエロー。Hasbroのピンク。Nokiaのブルー。90年代のレトロなテクノロジーの未来志向は、美に関するアイデアの源泉としては、うってつけの時代だ。なぜなら、90年代に思い描かれた未来というのはとても安全なものだったからだ。全ての電子機器がカラフルで長持ちするかのように思われていた。反対に、現実のミレニアム時代のスクリーンときたら、私たちを監視するスパイのような存在で、粉々になりやすいヒビの入ったガラスでしょっちゅう親指を切ってしまう代物だ。
都市風景と労働力
2010年代から2020年代への移行は、「危機的状況」にまつわる色使いを通じて、あるいは高級不動産物件を過剰に開発する都市風景の不安定性を通じて表現されてきた。たとえば、建設労働者の服の色や戦闘用の装備がそれにあたる。(Heron Preston)が工事現場のカラー コーンのオレンジ色を取り入れたと思えば、それ以外のブランドはネオン ライム色に染まった。ボイラースーツや上下お揃いのセット、分厚い作業着のコットン、そして破れにくいリップ ストップ加工をしたナイロン。蛍光色かつ実用的で派手な現代の服は、自然体で「どこにでもありそうな」ファションでは満足できなかった衝動を満たしている。かつては、集団的同一性の中に身を隠すことを望んだとすれば、今は自分の存在を消すことができないことに絶望している。自分たちが住む都市に対して複雑な感情を抱き、市役所職員のような服装をする。グローバル化されたビジネスは、植民地時代に引かれた境界線など関係なく拡がるが、いまや、国家よりも意味のある政治的単位として機能しているのは、金融ハブたる都市だ。ブレグジット後のロンドンを見れば、一目瞭然だろう。そして、それこそが、今日の世界を蝕む緊張関係、そして「テロとの戦争」と連動する形で「国境警備」と称して幅広く行われる、暴力の起源なのだ。
ロゴの娯楽: ポスト国家的未来のための色使い
ファシズムの再興は、貧困への不安や、安全対策の不備から生じた暴力に対する不安に起因する。あるあらゆる階級に不安を引き起こす極度の貧富の格差と相まって、国家が、世界を取り仕切る主体として、ますます意義を失っていくことへの反動である。支配層に失望した偏狭な人々は、決して自分たちだけのものになり得ない、唯一残されたフロンティア、すなわち、未来を追い求める。その一方で、世界の都市部に住む人々は、まるでチームのマスコットのようにブランドロゴを身にまとう。Nikeのスウォッシュ、adidasのストライプ、FILAの4文字、そしてかなり時代遅れと言ってもいいChampionの手書き風の筆記体ロゴでさえも…。ハイブランドもその流れに追随している。私たちが「ストリートウェア」と呼ぶロゴ主導型のデザインは、かつては、ファッションよりもグッズだけに見られた傾向だ。ところが、ラグジュアリー ブランドが、自分たちのブランドをグッズのように売り出した結果、人々がそれをこぞって身に着けだした。
90年代のスポーツウェアの配色は国旗の色を模しており、企業ブランドは一国の国境が示すよりも、よほど有意性のある連帯感を醸し出している。ロゴをひけらかすこと、そしてロゴをデザイン要素として純粋に評価することは、私たちが持つ最も健全な愛国心だ。それは、ポスト国家時代の未来に向けた、新たな国粋主義である。地域に根差しながらも分権的であるこの帝国は、統一されたブランド戦略の中で浄化され、スポーツウェアのロゴは国を超えて認知される。星やストライプをそれぞれロゴとして身に着ければ済むのに、どうしてわざわざ星条旗を掲げる必要があるのか。
多くの人がTommy Hilfigerの小さなフラッグで自身を飾り立てた直近の時代は、90年代の好景気、つまり人々を裏切っ新自由主義政策の多くが萌芽した時代であった。そして、今日、キリル文字とスポーツウェアのロゴは、危機的時代のアイコンとして位置づけられている。

東欧圏的美学
ロシア語がわからない人間からすると、キリル文字はどんな反逆的なグラフィック ロゴよりも、クールなものとして機能する。その点でアドバンテージを持っているブランドが、Gosha Rubchinskiyと、より思慮深いYulia Yefimtchukである。アメリカ人デザイナーであるヘロン・プレストン(Heron Preston)でさえ、styleという文字をキリル文字で表記することを好むほどだ。痩せこけた東欧圏のモデルは、白人労働者階級特有の雰囲気をたたえ、どことなく民族的な架空の人物を想起せる。それは、アメリカが世界のために描いたビジョンを信じたおかげでこうならなくて済んだのだと言われた未来の姿に他ならない。2010年代が終わりを迎えつつある現在、キリル文字や東欧のデザイナーの人気はポストソビエトと呼ばれているが、より正確に言えばポストアメリカである。空想上の東欧圏は、壮麗な西欧のイメージが生き長らえた最後の場所なのだ。
アメリカは終わった、これからお前はカウボーイだ
国としての起源や現在のあり方が、あまりもにも多くの暴力を生み出している国のアイコンをついに攻撃できるなんて、ようやくこの時が来たか、という万感の思いだ。今年のプレーリー スカートやウェスタン シャツ、そしてカウボーイ ブーツは、「フロンティア」への郷愁を意味するわけではない。私たちは、凋落した帝国のクリアランスセールを目の当たりにしているのだ。白人が作ったアメリカ文化は常に、誇張を伴う、単なる一般大衆向けのまがいものであった。その表現手法は、地理的、人種的、とにかくあらゆる境界をめぐる恐れに対処するためのセラピーやプロパガンダとして生み出された。この国は、テロへの戦い──すなわち自分たちの領土ではなく中東の砂漠における西部劇映画のアメリカ自身による再演──の最終章によって落ちぶれた。他方、世界中の人々は、テロとの戦いが引き起こした数え切れないほどの犠牲を前にして、徐々に感覚が麻痺している。だから、ウェスタン スタイルの服は、ある意味、新鮮さを感じるくらい、全く真剣に受け止められないのだ。そしてついに、このスタイルが意義を失う時が来た。言っておくが、これは、Ralph Laurenが私たちに、「新たな」アメリカの「古い」お金を売りつけているのとは訳が違う。帝国の美学を流用し、ダンディーなスタイル、洗練されたシックスタイルとして解釈しているのは、世界の他の国々なのだ。Batshevaのフリル付きプレーリー ドレスは、カクテル パーティーのためにあるのであって、農場生活のためではない。Raf Simonsの「ウェスタン」シャツは、パリっとした状態を保つように作られており、汗で皺がよったり、バンダナを巻いた格好で着るためのものではない。新たなウェスタン ウェアは、本物の大草原よりも、むしろ砂漠で開かれる音楽フェスティバルのアフター パーティーに着想を得ている。ジョン・ウェイン(John Wayne)は、軍隊関連の賞を受賞した人種差別主義の徴兵忌避者である。もしも野外コンサートでかぶるものを探しているなら、彼のハットこそが信条を見失ったことによって改良された、お誂え向きのものだ。

反カリフォルニアとしてのフロリダ
場所の持つ意味は時と共に変化するように、そこに付随する美的感覚も変化する。今年、多くの人が、まるで観光客のような格好をしていた理由はそこにあるのかもしれない。ジーンズやトラックパンツにタックインしたTシャツ、ごっついスニーカー、そしてナイロン バッグ。フロリダ州オーランドに行く観光客のお手本のようなコーディネートだ。アメリカにおいて、政治的に最も手厚く守られているのはフロリダに住む白人のオヤジたちかもしれない。そして身体が本能的に安全を求めるから、私たちは白人オヤジのコスプレをするのだ。
トランプ大統領の時代におけるフロリダは、ブッシュ大統領の時代におけるカリフォルニアのような位置づけだ。言うなれば今は、ブッシュ時代のデトックス中なので、反カリフォルニア的要素が流行るのは、ごく自然な成り行きだろう。まるでガソリンスタンドのTシャツコーナーで買ったかのような、鮮やかな色彩を帯びた、スクリーン プリント シャツ。皮肉が込められすぎて、もはやどこが皮肉かわからない動物や宇宙船が散りばめられている。例を挙げるなら、Opening Ceremonyとコラボレーションしたクリスチャン・ラッセン(Christian Riese Lassen)のアイテム。それに、迷彩柄やカーキのバケット ハットをプラスすれば、湾岸未来主義アメリカン スタイルの完成だ。そのインスピレーションの源泉は、いずれもフロリダにちなんだもの ── モトクロス、ケープ カナベラルにあるNASAの人工衛星・宇宙船の打ち上げ基地、そしてディズニー ワールドのDisneyなどだ。ちなみに、Disneyは、トレンドとして来年さらに飛躍することが予想される。アメリカの国自体のソースコードを書き換えるがごとく、180度の方向転換の表れだ。しかし、これらだけがインスピレーションの源泉というわけではない。
移民の美学: 防衛する者、追いやられる者、家でダラダラする者
BalenciagaからGucciにいたるまで、ファッション エディトリアルが、ますます90年代に発展途上国から西欧諸国に移住した人たちのくすんだ家族写真のていを成している。小花柄のプリント、ふわふわの起毛絨毯の様なテクスチャ、サイズの合わないスーツ、そしてヘビーなウィンタージャケット ── それも、着る人のサイズに合わせたのではなく、先に移住した親戚が「新天地じゃこれぐらいの物が無いと暮らせないよ」とアドバイスして送ってくれた古着のような、ざっくりとしたサイズ感のもの。アウターはそもそも重ね着するものだが、今年のトレンドは、ミスマッチなサイズ感で重ね着されている。まるでカバンに入りきらない上着を、全部無理やり着てしまったかのように…。このトレンドは、Balenciagaが、チェックのシャツ、ジャージ素材のフーディ、ハイテク素材のフリースをこれでもかと重ね合わせた、7層のジャケットを作ったことで、ピークに達した。これまた、スーツケースを持たずに旅をする者が、仕方なしにするような着こなしを思わせるアウターだ。そのため、こうしたルックを次々と発表する先進国と、本来そういうものを避けたいがために先進国に移住してきた者たちとの間に、堂々巡りが生じている。しかも、デザイナー達の提案するそれは、余りに小綺麗すぎて馴染みがないので、インスピレーションのおおもとである途上国では受け入れられることがないであろう、どこまでも平行線をたどるアプローチだ。
今年はほとんどのラグジュアリー ブランドのコレクションで、ラウンジパンツが登場したが、2000年代の華やかなファッションのベルベット版ではない。Juicy Coutureの上下は、目もくらむような、余裕をひけらかすためのものだった。だが、今日出ているパンツのほとんど全てが合成繊維製で、トラウザーズでもジーンズ型でもない、ウエストにゴムと紐の入ったものばかりだ。こうしたアイテムは、郊外に住むリッチな住人のためのものではない。むしろ、郊外に住むリッチな白人に見えないための、ファッションだ。では、他にどんな人がだらしないパンツにサンダルを履いてちょっとしたお出かけをするだろうか。あなたの移民のお父さん?もしくは近所のスノッブな白人の子? どちらをマネすればクールなのかは、ハイプビーストたちが、随分前に決めてしまっている。
2018年はTPOの概念が崩壊し、一昔前のドレスコードは排外的な思想と共に、冗談と化してしまった。かつてユニフォームが、それぞれの場所で着られていた時代は終わりを告げ、あとに残されたのは、本来意図された目的とは別なものと合せるスタイルだった。例えば、スキージャケットは冬のストリートウェアとして市民権を得たし、チュール、プレッピーなポロシャツ、チェック柄のスカートはその出自を離れ、今の20代にとっては、どんな着方をしても良い、自由なものとして浸透している。Ralph Lauren のクマですら、今や スケーター なのだから。
今一番人気のカントリー クラブは、マー・ア・ラゴだろう。悪趣味でデカダンス感漂うこの場所に集うのは、垢抜けないだけならまだしも、今やトランプを崇拝している輩たち。ヘリンボーンや、グレンチェック、千鳥格子がずらっと並ぶ景観に、苦笑せずにはいられない。
また別の場所では、戦闘着がお洒落なアイテムとしてリバイバルしている。ハンガリーの国境では有刺鉄線が足りなくなり、国境警備もままならないというのに、ファッション コンシャスな人たちは、軍人ならぬ自警団のような服に身を包む。カーゴ ポケット、バックル、ベレー帽、タイトなサーマルの重ね着、そしてさらにたくさんのポケットのついたベルト。SWATのような格好を見るにつけ、はたして警官と占領軍との間にハッキリとした違いなんてあるのだろうか…そんな疑問が頭をもたげる。
難民キャンプに寄付された服についたスローガン、非営利団体、辻褄が合わないこと
カレーにある難民キャンプの秘密の倉庫で、私は何週か前にそこで避難生活を送る人々に配給される服が入った箱の山を整理していた。そこでは定期的に警察のガサ入れがあるため、頻繁に私物を一から支給する必要がでてくる。私の仕事のうちのひとつは、配給される服に、軍のロゴがついていないか、あるいは彼が経験した困難な状況を思い出させるボートのようなプリントが入っていないかを確認することだった。遠くからでも目立つネオン色、高強度合成繊維、迷彩柄のTシャツ、カーゴポケット、そして重ね着風のアウターウェアが散見された2019年のランウェイは、国を逃れてきた者たちが着ていそうな服がたくさん登場した。
これらのラグジュアリー ファッションの模造品は、寄付として持ってこられるよりも、転売サイトで売られる可能性の方が高い。
2000年代初頭は、慈善団体によく寄付されるような、アメリカの名もない小さな町の名前の入ったTシャツ着ることがオシャレとされていた。今年は、そのスタイルの流れが、皮肉を微塵も感じさせない、大真面目な世界規模の慈善スローガンへと形を変えた。Balenciagaが、世界食糧計画(WFP)のTシャツとフーディを作ったのだ。 飢餓撲滅キャンペーンを、世界の「自ら率先して痩せている」エリート モデルを使って行うなんて、悪い冗談としか思えない。元来、全く異なる文脈で議論されていたことを、一緒くたにした、今年に相応しい突飛な考えともいえる。Tシャツの売り上げが伸びると共に、世の中の心配事が減っていくという仕組みだ。

シグネチャ Tシャツ
数年間の「ベーシック」を経て、人々はそろそろ主張の強いTシャツやスウェットを着る気分になってきている。どのブランドも、コットンのオックスフォードシャツを脱構築しようとしていた頃を覚えているだろうか?結局これは、シャツに折り紙で折ったようなディテールをほどこしたところで、仕立ての良いボタンダウンのクラシックなかっこ良さが引き立つわけではないということを証明したにすぎず、実質的にオックスフォードシャツの良さを殺すという犠牲を払うことになっただけだった。そして、今年は去年に引き続き、たくさんのブランドがロゴのデザインを一新した。Saint Laurent、Céline、Diane von Furstenberg、Balenciaga、Rimowa、そしてCalvin Klein まで、いずれも大文字で太字のサンセリフ体を使った、迫力のあるタイポグラフィを採用している。ラグジュアリーブランドというよりも、クリーンさを前面に出しており、IT企業のような体裁だ。ステートメントを身に着けるという点で、Tシャツほどのうってつけのものはない。今日のTシャツはボックス型でゆったりしていて、ロゴがプリントされているか、ロゴのようにデザインされたものがプリントされている。これはオバマ大統領の任期中に街でよく見かけた、ネオンカラーでアイロニーが漂う、シャレたテクノハウスのグラフィック Tシャツではなく、かつてアメリカが自国の安定を確信していた頃の、本物のレイヴ ウェアだ。

世界が終わるまで踊り続けるのではなく、終わらせないために踊るのだ
2018年5月、ベルリンでは70,000人もの人々と100以上のクラブが主導して、
極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」に対する大規模なデモが行われた。「No Dancefloor for Nazis(ナチのためのダンスフロアは無い)」というスローガンが掲げられ、もともとAfDが企画していた反移民集会の参加者をはるか上回る数の人が、対抗デモに参加した。ネオンカラー、ワイドパンツ、メッシュを重ねたファッションは、もはや単なるクラブに行くためのファッションではなく、そこに通う人々のライフスタイルを体現しているととらえるべきだ。マシュー・ウィリアムズ(Matthew Williams)やBalenciagaが、なぜ「Techno」という文字の入った服を作ろうと思ったかは理由は知る由もないが、私がAlyx のTシャツを着る意味は、はっきりしている。クラブが掲げる、反差別運動を世に広めるために、今以上のタイミングはない。
時代が危機に瀕したとき、それがエイズであろうと過剰な移民排斥運動であろうと、いつでもそれに立ち向かってきたのは、アンダーグラウンドのコミュニティだ。彼らは、自分を犠牲にしてでも他人の安全を守った。ファシズムの悪について机上で議論するよりも、そんな思想もろとも飲み込んでしまうような、深いベース音を鳴らした方が、有効な時間の使い方だと気付いたのだ。すべすべの素材で作られた、ゆったりとした作りのサイド ストライプの入ったパンツ、分厚いウールジャケット、仲間たちをハグできる長い袖。アスレジャーが席巻した時代は終わり、快適なユルさが主導権を握っている。フーディ、オーバーサイズのアウター、ごっついスニーカー、そして無造作な重ね着。サイズや質感がミスマッチな重ね着は、子供っぽくも見えるし、不良っぽくも見える。未来の価値が上の世代の博打によって目減りしていくのなら、せめて自分たちは子供っぽく挑発的な態度でいるほうがマシなのかもしれない。
グローバル規模の生産と消費のサイクルの反対側の立場にいたら、きっと運命を共有していたであろう、一緒に歩むべき仲間と、私たちは争うように仕向けられている。反移民、反LGBTQ政策を推し進める極右の過激派政党について、ようやく口を開いたヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)は、ヨーロッパ諸国に対し、移民を制限すべきとアドバイスをした。ただ右翼をなだめるためだ。服はその人を表すというが、極右に立ち向かう人々ががスーツ姿ではないことが、何よりも真実を物語っている気がする。
ファッションを注視する私たちは、知らないうちに死の惑星化を推し進める経済の一端を担わされ、利用されている。特にグローバル都市の恵まれた環境において、政治家や資本家たちは、「砂漠の向こうから、海の向こうから、敵が近づいてくる」と私たちの耳元で囁く。国境にまつわるパニックとは、これまで他人に地獄を押し付けて、自己満足のユートピアでぬくぬくと暮らしていた者が、騒ぐ姿だ。権力は、人々が真実に気がつくのを恐れ、不安を煽ることで、私たちが常に身構えざるをえない状態をつくりだしている。明るい未来におけるファッションについて考えを巡らすのであれば、重要なのは、何を身にまとうかではなく、どこに身を置くか、であるはずだ。
Ayesha A. Siddiqiはロンドンを拠点にしている
- 文: Ayesha A. Siddiqi