Loeweのルックブックは、ファストファッションへの抵抗となるか?
Jonathan Andersonが指揮をとるブランドの印刷物は、触れることができるものが持つ永遠の魅力を享受する
- 文: Zoma Crum-Tesfa
- 写真: Jamie Hawkesworth


指示語や詩が、またトレンドに返り咲いている。すくなくとも今現在は、という留保つきではあるが。170年の歴史を誇るラグジュアリーブランド、Loewe のチーフデザイナーであるJonathan Andersonが英「Guardian」紙に語ったところによれば、こうしたトレンドは大体いつも一時的なものに終わってしまうという。「私たちは、コンテンツの時代に生きている。何かをインスタグラムにアップすれば、すぐにリポストされて至るところに拡散される。そしてその数分後には消えて無くなってしまう。それ自体はネガティブなこととは思わないよ。自分の頭もそうやって働いているからね。」必要ならすべて燃え尽きてしまっても構わないというスタンスだからこそ、彼は常に最先端でファショニスタたちを満足させてきたのだろう。物語を語り続けることでわたしたちを常に熱中させ、飽きられることなく現代のScheherazade(「千夜一夜物語」の作者)になったのだ。しかし、目まぐるしく変化する文化生産経済の中では、物事をスローダウンさせ、速すぎる移り変わりを具体的な形に留めておくものが求められているのだ。では、実際にそのルックブックを見てみよう。
ルックブックは、ブランドという装置の中でいくぶん重要な「モノ」となってきたようだ。それは当然のことである。なぜなら、収集可能で手に触れることができるということは、ファッションと非常によく似た効果を持っているからだ。本来は絶えず移ろい、姿を変えていくものを、物質化し、一時停止させ、恒久的な姿に作り上げるところにルックブックの魅力がある。多くのブランドがルックブック作りに取り掛かる中、Loeweは、Jamie Hawkesworthの写真、Benjamin Brunoのスタイリング、M/M Parisのデザインによって対照的なリズムを表現するためにルックブックを作る。彼らの本は、コレクションに見られるエキゾチックな素材や、神話を彷彿とさせる洋服の構成(手づくりによるそのガーメンツは、間違いなくヨーロッパのどこかの公国にある山に住む民族のもので、それがもしLoeweのためではないとしたら、古くから続く慎ましい職人たちの種族は生活できなくなるだろう)に焦点を当てるのではなく、むしろ本が持つ形式的な構造や、本の中で繰り広げられるストーリーの構成要素に重きを置いている。
Andersonは、Loeweの引き継ぎの件で初めてLVMHのDelphine Armaultと面会したとき、ある本を持参した。数百もの写真で埋め尽くされたその本は、白い砂の上に仰向けになった透き通る肌の若者たちの姿を収めた、1997年発行のイタリア版「Vogue」に掲載されたSteve Meiselの写真で始まる。まばゆい光を一身に浴びたモデルたちの視線は、カメラのフレームを超え、遥か彼方に向けられている。そこにはわたしたちがイメージする若者特有のくつろいだ空気はなく、むしろどこか落ち着きがなく、今にも怒りが爆発しそうな姿として作られている。後にMeiselのイメージは、Andersonが初めて担当したLoeweのキャンペーンで用いられることになったばかりでなく、Loeweの一風変わったルックブックを貫くアティチュードの基盤となり、初期のエディションに大きな影響を及ぼしている。今回のルックブックで撮影を担当したHawkesworthは、Loeweが得意とするスエードのアンサンブルを真正面からとらえ、同じコーディネートを実に数ページにわたって収めている。モデルのポージングはイメージごとにわずかに変えられている一方で、彼女の目線はあちらこちらへ向けられ、紙面を越えて本の前のあなた自身の目線とたびたび対峙する。見る側がそのイメージと真剣に向き合わなければ、おそらく本の内容は宙づりにされ、ただ美しいだけのものに映るだろう。見るものが主体的に興味を持ち、手に触れることで初めてイメージが活性化されるのだ。




近年のルックブックは、より物語性を重要視するようになってきたと言える。折りたたまれたポスターが各エディションにカバーとしてかけられ、オフホワイトのリネンを用いた本の表面をいっそう際立たせ、いまだ存在感を感じさせる仕上がりではあるが、イメージの撮影場所や、プロダクトの説明、そして見るものがそれをどのようにして読むべきかというルールでさえ、ますます流動的で自由になってきている印象だ。Anderson自身は、Loeweの2016年秋冬メンズコレクションを「going into the wilderness」(=荒野へ)と形容する。もちろん、その世界観はルックブックに反映されている。このシーズンのルックブックには、キノコのような岩石で有名なスペインのクエンカで撮影したイメージが収められている。レオパード柄の毛皮のハットで着飾った2人のボーイッシュなノマドたちが、幻覚を見ているかのような雰囲気の中を歩んで行く。まるで、何かまともな目的を奪い去られたかのように見える。かの有名なドン・キホーテの舞台となったラ・マンチャ地方がクエンカからほんの数マイル先に位置しているという事実にも頷ける。
それぞれの本のどこかに、読み進めるための道先案内のお守りのように詩が収められている。これを「読む」には、ある程度の心の準備を要する。漂うように、ツイートほどの長さのプロダクトの説明書きが白いページに記されているのだが、「『クリーム色のヌートリアの毛皮とキャラメルの…』という文章は、果たして詩なのか、それとも飲み物なのか」という具合に困惑することがあるかもしれないからだ。ガラスが散りばめられた今シーズンのLoeweのドレスが呼び起こすしなやかさ、それと同等のしなやかさを用いて、詩人Tristan Tzaraのような美学を連想させるには、言語の側にそれなりの緻密さが必要になるだろう。このような表現行為は、しかしながら文学の真髄をついていると言える。つまり文学はアイデアの宝庫であり、ゆえに混乱を招いたり、影響を与えたり、変化をもたらす機会も豊富にあるということだ。ファッションも同様に、デタラメや虚栄を越えて、あなたが着ている洋服も何かを語りかけているのだ。
とは言うものの、やはりファッションにはテキストがない。話し言葉もない。少なくとも今のところ。あるのはラベルぐらいだ。 いずれにしても、オペラを全幕にわたって作り上げたファッションブランドはいまだ存在しない現在、Loeweのようなブランドはルックブックによって同等の芸術的領域に肉薄し始めていると言っていいだろう。彼らのルックブックは、人間の思想の魅惑的な部分に光を当てる。特に目新しく、しばしば論争の的となるような思想に。遊び心や情熱、好奇心は、人類が犯す罪である。2016年春夏レディースコレクションのルックブックの中にD.H. Lawrenceの詩のモチーフを探すなら、それは「蚊」である。蚊の残した刺し傷はほとんど感じないが、それは次の日に腫れとなり、やがて痒みとなる。わたしたちは掻いてはいけないとはわかっていながらも、湧き起こる欲求はそれを我慢できない。






- 文: Zoma Crum-Tesfa
- 写真: Jamie Hawkesworth
- スタイリング: Benjamin Bruno