バックパック:頼りになる隠し場所

バッグの中身が語る、私たちのカクテル的アイデンティティ

  • 文: Olivia Whittick
  • 写真: Rebecca Storm

人が何を持ち運び、どのように持ち歩くかは、はからずもその人物について多くを物語る。私的な軌道に引き寄せられたアイテムは、それぞれに象徴的な意味を持ち、その人物の歴史、ライフスタイル、価値観を語る。意図の有無にかかわりなく、ティンダーで出会ったデートの相手から当局に至るあらゆる人に対して、モノは情報を伝達する。あなたが所持しているのは、違法な薬物? 違法な銃器? あるいは数本の口紅とコンパクト? バッグの中身次第で、有罪になったり、容疑が晴れたりすることもある。そんな視点からモノを捉えるなら、バックパックは意味を運搬する装置。それも、さらなる自己表現を与えてくれる便利な装置だ。セルフィーを撮ったり、フェンスによじ登ったり、不当逮捕の現場を撮影したり。たとえ両手は空いていても、何も運ち運んでいないわけではない。

バスにはねられたときのために綺麗な下着を着ておくべし、という古い諺がある。しかし、下着よりさらに雄弁なのは、アスファルトの上に散乱したバックパックの中身。それらは、あなたの人格について、何を語るだろうか? あなたがもう二度と口を開くことができず、地上に遺した所持品だけで判断されるとしたら? たったひとつの果物でさえ記号的なシンボルとして機能するとき、あなたの所持品は死んではいない。能動的であり、総体を形作る不可欠な一部である。

モノとは、主体が相互に関連するための容器である。モノは磁石。引きつける力と反発する力を持つ。嗜好、階級、政治を示す目印だ。モノ次第で、ある国への入国を許可されたり、別の国からは入国を拒否されたり。モノはけっして中立ではない。商品として符号化され、必要性、希少性、望ましさで順位が決まる。符号化された物体を通じて、価値を割り当て、欲望を投影し、自己の特性を収集する行為が、日常生活には含まれる。ラグジュアリーなアイテムは、果たして、生まれながらにしてラグジュアリーなのだろうか?

ますます監視が増大される時代では、バックパックがもっとも安全な隠し場所として機能しうる。デジタルによる狡猾な干渉に対して物理的に抵抗するとき、個人のプライバシーを確保するには、バックパックが最後の避難所となりうる。

いまだ性愛に目覚めていない思春期前の年頃には、収集行為が極めて重要だ。別の個人と恋愛でつながる代わりに、モノが無条件の愛を提供する。あなたが十代だった頃を思い出して欲しい。スニーカーやバンド シャツやレコードを所有することが、世界でいちばん大切なことだと思わなかっただろうか? 自分の嗜好を物質へと延長することなく、どうやって自分を他人に証明できたろう? モノを集めることは、自分の内面を外化してコミットメントを表明することだ。

時は土曜の夜。あらゆる可能性に備えて、あらゆるものを小さなバックパックに詰め込む。夜はどんな展開をみせるだろうか? バッグの中身は、現在の自分に必要なものと野心に満ちた未来の自分が必要なものが混ざり合ったカクテルだ。人は、今そこにある生活のではなく、こうあって欲しいと望む生活のために、自分自身を組み立てる。

道具を宝物に変える魔法のような考え方を削ぎ落としてしまえば、後に残るのは必需品だけ。現在の気候変動に対応するサバイバル キットには、すぐに使える価値もないくせに、過剰にブランド化され不必要に商品化されたアクセサリーが潜り込む余地はない。過剰な私物が障害になるところでは、純粋な必需品が自由をもたらす。

  • 文: Olivia Whittick
  • 写真: Rebecca Storm