動物になること、Gucciになること
アレッサンドロ・ミケーレの動物モチーフは、理性後時代の設計図
- 文: Julia Cooper
- 写真: Rebecca Storm

フランスのポスト構造主義者ジャック・デリダ(Jacques Derrida)は、エッセイ「動物を追う、ゆえに私は存在する」に、シャワーから出て、剥き出しの性器を猫がじっと眺めているのに気付いたときのことを書いている。ずぶ濡れの哲学者は猫の執拗な視線に愕然とし、ペットの前で「性器をさらけ出している」のを恥じ、次に、単に裸であることに恥じたことを恥じた、と語っている。そして考える。「裸であることを自覚していない動物は、実のところ、裸ではない」

Gucciの2017年春夏コレクションに、跳躍するパンサー、とぐろを巻いたヘビ、宝石を施された虫などの動物を登場させたクリエイティブ ディレクター、アレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)の手法は、原始的な幻想を可視化したように思える。思考を放棄すること、人間の謙虚さを捨て去る幻想である。デリダの猫のように、動物は私たちの理性に働きかける。動物は、単に、私たちの理性の引き立て役ではない。私たちの理性がはたして理性的であるか否かを自問させるのだ。アメリカの大統領選がインターネット上のネタと化し、虚偽のニュースが常態化した結果、従来の意味での理性は跡形もなく粉砕された。非理性の君臨に直面して、私たちは無力感を味わい、平常心を失っている。そして私たちも、動物になることで、何かを学べる。


例えば、短時間で消滅するスナップチャットのフィルターを利用する場合であっても、動物コスプレイの願望が人の心をつかんで離さないのは当然だ。自分の守護動物を主張するのは、自分より自由な形態を体現する幻想に甘んじることだ。四つんばいになって、猫と牛のポーズの最初の呼吸で尾骨を沈めるのは、新しいバランスを見付けることに他ならない。先ず感覚、次に思考。

ミラノ ファッションウィーク期間中、Gucciのショーの解説には「模倣による現実の表現ではない」「驚きに満ちた」魔法、歪曲、兆候、ストーリーが記されている。もはや精度と模倣には特権が与えられない理性後の時代に私たちは生きている。だが、幻想には特権を与える必要がある。胸にパンサーが描かれた服を着るだけでパンサーになるわけではないが、もっとしなやかで敏捷で力強くなりたいという願望は伝わる。地に足が付いた物静かな蛇、ご馳走からご馳走へと飛び回る蝿、優雅でどう猛なライオン。そんな動物になりたくない人がいるだろうか? 人類と動物界を隔てるものがもはや健全でないなら、境界線の抜け穴を開拓しようではないか。


幻想によって、私たちは自然へのささやかな回帰を画策し、理性と非理性、そのあいだの駆け引きに対する理解を深めることができる。何世紀にもわたって政治思想を大きく導いてきた啓発思考は、私たちが身を置く現代世界では、もはや羅針盤の役目を果たせない。アレッサンドロが描いたGucciの世界、今の私たちに必要な現実逃避をさせてくれる豊富な動物学は、非理性に固執する私たちの幻想を刺激する。虎のセーターと蛇のトートバッグは、スナップチャットの猫フィルターよりも長持ちするし、もっと皮肉に満ちている。矛盾を抱えた私たちは、裸の野生を感じるために服を着る。

ドゥルーズ(Deleuze)とガタリ(Guattari)によると、「動物の発展には、常に、群れ、グループ、集団、定住、つまり多様体が関連する」。Gucciは、この理論が示唆する本来の集団性を取り入れる方法として触覚を活用したが、物事を根底から覆す介入にはならない。結局のところ、これらは気まぐれと様式化された動物を、織り込んだりプリントした布地なのだ。それらが新しい政治の秩序を変えることはない。しかし、アレッサンドロの動物はあなたに呪文をかけて、実のところあなたは無自覚のうちに裸であると信じさせてしまうかもしれない。
- 文: Julia Cooper
- 写真: Rebecca Storm
- スタイリング: Olivia Whittick
- ヘア&メイクアップ: Laurie Deraps / Teamm Management