色の物語:
バマー グリーン

危険を告げるストーリーの遺伝子設計を、エミリー・ヨシダが例証する

    春がめぐってくるたび、自然界にグリーンが戻ってきたことを祝って、人間はあらゆる種類の耐え難い行動をとる。例えば、雨が降っているのにバレー フラットを履く、 木もほとんど裸のままの気温15度でピクニックを敢行する、子供たちに探させるキャンディを人工の草の茂みに隠す。ご存知「イースター グラス(草)」と呼ばれる代物、玉虫色に光を反射する軽量の細長いプラスチック片が束状に絡まり合っている、あれだ。さまざまな色調に着色されてはいるものの、どれも、放射線を浴びたような不穏なグリーンであることに変わりはない。イースターも、その起源であったすべての異教の慣習も、元はと言えば復活と再生を意味したはずだが、イースター グラスはとてつもなく永遠だ。

    「装飾草の製造工程」は、1979年、イリノイ州ハイランドにあるハイランド サプライ コーポレーションの創設者アーウィン・ウェダー(Erwin Weder)と息子のドナルド・ウェダー(Donald Weder)によって特許が申請された。ふたりはきっと、イースター グラスが永遠の商品であることを承知していただろう。私も子供時代、雨に濡れそぼったワシントン州で、イースターの卵探しをした体験がある。その記憶から一番はっきり思い出すのは、バマー グリーン – 失望のグリーン – とでも名付けたい色だ。イエローとグレーが混ざったシーフォーム グリーンともどこか違う。ネオン グリーンでも、人工の輝きを放つ陽気なターミナル グリーンでもない、不可解な領域のグリーン。「ミント グリーン」と呼んだのでは、婉曲的過ぎる。強いて「ミント」に関連付けるなら、喉のあたりに苦みが残る人工風味のスペアミントだ。分類的には「グリーン」に違いないが、カラー ホイール上ではもっとも瑞々しさに欠ける。アメリカ北西部の太平洋沿岸で育った人なら、体でグリーンを知っている。鮮やかなエメラルド グリーン、苔のダーク グリーン、水分を含んだ豊饒なローム層…いたるところにグリーンが息づいている。毎年4月のイースターに、雨に濡れて震えている本物の草の中に置かれた、あの小さな人工のもじゃもじゃを目にしたのが、おそらく、私とポストモダニズムの最初の出会いだった。

    屋外を屋内へ持ち込むのは、多かれ少なかれメタな行為である。現在のように、クリスマス ツリーを家の中に入れ始めたのは16世紀。果物で飾られた 「楽園の樹」は、後に教会に禁じられるにいたる、中世のクリスマスの風物詩だったパントマイムの名残りだ。実際にはキリスト生誕とはまったく関係なく、エデンの園の樹を象徴していたために「楽園の樹」と呼ばれた。春、バスケットに草と種を入れて豊饒を祈願する慣習は、古代の中東とゲルマンの宗教に端を発する。自然に対して支配力や影響力を主張しようとするとき、人間は宗教的な儀式やその他の方法を講じる。

    バマー グリーンを身に着けるのは、不安を伝達する信号旗を振っているのと同じ

    バマー グリーンは、不気味で逆説的な停滞の状況をもっとも雄弁に物語る色だ。身に着ければ不安を伝達する信号旗を振っているのと同じことだから、故意に着ることには反逆的なスリルがある。それ自体が不健康な蛍光を発して、病院の廊下や地下の実験室にいるような気がする。あるいは、自分の画期的な遺伝子実験が評価されず、学界に恨みを持っている 実験衣姿のマッド サイエンティストになった気もする。控え目に言っても、バマー グリーンを着ている人はどこか具合が悪そうに見える。肌の色にほぼ関わりなく、エネルギーを吸い取られたように見えるから、アスレジャー ウェアに使うと、特にアイロニーが際立つ。トッド・ヘインズ(Todd Haynes)が監督した『Safe』(1995年)でジュリアン・ムーア(Julianne Moore)が演じた主人公は、呼吸している空気が有毒で死を招くと確信を強め、 エアロビクスのクラスで危うく失神しそうになる。自然とバマー グリーンは共存できない。バマー グリーンには密閉された空間と高性能の空気清浄フィルターが必要だ。樹という樹が1本残らず立ち枯れ、雨水の排水路にプラスチックのイースター グラスの塊が詰まり、「本物」のグリーンがせいぜい理論的な概念でしかありえなくなった未来から、バマー グリーンはやってくる。

    ディストピアを描いた1975年のSF映画『2300年未来への旅』には、バマー グリーンが氾濫している。ストーリーの核心を象徴するデフォルト カラーだ。ウィリアム・F・ノーラン(William F. Nolan)とジョージ・クレイトン・ジョンソン(George Clayton Johnson) による同名小説をかなり自由に脚色したこの映画では、何らかの大惨事によって生態系が破壊された後、バイオドーム群が形成する未来のメトロポリスで人類が生活している世界が舞台だ。どことなく巨大ショッピング モールに似ているドーム内 – ちなみに、屋内の部分はほとんど、広大なダラス マーケット センターで撮影された – の生活は平穏で、まさに『Studio 54』風の快楽が蔓延している。だがひとつ、条件がある。30歳の誕生日を迎えた市民は召集され、「カルーセル」と呼ばれる大掛かりなショーで抹殺されるのだ。

    『2300年未来への旅』の社会では、文字通り、着衣の色で運命の日までの期間が示される。排水口に吸いこまれる直前の落ち葉に等しい20代の半ばから後半の市民は、緋文字と同じスカーレット レッド。人生の盛りを過ぎ、突如として実存の危機感に襲われがちな10代後半と20代前半は、グリーン。ローガン(マイケル・ヨーク/Michael York)が暮らす地下の独身男性用の部屋に初めてテレポートされた女性の主役ジェシカ 6(ジェニー・アガター/Jenny Agutter)は、薄いライム カラーの煌めくディスコ ドレスを着ている。右側を大胆に露出させたコスチュームは非常に注目を集め、勇敢なコスプレイヤーの定番になったものだ。さてジェシカ 6は、つい最近友人が「カルーセル」されたにもかかわらず、あるいは悲しみのあまり、現代のTinderに相当する「サーキット」に登録している。単にセックスが目的でローガンに指名されたジェシカだが、ローガンの部屋に入るや気分が変わり、来たるべき死について考え始める。はっきり言って、バマー グリーンは性欲を刺激する色ではないのだ。セックス エスコートをしていないときの日常着さえ、ジェシカはバマー グリーンづくめだ。やがてバイオドームの外へ足を踏み出したとき全く役に立たなかったモコモコのルーム シューズも、例外ではない。生まれて初めて泥を体験した彼女は、イライラして金切り声を上げる。「外の世界なんか、大嫌い!」

    セクシーなディスコ ファッションは登場するものの、『2300年未来への旅』はむしろ保守的で、若者文化や自由恋愛に警鐘を鳴らす教訓だ。小説のプロローグを読むと、遠未来の似非ユートピア到来を加速させる触媒として、1960年代に高まりを見せた学生運動がはっきりと引き合いに出されている。屋内都市の子供たちは全員試験管で成長し、家族の概念、したがって家族の価値観も失われて久しい。そういう視点から描かれた世界で、通路や管理センターに溢れる病的なグリーンの洪水は、不毛、不妊、未来のない未来を暗示する。生物的要素の一切を流し去る。社会のそんな意図は、赤い血液と正反対の色に象徴される。

    だがバマー グリーンは、おそらく1970年代の主婦にもっとも愛された色であり、上品なカントリー クラブにふさわしいパステル カラー、マシュマロのふわふわサラダ、絵に描いたように完全無欠なイースターの朝、といったイメージも連想させる。バマー グリーンが大流行して隆盛を極めた時期は、主婦の存在意義そのものが問われた文化的抗争の時期と一致し、それをいちばん印象的に描いたのが『ステップフォードの妻たち』(1975年) だろう。恐怖が高まるクライマックスのシーンで、キャサリン・ロス(Katharine Ross)演じるジョアンナは、彼女の身代わりとなるべく、そっくりに製作された人工品を発見する。キラキラと瞳の輝く従順な製品は、血を流すことも腹を立てることもない。完璧にエンジニアリングされた乳房とバービーのようになめらかな下腹部を優美なドレープでセクシーに覆っているのは、ガーゼのような合成繊維のバマー グリーンのカフタンだ。汗にまみれて取り乱した本物を始末するために偽物が近づくところで、画面はスーパーマーケットに切り替わる。そこではジョアンナの身代わりがカートを押して通路を歩きながら、全員同じように幅広の帽子と汚れひとつない真っ白な手袋で着飾った仲間のワイフたちと、ロボットじみた挨拶を交わす。

    今見ると、ステップフォードの主婦たちのファッション感覚はお笑いだが、当時市販されていたLaura AshleyのフロックやButterrickの型紙のデザインと、それほどかけ離れたものではなかった。ウーマンリブ運動が勢いを増し、ピルの服用による避妊がメインストリームになり、ロー対ウェイド事件から人工妊娠中絶が合憲と判決される社会変化の中で、主婦のスタイルはますますバロック風になった。マキシ丈のドレスはアイレット カットのファブリックをこれでもかというほどにレイヤードし、キッチン エプロンは倍の大きさになり、オーブンから塊のロースト ポークを出すわけでもないのに、『大草原の小さな家』のセットから抜け出したようなひだ飾りのエプロン ドレスが着られるようになった。1950年代の主婦のイメージが超新星へ激変し、その大爆発の放射が西部開拓時代まで及んだわけだ。

    BatshevaMolly Goddard、そしてある程度Gucciにもみられるフリル使いの非常にしとやかなドレスが、バマー グリーンの復活と時期を同じくしたのは偶然とは思えない。会ったこともない男と結婚するためにオレゴン街道を行く花嫁に精一杯お洒落をさせる…一見、そんな混乱した衝動を思わせるトレンドに絶望している人もいるにはいるが、これらどのスタイルも純粋なノスタルジーとは無縁だ。とりわけあからさまに合成的なデザインは、理想化された「大地への回帰」という観念に対して、真正面から反旗を翻している気がする。未だに女性を賃借の子宮とみなし、必要な人数を生むことが女性の唯一の目的だと考えている立法者を、女性たちは侮蔑し、憤りを隠して表面上は調子を合わせ、1875年の頃のようにハイネックで体を隠す。無限に続く豊饒な未開拓のフロンティアという浪漫溢れる観念の上に降り注ぐのは、有毒な廃棄物だ。パイオニア時代のドレスとウォルドルフ サラダのグリーンは、地方であれ都市近郊であれ、ユートピアを連想させることが建前である分、余計にディストピア的だ。

    バマー グリーンは、とりわけ性欲を刺激する色ではない

    ベティ・フォード(Betty Ford)はバマー グリーンが大好きだった。首都のワシントンへ旅行したとき、スミソニアン博物館に展示されているこのドレスは、ティーンエイジャーだった私の記憶に永遠に焼き付けられた。頭足動物が攻撃を受けるとパニック状態で色が薄くなるのと同じように、このドレスがストレスを示していることを、私は本能的に理解した。ニクソンのウォ-ターゲート事件という米国史上稀な政治スキャンダルの余波を乗り切るには、完璧な鎧だった。もう1着のドレスは、私は見たことがなかったのだけれど、ステップフォード ワイフのドレスとそっくりだ。当時ディストピアなスクリーンで闘われていたイデオロギー戦争は、期間は短かったものの、大きな影響力を伴うファースト レディとしての責務でも進行していた。多数の評論家が指摘したように、ベティ・フォードに求められた仕事はただひとつ、ニクソン辞職後も万事が順調であることを全国民に納得させ、ホワイトハウス内に秩序を復活させることだった。にもかかわらず、性的行為の主体性、乳がんの研究および予防(彼女自身、夫が大統領に就任してまもなく、乳がんを診断された)、中絶の権利、薬物乱用に関して、ベティ・フォードは積極的に発言した。彼女が基盤にしたものがあるとすれば、それは「解決しなきゃいけないことは、まだまだ山ほどあるわよ」という姿勢であって、保守的な大統領の好ましい伴侶とはとても言えなかった。ジェラルド・フォード(Gerald Ford)が大統領選に敗れ、代ってジミー・カーター(Jimmy Carter)が選出された後、ようやく、ベティはアルコールとオピオイドへの依存症、結婚生活の長い期間を通じて積み重なった悲惨なプライバシーを公に語るようになった。

    ストレスを感じるとき、周囲の世界が寄ってたかって私たちを窒息させようと企んでいる気がするとき、葛藤を表面化することで精神は解放を感じる。反抗的な10代であれば、できるだけ大声で、いちばん確実に周囲を困らせる方法をとるだろう。だが成人して、家族を養う生計を立てるために多少なりとも「普通」を見せかけることが必要になると、もっと戦略的なカタルシスを選ばなくてはならない。バマー グリーンは、気候変動に関する絶望感を上下逆さのスマイリーの絵文字入りで礼儀正しく伝えるツイート、灯りを落とした寝室で発光するノートパソコン、あるいは『サーティー・ロック』を見て何とか眠りに落ちようと苦闘する不眠症の色だ。バマー グリーンは、解雇されたり離婚を申し立てるほど、正気を失ってはいない。少なくとも、それほど正気を失うことは許さない。決して満足できない、決して何も解決しない。だが少なくとも、何かが上手くいっていないことを表明する。

    Emily Yoshidaは、ライターであり映像制作者。ポッドキャスト「Night Call」の司会者のひとりでもある。ニューヨーク シティ在住

    • 文: Emily Yoshida
    • アートワーク: Skye Oleson-Cormack
    • 翻訳: Yoriko Inoue