色の物語:
ピル イエロー
もっとも捉えどころがなく、心の和む、そして敬遠されがちな色を考察する
- 文: Sarah Nicole Prickett

ショパン(Chopin)の「幻想曲」ヘ短調に、少し波打つような、不確定なアルペッジョから三和音の基音の完全五度下へと移行する箇所がある。この「ファ」、「ド」、「ファ」、「ラ♭」、「ド」の音符を、ウェブ上の16進カラーコードで書くと#fcfabcとなる。これは偶然の産物だ。これを理解するのに、なにも共感覚の持ち主である必要はない。ショパンのことを好きでもなかったグレン・グールド(Glenn Gould)が、自分がどの調にでもなれるならヘ短調を選ぶと言った時、彼はその分散和音と色の両方が持つ感覚をしっかりと捉えていた。ヘ短調について、このピアニストは「ずいぶんと気難しく、不明瞭と明確の間にあり、高潔と淫蕩の間にあり、グレーと濃い色の間にある」と述べている。「ある種の曖昧さがある」と。

曖昧な色というのは誤植のようなもので、リアルな色に自動補正されるべきものだ。#fcfabcという色は、厳密に言うと、ビンテージでありながら新品同様の白味がかった黄色に比べ、黄色味の少ない古臭い白色である。生焼けのスフレか、バナナの皮の内側の色を思い出してほしい。少し飽和させると、硫黄華のような色になる。華と言っても植物ではなく、肌をきれいにすると言われる細かい粉末状のミネラルだ。どんな状態であっても、それは美味しいものではない。
私はそれを「ピル イエロー(錠剤の黄色)」と呼ぶ。祖母のアスピリンはこの色だった。叔母の抗不安薬のジアゼパム抗不安薬も。友達がかかりつけの精神科医の言葉を借りて「アンフェタミン界のロールスロイス」と称し、微量ながら私も服用することになった向精神薬の錠剤、リスデキサンフェタミンも。
淡く、心を落ち着かせる。実際、この色は自然界においてゴールドよりも希少なのだが、あらゆるピュアな黄色と同じく非現実的に見える。この色は、暗いデニム色の空に浮かぶ、巨大で低い月に見ることがある。水をたくさん飲んだときの尿にも見ることがあるし、ダイアモンドの中に見ることもある。
明るさを最大限にしてもパステル調のこの色は、ビデオテープ黄金期の法廷ドラマに出てくるリーガルパッドの黄色であり、実際のリーガルパッドの黄色ではない。この色が使われるのは、紙とインクのコントラストによって目が酷使されるのを軽減するためであると読んだことがある。頭の中が明確になり集中できるだけでなく、疲労がたまるのを軽減するのだそうだ。スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)は、このリーガルパッドのことを「アメリカ人作家のフェティシズムの対象」と呼んだが、偶然にも彼女はアンフェタミン服用者として知られている。この言葉は、作家ではない人、要するに普通の人には精彩に欠く、受けいれられない色だということを意味している。
「柔軟剤のボトルや味のないスープのように、淡黄色という色は心を奪われるような色ではなく、耐えて我慢しないといけない色なのだ」。ある自動車メンテナンス会社のウェブサイトに掲載された自動車史上もっともヒドい色の決定版というまとめ記事には、そう書かれている。Jalopnikのサイトにある同様のまとめ記事にも、「オカマっぽい薄い色は(この表現自体、ホモフォビアだ)、ひたすら悲しく見える」とある。これは、エヴリン・モーレイに言ってあげるべきだ。ロマン・ポランスキー(Roman Polanski)監督の映画『チャイナタウン』(1974年)で、フェイ・ダナウェイ(Faye Dunaway)演じるエヴリン・モーレイは、彼女の生気に欠ける気質に合わせてカスタム ペイントされた30年代のパッカードを運転している。その車は、あちこち幸せを振りまいて走り回るような度胸は持ち合わせていない。
探していたせいもあるだろうが、昨年になってこの色を見る頻度が増え始めた。Calvin Kleinの2018年秋冬コレクションのショーで、ラフ・シモンズ(Raf Simons)はリーガルパッドの黄色のパンツや鮮やかなオレンジ色のコートにピル イエローのシャツとタートルネックを合わせた。さらに彼のチームはケイト・ブランシェット(Cate Blanchett)に「スポーティ」なスーツを送り、彼女はカンヌ映画祭でそれを着た。Vogue.comで「何よりもまず色使いが特徴的」と表現されたサンダー・ラック(Sander Lak)は、Sies Marjanで硫黄色のシルクとシフォンのサラサラしたドレスを作り、サイモン・ポート(Simon Porte)はJacquemusで「ジョーヌ パール(淡黄色)」の、無頓着なまでにだらんと垂れた服をいくつか披露した。Simone Rochaはホワイトゴールドのブロケードをこれでもかと使った。2019年のリゾートコレクションでは、力の抜けたモノトーンのルックが多く見られた。一歩間違えばビル・クリントン(Bill Clinton)がアーカンソーの県知事だったときに、同州のリトルロックにあるBarbara Jeanでヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)が購入したかもしれないようなパンツスーツを「今風」に緩めに仕立てたMaryam Nassir Zadehのパンツスーツや、Hellessyのパンツスーツがあった。Isabel Marantにはカウガールのジーンズとブラウスがあった。さらに、2019年の春夏コレクションになると、Acne Studiosのバレエから影響を受けたコレクションの中にサラサラしたスカートとダスターコートがあり、Alyxにはダブルのロングジャケットやオフィス向けのドレスがあり、中国出身のデザイナーが立ち上げたSocial Workの、まさにウロフィリアを形にしたような病的なラバーのコートがあった。セントラル セント マーチンズ大学でのユハン・ワン(Yuhan Wang)による全面パステルの卒業コレクションの2種類のロングドレスは、ひとつがチンツ風のシアーのドレスで、もうひとつはスカイブルー一色のドレスで、網の目状になった小さなパールを上に重ねるようになっていた。ワンはこれについて、「室内の淑女たち、室内に飾る絵画、いくつかの室内家具」とぴったりの表現をしている。カニエ・ウェスト(Kanye West)はYEEZY 500を、おそらくこの世でもっとも淡い黄色である霞んだレモン色、#SUPERMOONで再び発表し、オレンジに焼けた肌に生成り色のソックスを合わせて履くことを、身体を使って推奨する広告キャンペーンをリリースした。一方メットガラで、カーディ・B(Cardi B)のイブニング ドレスがいちばん調和していたカーペットは赤ではなく、ジャロリーノと言われるナポリの黄色

メーガン・マークル(Meghan Markle)とヘンリー王子(Prince Harry)の結婚式に、しきたりを破って、コメンテーターたちが「クリーム」や「アイボリー」とも呼び、宮殿では「プリムローズ イエロー」と呼ぶ色のAlexander McQueenのコートに身を包んだケンブリッジ公爵夫人キャサリン(Catherine, Duchess of Cambridge)が姿を現した時、私は60秒間、彼女に釘付けになった。私はアンドリュー・ウィルソン(Andrew Wilson)が書いたパトリシア・ハイスミス(Patricia Highsmith)の伝記『Beautiful Shadow』(2003年)に出てくる、彼女が10代の頃の話を思い出した。競走馬に乗るジョッキーのモノクロ写真をイギリス人の男性が買い、彼はジョッキーの勝負服をプリムローズと白に塗った。しかし彼のアメリカ人妻は、彼女の母親の庭にあったプリムローズがピンクだったという理由から、彼の再現した色に立腹するのである。最終的にその写真は壁に掛けられるのだが、彼はそれを鑑賞するゲスト全員に「これはプリムローズです。イギリスのプリムローズは黄色なんですよ」と説明する必要性を感じるのだ。「当然、彼はノイローゼ寸前にまでおちいった」とウィルソンは締めくくる。この色には何かしら問題があるのだろうか? 絵文字で言うならVサインだ。陽気さと同時に受動的攻撃性を表しており、何もかも順調か、誰も関心がないか、もしくはその両方を示すサインである。気分で言うなら、真昼の悪魔。つまり無関心である。だが、無関心は憂鬱と間違われてしまうことが多い。バーのお酒で言うなら、テキーラ ソーダ。フェイ・ダナウェイは、Gucciの新しい2分の「映画」で再びこの色を身に着けている。彼女が演じるビバリーヒルズの主婦、シルヴィーは、淡黄色のしっくい壁の家に住み、淡い色の麦わら帽を被り、ロデオ ドライブにあるGucciのショップで淡黄色のクロッグを買い、淡黄色のトラックスーツを着てテニスコートに行く。まるで映像作家のペトラ・コリンズ(Petra Collins)が、レンズにマーガリンを塗り付けたようだ。私はもうこの色の話を書きたくないと思った。幸運にも、編集の最終段階にさしかかった時に、私はある動画を目にすることになった。キューバの石畳の通りで、リアーナ(Rihanna)がThierry Colsonの黄金色のプリーツの入ったボイル生地のドレスを着て、お揃いのOff-Whiteのボーターハットを被ってくるくると回っている。この色をトレンドにすることができる人がいるとすれば、それはリアーナだろう。だがリアーナが着てもなお、このピュアで淡い黄色は物欲しげで、どこかリバイバルに見えて、それほど「新しい色」には見えない。* * *今年の夏に流行ると言われていたのは実は黄色だった。しかしそれは「はっきりとした」黄色なのである。21歳以下の読者が訪れないウェブサイトでは、それを「ジェネレーションZイエロー」と呼ばれている。その名称はバカげているようでいて、言い得てもいる。ジェネレーションZは最後の世代であり、黄色はいちばん誰からも好かれそうにない色である。私の調べたところによると、パトリシア・ハイスミスのように、この黄色がお気に入りの色だと言う人は5%に過ぎない。それに大人はこの色を理解していないように見えるし、女性誌は、階調や彩度が大きく異なるせいで一緒には合わせられない「ひとつひとつのアイテム」で「トレンド」を解説する。けれども、過去には輝き、金色で、変イ長調に属すような色相をメインに使ったものもあった。変イ長調と言えば、ヘ短調の平行調であり、あのショパンの幻想曲が突如終わる時の調である。その色をもっとも上手く着こなしたのは誰か? それはフラゴナール(Fragonard)の最高傑作「読書する娘」(1769年)のモデルである。わずかなカドミウムオレンジを加えて安定させられたフラゴナールの黄色は長持ちしたが、よりピュアで淡い黄色は長持ちしなかった。ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat)は、芝生に照りつける日差しの色を生み出すためにクロム酸亜鉛と鉛白を混ぜた。それは、ジョン・ラスキン(John Ruskin)が「描画の初歩」(1857年)の中で「奇妙でやや埃っぽい黄色」と呼ぶ色であるが、それも長く持ちこたえられなかった。太陽が嫉妬をして、日差しから影響を受けやすい顔料は劣化し、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」に描かれた芝は醜くなった。ヴァン・ゴッホ(Van Gogh)のひまわり、マティス(Matisse)のビーチも同様の運命にある。これらのアーティスト、正確に言うなら彼らの絵画は今、力尽きて、もう一歩のところで幸運には届かなかった。とはいえ、それは「全くもって」アーティストの過ちではない。黄色が扱い難いのは自然の摂理だからだ。この色は最も劣化が早く、色が褪せていくと、楽観的で目立つ色から単なる偽物の色へ、手に負えない色から弱々しい色へと変化する。光に非常に近い色というものが正確に何を意味するのかは不明であり、顔料はその意味に従うしかない。D.H. ローレンス(D.H. Lawrence)の小説『恋する女たち』において、ハーミオニ・ロディック(Hermione Roddick)が初めて登場する時、ブライド メイドとして「淡黄色で、光沢のある華奢なヴェルヴェット」に身を包み、「印象的でありながら恐ろしく」、「おぞましい」と描写されている。周知の通り、この登場人物は、ローレンスの友人でありパトロンで、事実上の作家の静養所であるガーシントンのマナーハウスを取り仕切るオットリン・モレル夫人(Lady Ottoline Morell)をなぞっていた。ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)は、「ガーシントンで、そもそも正常な日の光が降り注ぐことなどあるでしょうか?」と書簡の中でジョークを言う。「ないでしょう。空でさえも淡黄色のシルクで着飾っているみたいだし、当然、キャベツにも良い香りがつけられています」。ウルフはこうした気取った態度を、虚栄心が持つ危険性を主題にした短編『新しいドレス』(1924年)のネタとして採用している。その中で、愚かな女性、マーベルが、ダロウェイ夫人宅でのパーティに招かれ「母親が持っていた古いファッションの本、帝政時代におけるパリのファッションについての本」にインスパイアされた服を着ることに決める。彼女は「ユニーク」でありたいのだ。そしてなぜ「自分らしく」いられないのかと疑問に思う。それにはいくつかの理由がある。マーベルはパーティに到着すると廊下の鏡に尻込みしてしまう。「淡黄色で間抜けなほど古臭いシルクのドレスに目を向けられない。その全くの恐怖に向き合う」ことができない。そのドレスによって彼女は「仕立屋のマネキン」のような気分と「ミルク皿に押し込まれたハエ」のような気分を交互に味わうのだった。

『Paris Review』誌のウェブサイトの、色の歴史にまつわる素晴らしいコラムでケイティ・ケレハー(Katy Kelleher)が表したように、帝政時代に人気のあったのは「ジョンキル」として知られた淡黄色で、澄んで明るいがくすんではいないその色の名は、スイセンから取られたものだった。ケレハーが「陽の光と虚栄心、狂気と家庭的喜びの色」と呼ぶこの色は、ふたつの戦争の間に流行から外れ、リバイバルはするもののそれも一瞬の輝きに過ぎず、以来、元の地位を取り戻すことはなかった。柔らかくて黄色いものは何でもぼんやりとしたレトロなものに見えるようになったのだ。私は最近、シャトーマーモントに滞在し、スイートルームのソファで眠りに就こうとしていた。カーテンからバスルームのタイルまでが淡い色で、それは1929年以来そのままの姿である。私はダイアナ・ブリーランド(Diana Vreeland)の『Vogue Memos』を読んでいた。ブリーランドは9年の在任期間中に1度だけこの色について触れたことがある。それは「黄色い顔」について考えるためである。それはイエローフェイスではなく、塗るのに長時間を必要とするが、透明感と光沢がありブロンドに塗られたベースから成る、「淡い…ゴールドの眉」を引いた「濃い化粧で作られた顔」のことである。ここでは、この色が昔から持つ特性に囚われなければ、まるで婉曲表現のようなのだ。ジャメイカ・キンケイド(Jamaica Kincaid)の小説『ルーシー』において、アンティグアから来た女の子はアメリカの都市での味気ない人生に適応するために悪戦苦闘し、上流階級の雇用主に偏見を持つようになる。とりわけ、スイレンを愛する妻のマリアに対してである。「マリアは花がそよ風になびいていると元気になるのだ」とかわいい侮辱の目で見る。「いったいどうすれば人はそんな風になれるのかしら?」。キンケイドが巧妙なのは、裕福な白人女性に対する彼女の鋭い批評がスタイルのアドバイスにもなることにある。「彼女はキッチンの真ん中にとても美しく立っている。黄色い太陽光が窓から差し込み、淡黄色をした床のリノリウムタイルと、またそれとは異なる色合いの淡黄色に塗られたキッチンの壁に降り注ぎ、淡黄色の肌と黄色い髪を持つマリアは神々しい光の中でじっと立っている。彼女は幸せそうだ。まるで男のことや他のいかなることでも誰とも喧嘩したことがないように。あるいは、自分の感情以外の理由でどこかへ旅立たなければならない必要性など今まで一度もなかったように。そんな彼女には、頬にも、他のどこにも一点の傷もしみも見当たらない」私もしばしの間、こんな風にハッピーでいたいのかもしれない。淡黄色にはプラシーボ効果が備わっている。しかしそれも長続きはしない。2シーズン前に、ネット上でフレンチメレンゲの色に見えていたスウェットシャツを買ってみると、それは黄色っぽい色だった。微妙な黄色がファッションの中で存在を維持できないもうひとつの理由が、写真では絵よりもさらに再現性に乏しいという点にある。私はそれを好きになれなかった。にも関わらず、私はそのシャツをいつも着ていた。そして何も考えずにデニムやタオルといっしょに洗っていると、その中でそれだけにカビが生えたみたいな斑点がついてしまった。この色は洗濯機で洗うにはデリケートなものだと知っておくべきだった。そして、そのスウェットは在庫処分セールで買ったものだったので、当然、すでに店の棚からは消えていた。
Sarah Nicole Prickettは、カナダ在住のライターであり『Adult Magazine』の創設者である
- 文: Sarah Nicole Prickett