ハニフ・アブドゥラキブが愛する文学
ライター、詩人、批評家のアブドゥラキブが愛する文学、そしてそれぞれをイメージした秋ファッション
- 文: Hanif Abdurraqib
- 写真: Brent Goldsmith
- イラストレーション: Tobin Reid

好きなものを確信をもって正確に挙げるのは、なんと難しいことだろう。僕たちの青春のバックグラウンド ミュージックだったアルバム、さまざまな場所の幸福と未来の予感、あるいは見も心も焼き尽くすような初恋の陶酔を教えてくれた映画。そして、少なくとも物書きにとっては、将来の詩人や作家にとっては、「書き続ける」ための唯一の道は「読み続ける」道に他ならないと教えてくれた本。だが、若かりし頃の心を捉えた本について改めてじっくりと考えをめぐらせることには、抵抗しがたい歓びもある。読み返してみると、そもそもなぜ書くなどという厄介な仕事を始めたのか、思い出させてくれる本だ。書き手の声と初めて出会ったときの、鳥肌が立つようなスリル。その文体。書き出しの一行の素晴らしさ。暮らした場所との深い繋がり。あるいは、容赦のない批評。長く人々に記憶される辛辣な切り口。特に敬愛する対象に向けられたときの、もっとも鋭い言葉の刃。ヒーローに失望したときほど熱くなることはない。そうだろ?
ライター、詩人、批評家のハニフ・アブドゥラキブ(Hanif Abdurraqib)が愛する8冊の本を選び、ロマニー・ウィリアムズ(Romany Williams)がそれぞれをイメージしたスタイリングを、ブレント・ゴールドスミス(Brent Goldsmith) が撮影した。パッドで膨らんだスポーツ ギアのようなComme des Garçonsのピンクのセーターは、作家バズ・ビッシンジャー(Buzz Bissinger)が冷徹に描いたアメリカを象徴する悲劇、テキサス州オデッサの町が燃えたハイスクール フットボールを連想させる。賑やかだが美しいSacaiのシャツは、鼻息が荒くてまとまりのない、 音楽評論家レスター・バングス(Lester Bangs)のゴンゾー ジャーナリズムを思わせる。Molly Goddardのデザインは、内面を吐露する詩のようだ。

モデル着用アイテム:帽子(Prada)、シャツ(Sacai)、ラウンジ パンツ(Our Legacy)、サンダル(Rick Owens)、ソックス(Paul Smith)、トート(Comme des Garçons Shirt)
レスター・バングス『Psychotic Reactions and Carburetor Dung』
俺は、音楽に関して、話すよう書くことを学んだ。先ずファンとして、俺が喋っている音楽を、読み手がもう知っているつもりで書く。ラップの批評を読み始めた頃は、ラップ カルチャーを知らない読者に合わせて、説明に終始したものがとても多かった。だが、レスター・バングス(Lester Bangs)のような音楽ライターを読んでから、俺は説明しない書き方を選んだ。バングスは、俺が知ってて当然という感じで、ヴァン・モリソン(Van Morrison)やザ クラッシュについて書いた。バングスが音楽をぶった切るのを読むと、まるで会話が盛り上がっているテーブルに仲間入りして、話し手の情熱によって敬愛するミューズの周囲に神話が築き上げられるのを聞いてる気分だった。
特に今俺が肝に銘じておく必要があるのは、批評は誰かをこき下ろす行為じゃないということだ。最良の批評は、関心を注ぐ行為だ。なんらかの音楽、アート、本を綿密に読みとる作業は、その作品を作ったアーティストに対する愛情から出発するべきだ。たとえそのアーティストが好きではなくても、そのアーティストなりの最大限の可能性が開花することを願う気持ちが大切だ。この本で一番好だったのは、バングスが自分の大好きなルー・リード(Lou Reed)に真っ向から対立するところ。手間ひまかけて、しつこくリードを糾弾する。それは、リードの中に光り輝くゴールドが埋もれていることを知っていて、そのゴールドに迫ろうとしているから。これこそ批評だと、俺は思う。批評はこうあるべきだ。
ビービー・ムーア・キャンベル『Your Blues Ain’t Like Mine』
黒人作家は、キャリアのどこかで、黒人の死をとり上げ、悲嘆や苛立ちと切り離すことのできない社会の不正感を表現しようとすることがある。死を非常に繊細に扱ったビービー・ムーア・キャンベル(Bebe Moore Campbell)の『Your Blues Ain’t Like Mine』は、14歳頃の俺に強烈な影響を与えた。ストーリーは、ひとりの黒人の少年が殺されたところで始まる。だが、その後は、たったひとつの死が関係者の人生にもたらした反響が、きめ細かに語られる。死んだ少年はただ単に死んだ少年ではない。彼には息子を失った母親がいて、殺された息子が残した心の隙間を、もうひとりの息子で埋め合わせようと躍起になる。少年が殺害されるきっかけを作った白人女性は、罪悪感と彼女なりの苦悩のあいだで揺れ動きながら、30年の時の経過を描いたこの本の最後まで生きながらえる。少年の父は酒びたりになり、その後酒を絶つが、心の傷から解放されることは決してない。死から生じた波紋、残された者の人生に死が織り込まれていく様子を仔細に描写してくれた本は、これが初めてだった。

モデル着用アイテム:クルーネック(Yohji Yamamoto)、スカート(Molly Goddard)、トラウザーズ(Undercover)、スニーカー(adidas Originals)、帽子(Undercover)
アイ『Cruelty』
ほかの詩人仲間に比べて、俺が詩を書き始めたのは遅い。最初の詩は2011年頃、28歳くらいだったが、それでもなお迷える若者だった。詩集『Cruelty』は、全篇、ペルソナの形式で書かれている。語り手がさまざまなキャラクターの声を借りて、別の人間に対する残酷な行為を語っている。俺はペルソナを使った作品が好きで、結構読んでる。ただし、ある種の優しさというか、奥行きのある語り手に限る。例えばアイの「Disregard」と題された詩の最後のくだりには、胸を刺す悲しみがある。
アクセルをいっぱいに踏み込む。
家へ帰る、土がむき出しの庭、汚らしい下水溜め、
家の裏で、汗でいっぱいになるような
井戸を掘っているあなたのところへ、
そうする必要なんか、ひとつもないのに。
1日が終るまであなたは私に気づかない、
あなたの手が私の膝に触れると
アイスクリームが、溶けて、
触れると火傷するほど熱い。

モデル着用アイテム:コート(Tibi)、スニーカー(Prada)
ロイド・アリグザンダー『The High King』
ロイド・アリグザンダー(Lloyd Alexander)が書いたファンタジー シリーズ『The Chronicles of Prydain(邦題:プリデイン物語)』は、いかにもヤング アダルト向けの空想小説で、1964年から1968年にかけて全5巻が出版された。野心はあるものの未熟な豚飼いの主人公タランが、戦いを経験しながら成長を遂げ、最後は国を救う王になるまでの道のりが語られる。はっきり言って、少年が刀を振り回す冒険ストーリーなんだが、俺は夢中になった。外では雪が降り積もり、近所の家につけられたクリスマスの電飾が白く覆われた地面にカラフルな光を投げている中、居間で『The High King(邦題:タラン 新しき王者)』に読みふけったのを覚えている。終ってほしくない、そう思った最初の本だった。今ではそう感じることも珍しくないが、初めてそんな気持ちを体験させてくれたのはこの本だ。シリーズ最終巻の『The High King』は、思い出もあって、俺のお気に入り。そもそも俺がこのシリーズと出会ったのは5年生のときだった。シリーズの第1巻『The Book of Three(邦題:タランと角の王)』を授業で読んだ後、先生に残りを読みたいと言ったら、くたびれてところどころ破れたペーパーバックの残り4巻を持ってきてくれた。冬休みに、家で読み続けた。最近はシリーズ物にはもうそれほど食指が動かない。いつからそうなったのかもわからない。だから、去年、もう一度『The Chronicles of Prydain』を読み返してみた。そうしたら今でもそれぞれの登場人物への愛情が蘇って、最後のページをめくったときには心が痛んだ。
バズ・ビッシンジャー『Friday Night Lights』
『Friday Night Lights』が映画化される前、映画からテレビ番組が作られる前の2003年、19歳の俺はテキサス州オデッサまで車を走らせた。すっかりこの本に魅了されたからだ。『Friday Night Lights』は、本質的に、綿密な長文のレポートと言える。1988年のフットボール シーズンで、オデッサのハイスクール チーム「ザ パーミアン パンサーズ」には、まさにアメリカを象徴する嵐が吹き荒れた。花形のランニングバックは、フットボール選手としてのキャリアを断念せざるをえない怪我をする。クォーターバックは、寄せられる期待の重みと病気の母の世話で、行き詰っている。石油が枯渇して久しいかつてのオイル タウンは、人種と階級に分断され、フットボールだけが喜びと団結をもたらす。
ビッシンジャーは、等分の優しさと誠実さで、オデッサの住民と町の両方に目を向けている。大活躍していたランニングバック、ブービー・マイルズが事故で使えなくなり、大半が白人のサポーターから人種差別を受けたとき、ビッシンジャーの筆致が鈍ることはない。目で見て耳で聞いたことを記録する方法で、飛び交った言葉や目標の責任をオデッサの町に問う。もちろん、この本には欠点もある。ある場所へアウトサイダーがやってきて、世界に向けてその場所を説明しようとすれば、欠点があるのが当然だ。だが一方で、そこでずっと暮らしている住人の目にはもはや入らなくなった細部に気づくには、アウトサイダーの視点が必要だとも言える。とりわけ、人種差別、階級差別、スポーツ崇拝はあまりに広く浸透しているから、フットボールとアップル パイに象徴されるアメリカーナ神話のどこに欠陥が潜んでいるのか、住民は理解することさえできない。ビッシンジャーの描写にすっかり絡めとられた俺は、『Friday Night Lights』を読んだ2年後、2日間車を走らせて、オデッサを訪れた。実際に行ってみて、別段大きな理解が得られたわけでもない。15年が経過して、オデッサもフットボール チームも以前と同じではなかった。それでも、自分の目で見る必要があった。描写された場所に、自分の足で立って、現実を確かめざるをえない気持ちにさせる ── それが優れたレポートの成果じゃないだろうか。

モデル着用アイテム:ジャケット(Phipps)、フーディ(Our Legacy)
ゾラ・ニール・ハーストン『Their Eyes Were Watching God』
(はるか彼方に見える船は、あらゆる人間の願いを乗せている。潮と共に岸へやってくる船もある。時が夢を嘲り、見つめ続けた人が諦めて目を逸らせるまで、永久に水平線を進み続けて視界から消えることもなく、かといって岸へもやってこない船もある。これが人間の一生だ)。ハーストンの『Their Eyes Were Watching God(邦題:彼らの目は神を見ていた)』の書き出し。俺に言わせれば、あらゆる文学の中で、これほど素晴らしい書き出しはない。
それほどまでに俺を夢中にさせたのは、言葉遣いだった。俺が生まれ育った場所で耳にしていたのと、まったく同じ喋り方をする登場人物がいた。ハーストンには、黒人独特の言葉遣いをまったく恥じるところがなかった。対照的に、ハーレム ルネッサンスの当時、黒人作家たちは非常に限定的に黒人であることを表現し、生きることに喘ぎ虐げられた人々という観点から人種問題を語っていた。もちろん、この本が出版された当時はそれが多くの場所の現実だったが、ハーストンは黒人であることにただひとつの視点しか与えないことを拒否した。俺はそこに感動した。『Their Eyes』の一番いいところは、感情を単純な原色で塗りつぶさないところだ。喜びは悲しみと同じ場に置かれ、希望は心の傷と同じ場に置かれる。だがそれより何より、主人公のジェイニー・クロフォードがハーストンを通して語りかける言葉は、黒人の読者には耳慣れた懐かしい言葉だ。俺にとっては確かにそうだった。
ウォルター・ディーン・マイヤーズ『Hoops』
黒人の世界を描いた作家で、俺が最初に熱中したのは、ウォルター・ディーン・マイヤーズだ。マイヤーズには、情感に溢れ、確かな手綱さばきで豊かに表現した作品がある。だが最大の才能だと俺が思うのは、キャラクターを生き生きと描き、読み手のすぐ隣にある場所や人物のように感じさせる技量だ。俺は、最初の詩集『The Crown Ain’t Worth Much』にとりかかっていたとき、ただひとつのことを自問しながら、全体のコンセプトを模索していた。すなわち、「俺が育った街を明確に表現して、なおかつ、違う場所で生まれ育った読者に親近感を感じさせるにはどうすればいいのか?」 そこで、『Hoops』をもう一度読んでみた。バスケットの才能があるロニー・ジャクソンは、バスケットを利用してハーレムを脱出しようとするのだが、次々と前途に障害が立ちはだかる。ストーリーとしてはそれほど斬新ではないが、エネルギーに満ちていると同時に投げやりな登場人物たちは、マイヤーズに息吹を吹き込まれる。ロニー・ジャクソンは、夏の間ずっと、何百回となくジャンプシュートを練習していた、俺の近所のキッズかもしれなかった。ロニー・ジャクソンは、街角の店の前にたむろしているハスラーかもしれなかった。オハイオ州コロンバス生まれの俺なのに、ハーレムが故郷のような気がした。そのことに、俺は感謝した。

モデル着用アイテム:ジャケット(AFFIX)、トラウザーズ(Phipps)
カディジャ・クイーン『I’m So Fine』
これは詩集だが、読んだ感じは、ちょっとしたシーンやスケッチのようだ。どれも、ロサンゼルスで成長する過程で、クイーンが関わり合った男たちを語っている。有名な男もいれば、無名の男もいた。「&」以外、句読点はなし。それが息もつかせぬリズムを生み出しているが、同時に、さまざまな出来事が積み重なって、一続きの物語を読み進んでいるような気もしてくる。
俺が好きなのは、先ず、そういう積み重ね方とストーリーがだんだん悲惨さを増していく感覚だったが、大切なのは、あるいは注目すべきなのは、描かれた男との関わりの一つ一つが、その悲惨さの度合いを独自に決定づけている点だ。長く緻密な時系列に沿って、クイーンは男という性の在り方と男であることから生まれる権力を明らかにしていく。ストーリーを紡ぐ糸はどんどんほぐれていくが、だからといって最後に特別な美や希望があるわけではない。だが、最後の「Any Other Name」と題された詩には、控えめだが力強い復活がある。次の数行は、クイーンが言っておきたかった追記だ。
カディジャは預言者の妻という意味。
私の名前は全然
思い付きなんかじゃない。あなたの口は
努力しなくてはならない。8文字のすべて、
3つの音節のすべてに、身を捧げなくてなならない、
ニックネームはつけられない。意味があるのだから。
Hanif Abdurraqibは、オハイオ州コロンバス出身の詩人、エッセイスト、文化批評家。初の詩集『The Crown Ain't Worth Much』は2016年に出版され、ハーストン–ライト レガシー アワードにノミネートされた。初のエッセー集『They Can't Kill Us Until They Kill Us』は、2017年、独立系出版社Two Dollar Radioから出版された
- 文: Hanif Abdurraqib
- 写真: Brent Goldsmith
- 写真アシスタント: Kéven Poisson
- スタイリング: Romany Williams
- イラストレーション: Tobin Reid
- ヘア & メイク: Carole Méthot
- モデル: Samir Gokhul
- 制作: Alexandra Zbikowski
- 制作アシスタント: Ian Kelly