ファッションを斬る

『ジェゼベル』のカルチャー エディター、ジュリアン・エスコベド・シェパードが、スタイルのすべて(そしてミウッチャ・プラダとマリリン・マンソン)を語る

  • インタビュー: Haley Mlotek
  • 写真: Tiffany Dawn Nicholson
  • ヘア&メイクアップ: Rachael Ghorbani for MAC Cosmetics

ジュリアン・エスコベド・シェパード(Julianne Escobedo Shepherd)は、少女の頃から現在に至るまで、常に自分なりの視点からファッションのアーカイブを構築してきた。自分が何をしているのか、当初は自覚さえなかった。ただ、ミュージシャンとそのファンが着ているものを見れば見るほど、両者が切り離せないことを痛感した。アーティストの外見は、音楽と同じくらい、彼らの過去と未来、意図と創造性を表現していた。

音楽を始めとするあらゆる形態のアートが、いかに服やファッションやスタイルに依存して、アイデアを伝達しているか…以来、ジュリアンは、迷いのない視点と一貫した筆致で持論を展開する批評家になった。2010年までは『フェーダー』マガジンの編集長を務めた。ニッキー・ミナージュ(Nicki Minaj)が初めて表紙を飾ったのが同誌だ。それ以前は、『ヴァイブ』『MTV』『ポートランド マーキュリー』のスタッフだった。フリーランスだった時期には、『ニューヨーク タイムズ』『ローリング ストーン』『スピン』『インタビュー』『カット』『ガーディアン』『ヴァイブ』『ルーキー』『XXL』で署名入りの記事を執筆した。現在は、「女性のためのセレブ、セックス、ファッション。エアブラシ無修正」が謳い文句のブログ『ジェゼベル』のカルチャー エディターとして、ファッションへの純粋な愛、そして狂乱のペースをさらに速めつつあるファッション業界の駆け引きについて、執筆している。

先頃、ある平日の夜、ブルックリンのアパートにジュリアンを訪ねた。ジュリアンはお気に入りの服のコレクションを色々と見せてくれたが、その大多数はカフタン。理由は「1998年頃の、不満を感じてるアート ギャラリー経営者」のスタイルが好きだから。だが、「スウェットパンツでクラブ通い」のときもあるわよ、とジュリアンは指摘する。そういうときは、90年代後半のレイブ スタイルを試したいという。つまり、同じ年代の異なるサブカルチャーだ。近頃は、自分がずっとしたいと思っていたスタイルを実践していると言う。常に、着ることの「どんな風に」と「どうして」を考えながら。

ヘイリー・ムロテック(Haley Mlotek)

ジュリアン・エスコベド・シェパード(Julianne Escobedo Shepherd)

ヘイリー・ムロテック:ステージ上のペルソナはとても念入りに作られるけど、自己表現には、本人は意識していない何か、おそらく意図せずして反映された無意識が現われることがありますね。あなたがミュージシャンのスタイルに注目するときは、そういうものを探しているのかしら。

ジュリアン・エスコベド・シェパード:私が記事で取り上げたミュージシャンは、みんな、視覚要素が強かったけど、本当に私はそういうのが好きなんだって分かったのは、深く分析できるようになってからよ。音楽のカルチャーはどういうふうに生まれるのか、カルチャーはどういうふうに分化していくのか…その答えを探っていく作業が好きなの。特に、アンダーグラウンドなカルチャーの誕生、それがその時期の社会の何を反映しているか、そういうことに関心がある。スタイルとファッションの体系的な進化、例えば今はプロレタリアがランウェイの主役になってるけど、そういう面に特に興味を惹かれるわね。

言うなれば、そこには、人々の潜在意識に働きかける意図が見え隠れするの。そのいい例がマリリン・マンソン(Marilyn Manson)だわ。彼のスタイリングはなにか気になるの。すごく特殊なペルソナを表現してるけど、あれは彼の精神、彼の内面の表現よ。社会的にうまく機能できない少年が疎外された結果、いじめに対向する手段として、最大限に奇抜で挑戦的になってみせた。ライブで見たことがあるけど、上半身裸で黒いレザーのパンツをはいてたわ。肋骨を描いたんだか、輪郭を強調したんだか、とにかく痩せこけて見えた。なんて言うか、一種のヘロイン シックな演出だったわ。

インタビューによると、今までにやったスタイルの中には、彼自身後悔してるものがあるそうです。特に、コロンバインの銃乱射事件の後はとても誤解されたから、って。非常に強い意図から作り出されたスタイルにもかかわらず、彼自身の意図を外れた意味や価値観を与えられてしまったということに、私はとても関心をひかれます。

そうね。マンソンにとってはいじめに対する反発だったのに、それが邪悪のシンボルになった。第一、マリリン・マンソンは邪悪とは無関係だもの。本物の反逆児ってわけじゃないし、クールでもない。本当はダサいやつなのよ! でも、私は当時ワイオミングに住んでたから、ああいうスタイルも、コロラドの人たちの行動も、よく理解できたわ。当時はとにかくアイデンティティが基盤の時代だったから、スタイルもそれぞれが属するサブカルチャーの定義も、今よりもっとはっきり分離してた。コロンバインで銃を乱射した少年たちは、あのスタイルを選んで、自分たちの疎外感に取り込んだのよ。マンソンが後悔するのも分かるけど、自分が発信したメッセージがどう理解されるか、そこはコントロールできない部分だわ。批評だってそうだと思う。だから、アーティストに嫌われたり、「文句屋」って呼ばれたりする。

2012年に『スピン』でやったことを思い出すわ。当時のファッションでいちばんホットなトレンドを、ちょっとした遊び心で取り上げたんだけど、そのひとつは「Tumblr シック」だったのよ。「アジーリア・バンクス(Azealia Banks)のマーメイド / シーパンク姿」なんてのが代表。まだユニコーン発言やマーメイド姿で世間をにぎわせる前から、アジーリアの自己表現は、一種の檻に閉じ込められること、言い換えるなら女性ラッパーに対する先入観、それと一線を画す手段だったわ。ミッシー・エリオット(Missy Elliott)も同じことをした。自分を風変わりに演出することで、ひとつのカテゴリーに分類されることを拒絶したの。うまくルートを探しながら自分が目指す目的地へ辿り着く方法でもあるわね。

マリリン・マンソンは邪悪とは無関係だもの。本物の反逆児ってわけじゃないし、クールでもない。本当はダサいやつなのよ

極端でいることには一種の安全がありますね。いちばん自然とかいちばん現実的ではなくて、一番自分自身。

ええ、絶対にそう。当時(エリオットには)スタイリストがいたのよ。それを言うと、アリーヤ(Aaliyah)を思い出すわ。エリオットはアリーヤととても仲が良かった。あの頃はまだセレブ、特にミュージシャンが、今みたいにスタイリスト ゲームにどっぷり浸かる前だったのに、エリオットとアリーヤには自分たちと同じコミュニティ出身のスタイリストがいたし、自分たちのスタイルを知ってた。まるで未来が分ってたみたいね。『フェーダー』でアリーヤの追悼特集を組んだときにキダダ・ジョーンズ(Kidada Jones)と話したけど、アリーヤのファッションは未来風ゴスだったわ。未来風アフロな要素も強かったけど、一方で、つやつや光るディスコ スーツで自分の可能性を広げるみたいな自己表現もしてた。派手なものや高価なものを着てみせびらかす、そういう感覚は、昔から黒人エンタテ イナーに特有の視覚表現の一部よ。徹底してけばけばしい。それってスピリチュアルだし、ものすごくリアルだと、私は思うわ。

最近Alexander McQueenのコレクションや昔のComme des Garçonsのランウェイ ショーを見返して思ったんだけど、ああいうファッションが作られた当時に見てたら、私はどう反応しただろうなって。 あなたの場合、最初の反応がずっと持続するのかしら。それとも、考え方も変わっていきますか。

両方ね。デザインという仕事をもっと知るようになって、デザイナーをもっと高く評価するようになったわ。最初にファッションに関心を持ったのは2004年、ジュディス・サーマン(Judith Thurman)が書いたミウッチャ・プラダ(Miuccia Prada)の紹介記事が『ニューヨーカー』にのったときなの。あれは…

最高の記事のひとつでしたね。

そのとおりよ! あれで初めて(ファッションに対する)私の見方は間違ってたって気付かされたの。ファッションについて書き始めた当初、私はとても直観的で視覚的だった。「本当に表現しようとしているものは何か?」って感じ。だけど、誰もが、見えていること以上に表現したいものがあるわけじゃないのよね。あるいは、もしあったとしても、自分たちが思ってるほどには表現できてない。Alexander McQueenComme des Garçonsは、当時に見ても、私はきっと好きになってただろうと思う。それぞれビジョンは違うけど…。それと、ある意味で、マックイーンはより実体性を与えられたと思う。亡くなったアーティストには、往々にして、そういうことが起こるわ。死んじゃったアーティスト、もしくは、歴史の記録から葬られた女性。

そうですね。私たちは、生きている人より死んだ人に対してはるかに尊敬を払うって言われるけど、本当にそのとおり。あなたが言うように、亡くなった人のほうが具体的に把握しやすい。同時に、なんと言うか…生きている人を変えられるものがあるとすれば、それは死だと思うんです。良い意味とか悪い意味とは関係なく、単に、より大きなカルチャーでの意識のシフト。

マックイーンは時代の先を行ってたわ。彼のデザインにはビジョンがあったし、世界は彼が描いた地獄的様相に突き進んでるから、おそらく今の方が理解されやすいでしょうね。こわいのは、私には「これはこれを意味する」と理解できる歴史的な素養がなくて、「あらま、どうしましょ。これに本当に何か意味があると思ったなんて、とんだ間抜けだわ」って状況になること。Pradaの2018年春夏コレクションがルード ボーイに関連してるって勘違いしたのも、とんだ失敗だったわ。だけど、本当にそう思ったんだもの! 仕方ないじゃない!

Pradaのコレクションが、文字通りルード ボーイというサブカルチャーに関連していたのかどうか、それは知らないけど、あなた自身の解釈からそういうカルチャーとの関連を感じたのなら、それはそれで正当な批評だわ。ミウッチャを代弁してるわけではないのだから。

そうね。それに、私の解釈の基盤は主として音楽の歴史なの。というか、音楽とファッションの歴史のつながり。私、あのコレクションはとっても好き!(ミウッチャ・プラダは)素晴らしいわ。

ファッション界に愛されるコミュニスト。

そうよね。

私たちが知りうる唯ひとりのコミュニストかも。

それか…私たちが知りうる唯ひとりのフェミニスト。

まあ、それはかなり…

— 現実を見ましょうよ。

2004年にミウッチャ・プラダの紹介記事を読んで、何が変わったのですか。Pradaというブランドやミウッチャの仕事に対する先入観?

いいえ、Pradaに対する先入観じゃなくて、ファッションという仕事と業界に対する先入観全体が変わったの。ファッション デザイナーはアーティストだという考え方も新しかった。それまでは、主として、資本主義の概念から眺めてたの。2004年はニューヨークへ越したばかりで、その前はオレゴン州のポートランドに住んでたわ。2000年代初めのポートランドは、信じられないくらい、反資本主義だったのよ。私が暮らしてたのもパンクたちのシェア ハウスだった。ワイオミングで育って、それからミズーリ州のスプリングフィールド、マサチューセッツ州のウースターと引っ越して、その後がポートランド。ポートランドにはリッチは人たちがいるけど、あの人たちはPradaを着て街を出歩いたりはしない。私は友達から貰ったお古のメリー ジェーンを実際に履いて、同時にミウッチャの思想的な視点についても学んだ。ミウッチャが作り出す美しい作品を見てると、一体どうしてそういうもの全部から自分を切り離してるのかしら、って思うようになったの。多分に生まれ育った環境が関係してたけど、それまで、すごく二元的な考え方に囚われてた。高額なものを買うのに抵抗を感じなくなるまで、とても長くかかったわ。今でも大きな買い物はしない。変に階級的な不安があるし、ママがとにかくいろんな仕事をするのも見てきたから。別に困窮してたわけじゃないの。必要なものは揃ってた。だけど、自分には手の届かないものがある、そう考えるように自分を訓練しちゃうのよ。

次から次へとファッション ウィークが巡ってくるけれど、毎回、どうやって興味や注意力を持続するのかしら。

ショーには行かないようにしてる。難しいし、自然な流れに逆らってるけど。モデルが着て動いてる服って、写真で見るのとまったく違うの。それに私は、全部のショーを見る必要もないという有利な立場にいるわ。書きたいものを書く。写真ライブラリーのゲッティはよく目を通すわよ。大きなウェブサイトには登場してない、とても面白いものが沢山あるわ。それから、トルコのファッション ウィークとかはすごく興味がある。東京のファッション ウィークは最高だし、ロンドンのファッション ウィークも最高。

ワイオミングでの成長期に、違った意味でファッションに関心を持っていましたか?意識していなかったかもしれないけれど…。スタイルでメッセージを表現できる、そういうことを考えてましたか。

マドンナ(Madonna)に憧れてたの。一生懸命に真似したけど、マドンナ自身のファンというより、ファッションの選択肢だった。100%、彼女のファッションのファンだったわけ。歳が分かっちゃうけど、5年生になって初めて登校した日の写真が残ってるのよ。ライト ピンクのストレッチ タイツにシルバーのバレー シューズ、それから玉虫色に光る濃いピンクのミニスカート。上はピンクのポロ、それからマドンナ風の大きなリボン。1980年代のワイオミング州シャイアンでその恰好だもの。キチガイ沙汰だけど、自分では最高にクールな出で立ちだと思ってた。

すべてをひっくるめたパッケージとして捉えるほうが簡単でしたか。つまり、このトライブあるいはこのカルチャーに属したいから、こういう恰好をする。

そんな感じね。それに、とても厳密に選択してたと思うわ。第一、なんでも手に入るわけじゃなかったから。ストリートウェア ブランドのX-Girlが出たときは夢中になったけど、ワイオミング州シャイアンのどこでX-Girlを売ってる?

ママは叔母さんと長いあいだ花屋をやってたけど、花屋を閉じた後は、カスタムメイドのジュエリーを売り始めたの。だから、許可証をとって、デンバーのものすごく大きい卸問屋へみんなで仕入れに行かけたものよ。小規模な業者は、ファッショナブルではないけど、とってもクールな商品を出してた。10代に入ってからは、古着屋のビンテージが好きになった。ママは嫌ったわ。ママは兄弟姉妹がたくさんいる貧しい家庭で育って、服は救世軍で買わなきゃいけない環境だったから、「何も古着を買わなくても、新しい服を買えるのに」って。でも私は「嫌、私はコートニー・ラブ(Courtney Love)みたいにしたいの」。大体は好きにさせてくれたわ。ママはファッションには関心がなかったけど、あらゆる雑誌を購読してたのよ。家中に雑誌が溢れてた。『サッシー』も読んだし、その前は『ティーン』に『セブンティーン』に『スラッシャー』。とにかく何でもあった。『エル』も『ミラベラ』もあったし、時々は『ヴォーグ』もみかけたわね。

『サッシー』で、私は始めて署名入りの記事の存在を知ったの。記事の一部として、プロセスを説明してくれてた。例えば、クロエ・セヴィニー(Chloë Sevigny)は『サッシー』のエディターが路上でスカウトして、それから『サッシー』でインターンもしたんですよ、とか。もちろんもっと掘り下げた内容だったけど、若い女性たちが雑誌を作ってて、そのやり方を読者に教えてくれてるんだな、ということが伝わってきたわ。私がジンを作り始めたのも、そのおかげ。

別に困窮してたわけじゃないの。必要なものは揃ってた。だけど、自分には手の届かないものがある、そう考えるように自分を訓練しちゃう

現在はどうですか。本当に信頼しているファッション ライターは?

もちろんロビン・ギブン(Robin Given)、それからキャシー・ホリン(Cathy Horyn)。シントラ・ウィルソン(Cintra Wilson)のファッション批評がもう読めないのは、本当に残念だわ。初期の『ディス』マガジンのファッション批評も最高だったわ。特にソロモン・チェイス(Solomon Chase)。ファッション業界を茶化すんだけど、同時に、業界を熟知してる人たちだった。私も、とても大きく影響されたわ。

ファッションについて書くとき、念頭にある読者は? どんな読者像が頭に浮かびますか。

シルク ドゥ ソレイユに入れ込んでるディレッタント(笑)。じゃなくて、表面よりもっと深いところに関心があって、誰もがファッションという企みに参加してることを理解してて、だったらいっそのこと楽しんで、ちょっとばかし中をのぞいてみようじゃないか、って考える人たち。ル・ポール(Ru Paul)の言葉を借りるなら、「みんな裸で生まれてくる。あとはドラァグ」。彼の『ドラァグ レース』をファッションの観点から書けるのは、すごく楽しい。ファッションにはホットでフェティッシュな要素がもっと必要だもの。そういう人たち、トライブとル・ポールの『ドラァグ レース』に興味を持つ人たちのために、私は書いてる。

Haley Mlotekは、ブルックリンを拠点として活動しているライター。『ニューヨーク タイムズ マガジン』『ニューヨーカー』『n+1』『リンガー』などで記事を執筆している

  • インタビュー: Haley Mlotek
  • 写真: Tiffany Dawn Nicholson
  • ヘア&メイクアップ: Rachael Ghorbani for MAC Cosmetics