身にまとうチーム愛
マックス・ラキンが考察するユニフォーム、ファン魂、NBAのランウェイ ショー
- 文: Max Lakin
- アートワーク: Florian Pétigny

NBAでは、毎晩が自身の神話を作り変える機会となる。試合の前に毎度繰り広げられる、今や完全に儀式化されたランウェイ ショーの時間。そこでは、アリーナへと続く地味なコンクリートに囲まれた薄暗い通路が、カメラのフラッシュが瞬くランウェイになり、そこを歩く選手たちは、あまたのジジ・ハディッド(Gigi Hadid)となる。彼らのウォーキングは正確に計算されている。楽しげで無頓着なようで、かたくなな冷徹さが混じりあった、大またでゆっくりとした歩み。わずかに不満げな眼差しで、その視線を遠すぎず近すぎないところに向けているなら、なお良しだ。駐車場からロッカールームへと続くこの短い移動は、ソーシャルメディアの運用に余念がない、他人を詮索してやまない何百万人もの人々の目にさらされている。だが選手たちの視線は、こんなのは世界で最も自然で平凡なことなのに、と言わんばかりだ。
NBA選手がカルチャーに及ぼす影響の大きさは、ファッションへのこだわりがその土台となっているのであれ、あるいはファッションによって増幅されているのであれ、その両方が互いに作用し合っている。昨年、レブロン・ジェームズ(LeBron James)とクリーブランド・キャバリアーズの選手たちが、お揃いのThom Browneの特注スーツで現れたが、これは、団体スポーツにおけるユニフォームの役割と、労働者階級を規定する制服という、ふたつの意味で、ユニフォームの概念を無視するものだった。ちなみにブラウンは、常にこの社会階級の問題に高い関心があるようだ。ニューヨークで開かれた2月のショーでは、Coachがゆったりとしたレザーや、タータンチェックのウール地のバスケットボール パンツを発表したが、これはラグジュアリーが現代のカルチャーにおけるスポーツの重要性を認めたことを表していた。ラッセル・ウェストブルック(Russell Westbrook)は、リーグ内で最も感情が表に出やすい選手で、だらんとしたRick Owensを着て、こそこそと会場入りしたり、袖がやたらと長い蛍光オレンジのVetementsを着て、試合後の会見中ずっとふさぎこんだり、日常的に服と感情の高度な組み合わせを実験中だ。


スニーカー業界は、長年、NBA選手の知名度を使って商売をしてきた。 だがこの2月、ユルゲン・テラー(Juergen Teller)の撮影によるAcne Studiosの2019年春夏キャンペーンに登場したウェストブルックは、従来のパラダイムを超えていた。Acne Studiosは、図らずもスポーツの影響を思わせる春物のアイテムを発表していた。写真にはないが、中には90年代初頭に「傷んだバナナ」と揶揄された、アーセナル伝説のユニフォームのような、黄色と茶色のシェブロン柄のハーフジップ、袖なしのラメ入りシャツもあった。だが、ここでのウェストブルックは、ライト ウォッシュとダーク ウォッシュのジーンズとデニム ジャケットを着て、純粋に楽しげで、バスケットボールの試合会場のイメージをできるだけ切り離そうとしているのが見て取れる。それは、ウェストブルックの名声がバスケットボールというスポーツの記号表現の範囲を超越してしまったことを暗に示していた。
2019年秋冬コレクションに、スポーツのノスタルジーばかり次々と出てくるのは妙に思えるかもしれないが、実際はそうでもない。スポーツのユニフォームは、個人主義と引き換えに、団結の精神、団体のための個人というあり方を提供する。これは「自己表現としてのファッション」のような陳腐な考えにとっては、相入れない考え方であると同時に、実は、そうした思い上がりとも完全に合致するものでもある。レーサー ストライプの入ったGucciのマキシマリストなトラック ジャケットを好んで着る場合、たとえそれが、実は不朽の人気を誇るチームの選手のファンになることに近いのだとしても、そこには、自分独自の、過激なまでに個性的なことをやってみたいという衝動が存在する。
Gucciの奇妙なヤンキースのロゴがついたアイテムを考えてみる。やたらとキッチュなアップリケを散りばめた最近のデザインと、瞬時に見てわかるブランド アイデンティティの、めでたくもない結婚だ。千鳥格子のカー コートや玉虫色のトラック パンツ、さらにはスリッパ、財布、キャップ、スニーカーにまでヤンキースが融合しているのを見るに、これらのアイテムは、どうやらソフト パワーに関係がありそうだ。つまり、大手ファッション ブランドが、現代において最も知られるプロ スポーツ チームが築いてきたカルチャーに、不自然にも、自ら足並みを揃えているのだ。ヤンキースのロゴは今では普遍的なシンボルと言える。それが、ニューヨークの永遠のイニシャルであることを理解するために、打撃指標「wOBA」から総合指標「WAR」を割り出す必要などない。さらに、そのニューヨーク自体が、100年にわたる文化的優位性を表すものだ。ヤンキースのキャップに対する最も底の浅い読み方をしても、それが、この街の輝きに近づきたいという願望の表れであることは理解できる。

こうした関係性と逆のケースが、先シーズンのWilly Chavarriaのランウェイで見られた。今回、デザイナーのウィリー・チャバリア(Willy Chavarria)は、デザイナー持ち前のやりすぎ感で、hummelのサッカー キットのアーカイブを作り直し、新しくできたキットをRIFAという非営利団体に参加する選手たちに寄贈したのだ。この組織は、認定を受けた難民や認定されていない難民、亡命者、移民してきた中高生を対象に、ブルックリンやクイーンズで、サッカーの指導やリーグ戦の開催を行なっている。それは、サッカー文化に対するうわべだけの関心やコラボレーション市場の過熱を表現したコレクションだったのだが、結果的に、それはブロンクス、クイーンズ、ブルックリンなど、マンハッタンの外のアウターボローに暮らす難民少年の援助という方向に向かった。細かいことだが、その対象がアウターボローに向かった点は強調すべきだろう。というのも、ヤンキースの本拠地はブロンクスにも関わらず、ヤンキース ブランド自体は、マンハッタンの放つ輝かしい光と同一視されやすいからだ。そしてお気づきの通り、Gucciは、同じニューヨークでもクイーンズを本拠地とする格下のメッツに対しては、同様のコラボレーションを行っていない。RIFAの若者たちは、それまでWilly Chavarriaには馴染みがなかっただろうが、当然、Gucciは皆知っていたはずだ。だが、彼らの居場所のなさや、その境遇、国を離れなければならなかった現実に目を向け、支持したのは、チャバリアだった。こうした居場所や国の必要性は、サッカーにおいては特に顕著だ。サッカーチームとは確固として場所に根ざしたものであり、その勝利は、個人や国のアイデンティティに関わる問題だからだ。
スポーツが象徴するものは、チーム主体の競争とコミュニティのつながりを美徳として認める姿勢だ。そしてその象徴は、アスレジャーから得られる程度のコミュニティとの繋がりでは、受動的すぎ、もの足りないと感じる人たちの心を掴む。スポーツの持つノスタルジーは、戦闘や戦勝の記録や、国全体を縛る団結心、一族としてのアイデンティティ、伝統という制度、道徳政策など、確かで信頼のおける歴史に根ざしている。メジャーリーグのファン層が支える市場において、ジムで自転車をひたすらこぐスピン クラスに当たるものは何だろうか?


ファッションがスポーツの要素を取り入れることは、それが物欲に基づいていないとすれば、愛着という意味では本能なものに感じる。両者ともにある種の熱烈なトライバリズムに基づいており、突き詰めれば、その盲目的な忠誠心は過激さへと転じうる。ニューヨーク・ニックスのユニフォームのレプリカを着ることは、着ている本人たちが意識する以上に、Versaceのロゴ プリント柄の服を着るのと同種の行為だ。にも関わらず、ライフスタイルにおいては、ファッション好きの人々と、たとえばマンチェスター・ユナイテッドの筋金入りのファンは、ほとんどかすりもしない。VersaceとY/Projectは、何世代もの間、FCバルセロナの「カンプノウ」や、マンチェスター・ユナイテッドの本拠地「オールド・トラッフォード」といったスタジアムで何世代にもわたって見られたものを真似て、インターシャ編みのマフラーを作った。ここでブランドがやったことは、労働者階級のカルチャーを掘り起こして、エキゾチックで刺激的なものとしてパッケージングし直すという、ハイファッションの道楽だ。おそらく、Vetementsが独自バージョンを作り出したときも、ブランドの関心はそこにあったのだろう。明らかにTwitterで「スポーツ万歳!」などとツイートするような人々に向けて作られているようで、アイロニーを武器にしてきたブランドらしかった。
だが、労働者階級たちが働く炭鉱への旅は、必ずしもすべてが成功するわけではない。スポーツのリファレンスを通して高揚感を想起させたいというブランドの願望が、勢いよく子ども用プールに飛び込むようなものに感じられることもある。Off-Whiteの2019年秋冬コレクションには、花柄のレオタードに、ポンポンのついたブーツを履いたモデルたちが、暗い色のバイザーのついたアメフトのヘルメットを被り、顔を隠すというスタイリングが登場した。それは人々の動揺を誘い、匿名性からくる脅威を感じさせるものだった。その数週間後に行われたウィメンズウェアのショーでは、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)はアメフトも陸上競技場での激励会も放棄して、今度は、ネオプレンのジャンプスーツや、市松模様のドレス、ストックカー チームが着ているロゴがたくさんついた難燃素材ジャケットの抽象的なパロディーなど、何ら特別な意味をもたない、ただかっこいいシルエットの数々を発表した。エディ・スリマン(Hedi Slimane)のCelineでは、スタジアム ジャンパーが、映画『ブレックファスト・クラブ』の影響を如実に表していた。それが示唆している均質的な学校の教室の中では、人気者とガリ勉と不良少年のスタイルが調和し、現実ではありえないが、それぞれの間を流れるように行き来していた。スポーツに入れ込むには多くが求められるが、中でもいちばん簡単なのは、どちらの側につくかを選ぶことだ。勝っているときだけ、そのチームを応援するようなファンはすぐに突き止められ、極端な偏見をもって悪し様に言われる。ファションと違い、ファンの世界はあらゆる人に開かれているが、不正直者の居場所はない。
そして、あの不滅のデザインがある。2019年秋冬コレクションのメンズ コレクションで、Loeweがラガーシャツを発表し、この頼もしい主力商品を、だらんとしたシルエットとして新たに提案した。丈が膝まで伸び、民族衣装のトーブに似た雰囲気で、カラフルなストライプやカラーブロックは未知のクラブ チームをほのめかしている。Burberryも同様で、ラガーシャツをサイクリング パンツに合わせたり、袖を宙ではためかせながらチュニックとして着たりするスタイルを試みている。だがその色合いが毒々しい。ケミカルな緑色とどぎつい赤が、無秩序にぶつかり合い、バラバラになったアイデンティティからくる歪みや、英国の政治的分裂を突きつけられた若者たちの不安など、政治イデオロギーをスポーツのクラブチームに見立ててみたと言わんばかりだ。Alexander Wangの2019年秋冬コレクションにも、季節外れのラガーシャツがあった。縦に横にストライプが入ったプラッシュ素材のセーターは、金持ちの余暇というRalph Laurenのビジョンを思い出させる。

かつて、「スポーツウェア」と言えば、曖昧ではあるが、ざっくりと捉えられるカテゴリーのことだった。実際のスポーツでの使用に適していようがいまいが、テーラリングではないものなら、何にでも当てはめられたものだ。だが、日常生活において宗教が占めていた位置をスポーツが埋めてしまったように、「スポーツウェア」の概念もまた、事実上のカジュアルなスタイルを意味するストリートウェアによって取って代わってしまった。NBAのガードの選手は、今日の牧師となり、控え室へと続く通路は説教壇に、選手の服は説教となっている。こうして、「スポーツウェア」はふたたび活躍の場が回ってきたのだ。その概念は、個人的な歴史、所属、その場所に対する誇りといった、非常に限定的な思いを負っており、それによって、ファン層が築き上げられる。あるチームを応援することは、実は、自分が思い描く自分自身の姿を応援することに他ならない。当然ながら、それは服を着るのと同じことなのだ。
Max Lakinはニューヨークのジャーナリスト。『T: The New York Times Style Magazine』や『GARAGE』、『The New Yorker』などに執筆している
- 文: Max Lakin
- 翻訳: Kanako Noda
- アートワーク: Florian Pétigny