ゴスと
ユートピア
どこにも無い場所の座標
- 文: Julia Cooper
- 写真: Kevin Amato

ゴスは永久にファンタジーと結び付くだろう。コスプレと、多少やり過ぎのアイメイクと、不機嫌な態度と結び付くだろう。ゴスは、社会の慣習的な作法にたじろぐ反射作用であり、処世術への無関心である。ゴスが知りたいのは消え去る術だ。ひとりぼっちの見えざる存在でありながら、微弱なWi-Fi電波のように、緩く世界と繋がった状態。ゴスは、わずかに触れただけで花びらが塵と化すまで、萎れた花を手元に残す。ゴスは、モーテルのドアのノブやティーンエイジャーの部屋のドアに掛けられた「入室お断り」の化身だ。ゴスの精神は、ユートピア的な感性と対をなす。それは蛍光を落として、世界を流れるありきたりの大河から逃れたいという願いだ。



ゴスは、自分が押し込められている世界とは別の世界を探す。社会の契約はまやかしだから、無関心によって告発する。そうして世の中を渡っていくことには、何かしらユートピア的なものがある。斜に構えて現在を見る姿勢だ。ゴスは、現状を受け容れることを拒否し、人間関係を円滑に進めることを拒絶する。代わりに、別の存在領域を独創的に占拠する。闇を受け容れ、光を遮断する。社会への適合を求めるプレッシャー、あるいは諸々を気に掛ける必要があるというプレッシャーに抵抗することで、ゴス的ユートピアを追いかける。
サブカルチャーとしてのゴス、過激なファッションとしてのゴス、ポストパンクの表示行為としてのゴスは、傍流であったその起源から大きく成長した。英国パンクの黎明期から、80年代のダークウェイブ ミュージック、ゴスが頂点を極めたとされる90年代、そしてアメリカ全土の郊外におけるショッピング モールを席巻するまで、ゴスは多くの時代を生きてきた。悲しみにくれる少女がTumblrへの投稿に使うカタルシスの小道具へと形を変え、 1990年頃のウィノナ・ライダー風コスプレの再興を促した。一方、モールに登場した太いアイライナーや破れた肘は、にわかゴスのおかげで、はるかにスタイリッシュかつ清潔に高級化した。どん底期のゴスは、ミレニアル世代に選択される骨抜きのライフスタイルと化した。ゴスが冷酷であった時代は去り、異世界、奇妙、陰鬱との関連も失われた。代わりに、活性炭で濾過した水と黒ずくめのアスレジャー ウェアが生まれた。
しかし、独創的で、嘘のない、本物のサブカルチャーとしてのゴスが喪われたことを、嘆く必要はない。主流カルチャーは常に、きちんとした断りもなく、社会の「好ましくないもの」を濾過する。10年前、都会の企業文化は擬似パンクの感性に染まっていた。現在、頭の先からつま先まで黒づくめで国家を罵るのは、ごく当たり前の行為だ。ゴスには、振り返るべき平穏な日々がない。社会に広く流通して取り引きされる人気を得たからといって、それが堕落とは限らない。ゴスの存在に純潔の神話は必要ない。間接照明さえあればいい。
今やゴス種族が上流社会の一部として存在しているにせよ、普通人にチョーカーを付けさせる余地はある




肉や骨や飢えがもたらす煩わしさ、他者が意味する不自由...人間であることの不満に思いを巡らす時間は有意義だ。デジタルは、皮膚という檻から解放されて、知覚する脳になりたいという衝動を増幅しただけだ。いつも明るい性格でいるのはくたびれるし、作り笑いで過ごす1日は消耗と頭痛をもたらす。だが、内面のゴスをコントロールして、世界に対峙する前に、もう少し陰に留まれば、回復できるかもしれない。静かな無気力のポーズは、脳に作用する陰ヨガだ。精神の闇に深く沈潜することは、否定性に執着することではない。ゴスの姿勢を貫くことは、執拗な楽観とは異なる多様な領域を接触すること。
ユートピアは「向かう」プロセスである。時や場所が定められることは決してなく、未来へ向かって延び続ける理想だ。ギリシア語の「ou(無い)」と「topos(場所)」に由来する通り、「どこにも無い場所」だ。しかし、意識の中だけに存在し、地図上には存在しないがために、「場所の無さ」は常に空想や創造の可能性に縛られる。ユートピアとは、現在私たちがいる世界より、もっと良い世界を思い描く幻想である。この幻想は、ゴスを生み出したパンク シーンより遥かに古く歴史を遡る。1516年に「ユートピア」を著したトマス・モア(Thomas More)以降、アーティストは理想の社会の座標を描いてきた。ダニエル・デフォー (Daniel Defoe)、ジョナサン・スウィフト (Jonathan Swift)、マーガレット・キャベンディッシュ (Margaret Cavendish)...。他にも無数の人々が、どこにも無い場所への文学巡礼を受け継いでいる。だが、それらはあくまで本の中のユートピアであり、現実世界の圧力や重さを前にすれば直ちに萎縮する、遠い存在に過ぎない。


ゴスの精神は、ユートピア的な感性と対をなす。
それは蛍光を落として、世界を流れる凡庸の大河から逃れたいという願いだ。


今世紀のアーティストを省察しても、ユートピアに対する同様の渇望が容易に見てとれる。フランク・オハラ(Frank O’Hara)の詩、アミリ・バラカ(Amiri Baraka)のラディカルな黒人の伝統、バスキア (Jean-Michel Basquiat) の絵画、エリザベス・ビショップ(Elizabeth Bishop)後期の詩。「1000の太陽が同時に昇ってくるところを想像して。野原で踊りなさい」とTwitterに書いた、オノ・ヨーコ(Yoko Ono)の親切心と焦点化に対する信念。涙が炎になって燃え上がる解放的イメージを使ったビヨンセ(Beyoncé)の「Freedom」。そしてカニエ・ウエスト(Kanye West)。
「私たちが持ち合わせているのは、今この瞬間の喜びだけだという人もいるだろう。しかし、私たちは決して最小限の喜びに満足すべきではない」。ホセ・ムーニョス(José Muñoz)は書いている。「別のもっと良い喜び、別の生き方、究極的には新たな世界を、夢想し、作らなくてはならない」。新世界を夢想することは自己療法を超える。生き残りを賭した戦術である。だから、ゴスのユートピア的潜在力が弱まったとしても、本質の反抗を掘り起こすことはできる。今やゴス種族が上流社会の一部として存在しているにせよ、普通人にチョーカーを付けさせ、概念の煩わしさを主張し、同化への要求に抗う余地はまだある。
より大きな経済体制を、内側から破壊する方法もある。例えばファッション業界。アレクサンダー・マックイーン(Alexander McQueen)は、地獄やサディズムのダークなビジョンをチュールやレースで表現する。パリ ファッション ウィークでは、リック・オーウェンス(Rick Owens)のフードをかぶった異端者の群れが、名高いランウェイを重い足取りで歩いてみせた。美に関するあらゆる慣習的な基準やシルエットを無視する川久保玲(Rei Kawakubo)は、顔色ひとつ変えずに「人の失敗」を面白いと言ってのける。
ゴスは、通常趣味が良いと見なされない物や、オブジェや、態度と結び付いている。だが、洗練から漂い出たこの認識空間にこそ、自由の余地が存在する。悪趣味、否定性、悲しげな存在や悲しげな服装には、緩やかな可能性の感覚がある。僅かに歪んだ生き方を作り出す手段、それがゴスだ。それはおそらく、ユートピアを求める衝動を振り落とせない人が、理想の実現に向けて踏み出す一歩なのだろう。
- 文: Julia Cooper
- 写真: Kevin Amato
- スタイリング: Kevin Amato & Bloody Osiris
- モデル: Yudy、Khalil、Lucca、Alex、Vegas、Jah、Philip