どうしても欲しい!
衝動買いの心理と顛末
クリックひとつで手に入り、出遅れたら売り切れる、オンライン ショッピング狂騒曲
- 文: Jonah Weiner

7月のある朝、990ドルのフリース ジャケットの存在を知ってしまった。知ったら最後、うろたえつつ、ものの数秒後にはもう少しで買いそうになった。確かに法外な値段だけど、とてもきれいなフリースだった。色はベージュ。モコモコで、後で知った情報によると、ヤクの毛と高級バスタオルに使用される希少な長繊維コットンを一緒に紡いだ生地らしい。胸にある半円形のパネルは粘土みたいな質感のある焦茶色で、柿渋で染められたというではないか。柿渋というのは、まだ青いうちに収穫した柿の果汁を発酵熟成させた天然染料だ。製造国は? 当然、日本。どこで見つけたかって? 当然、携帯。
君の携帯が僕のと同じモデルなら、ボタンが3つ付いているはずだ。仮想ホーム ボタンじゃなくて指の圧力に反応するボタン、周囲に隙間があって指先の脂やポケットの中のゴミや埃で汚れてるボタンだ。それぞれが単調な基本機能を果たす。ボタン1は音量アップ、ボタン2は音量ダウン、ボタン3はディスプレイOFF。だが欲求の対象が画面を横切るやいなや、退屈なボタンは別物に早変わりする。捕獲のツールになる。ボタン1とボタン3を同時に押さえると、欲しいものの画像が手に入る。正確には、画像の画像だけどね。ボタン3を素早く2回押すと、バーチャル界を離れて現実界の送金が実行され、君が欲しいと思ったはずの商品が出荷される。キャッシュレス決済の快感は語るのも忌々しい仕組みだが、ひとつ、注目に値することがある。僕たちのインターネット体験では、物理的にも比喩的にも 「面倒臭くない」ことが徹底的に崇拝される一方で、テック企業は今だに多少の物理的抵抗の力を認識していることだ。注文ボタンを押すとき、指先に込めるわずかの力が脳に伝わって、僕たちは衝動に従って行動していることを自覚する。
ヤクのフリースを目前にして僕が最初に選んだのは、「画像の画像」ルートを辿ることだった。スクショを撮って、それをあちこちのストーリーに投稿する。「シェア」することで「自分のもの」にできる。そんな気がした。でも、ダメだった。ニュースレターで希少な美しいものについて書き、ヤクのフリースについて情熱的に語り、止むに止まれぬ渇望を追い払おうとした。だが、美しく近付きがたいものの理どおり、ヤクのフリースは僕の頭に居座った。手に入れたいという欲求は、消散するどころが、次第に張力を溜め込んできた。ゴム紐が後に引っ張られ、引っ張られ、弾を放つ瞬間を待ち構えているパチンコと同じだ。そして10月の末、思いがけず、支払い小切手を受け取った。封筒を開けて中味を見ると同時に、僕の手は携帯に伸び、スワイプしてヤクを見つけ出し、ボタン3を続けざまに2回叩きつけた。僕の990ドルはかくも速やかな一連の動作でカリフォルニアから日本の岡山県へ送金されたので、もう一方の手から小切手が離れる暇さえなかった。
さて、来たるべき2021年の衝動買いは、どのような様相と感触を持つようになるだろうか? この疑問はあらゆる種類のショッピングに当てはまる。食料品を全部ブラウザから買うようになると、スーパーマーケットのレジ横で生じるような衝動買いはどんな形で現れるのか? だが、なんといっても興味深いのは、服のショッピングに関する考察だ。突発的な服の購入から生じる反常識的かつ悲喜劇的結果は、思いつきで食料品を購入した結果とは比べものにならない。しかもこの数年は限定版という手の込んだ仕組みが急増して、僕たちの購入行動は、かつてなく条件反射を刺激されるのだ。限定版は単に意図された希少性を作り出すばかりか、分別を失った逆上を誘発し、脳の原始的な部位に作用して、衝動買いへと駆り立てる。さあ、ここに、いつ消えるかもしれない小さい窓がある。その中に、いつ消えるかもしれない希少なものがある。君は飛び込むのか、飛び込まないのか? どうする? どうする?
衝動買いには、現金かクレジットカードのどちらか一方が必要だ。成長期の僕にはどちらもなかったから、定義のとおり、衝動買いは起こり得なかった。僕の両親はふたりとも、今でいう「クリエイティブ分野のフリーランサー」として慎ましい収入を得ていたので、NikeのAir JordanとかStarterのジャケットとか、思春期の少年らしい懇願は絶対かつ断固として拒絶され、やがて僕は頼んでみることすら諦めてしまった。
少額の小遣いは貰っていた。1993年、スケート ショップでセールになってた12ドルのStüssyのTシャツを買うために、何週間も小遣いを貯めたのを覚えている。この長期的計画に基づいた買い物と際立った対照をなすのが、ヤング アダルト期に発生した服の衝動買いだ。20代になって間もなく、一人前の給料を初めて手にした僕は、10代に拒否されたものを買える身分になった。消費者文化の特典を肌で吸収しながら成長する一方、実際に参加できる資本を持たなかった人には、概して、代替物で満足を得ようとする心理があるらしい。ある日仕事が終わった後、今はもうない店だが、ダウンタウン マンハッタンの「Nom de Guerre」で開かれたパーティーへ行った。アルコールが無料。これ以上に古典的な衝動買い促進剤があるだろうか。結局店を出るときは、A.P.C.のフード付きジャケットが僕の道連れだった。タン カラーのリップストップ地で、ブランド初期の「Rue de Fleurus」タグがある。値段は100ドルより少し上。返品不可。その夜は午前2時に目が覚め、酔った勢いの浪費にパニクり、翌朝は慎重にじっくり眺め回し、知力を尽くして肯定的理由を掻き集め、本当に賢い買い物であったと思い込もうとした。
諦めの境地になると、束の間、理由なき空白が生まれる。その穴を、僕たちは後付けの正当化で埋めようとする。もはや未来はないかのごとく行動した後、未来の重みに圧し潰されるという具合だ。だがどういうわけか、僕の手元には今もA.P.C.のジャケットとStüssyのTシャツ(!)が残っていて、アルコールに唆された衝動買いとパニックに追いかけられた夜でさえ、長期的には、突発的な行動から連想する後悔を何ひとつ生じなかった事実を立派に証明しているのだ。それどころか、衝動買いしたものが、その他の「もっと分別を持って」買ったものより長く、手元に残ることだってある。

もうひとつ、酔った挙句の散財はあるものの威力を証明している。最近は以前よりはるかに薄れた、あるもの。そう、僕たちが現実の生活で味わう社会からのプレッシャーだ。パーティー会場になった「Nom de Guerre」の店内にはセンスが良さそうな人たちが溢れていたし、その中で、A.P.C.のフード付きジャケットがすごくいいと友だちが僕を唆したのだ。これらの状況が組み合わさり、無料バーによる酔いとは別に、強力な陶酔興奮剤として作用した。その後衝動買いをしているあいだは、実は、完全に正気だった。店員たちはパーティー客と同じくらいお洒落な様子だったし、倦怠と軽蔑を辛うじて押し隠した表情は、誘惑的と言えなくもなかった。そんな店員たちの視線の下で、どこか吸引力のある不健康な方法で無責任かつ誤った金の使い方をしているのを、僕は意識していた。ボヘミアン的両親が僕に植えつけようと手を尽くした基本的価値観に、背いていた。
ソーシャルメディアのフィードやオンライン ショップをスクロールしているときには、もちろん、つきまとう店員はいない。傍でけしかける友人もいない。衝動買いを誘発するあらゆる種類の要素が、今はほぼ全滅だ。ソーシャルメディア自体が強力な視線だという意見もあるだろう。僕たちはデジタル世界の巨大なパノプティコンに捕らわれ、姿の見えない「友達」や知りもしない人たちから好意的な反応を貰うために服を買う。確かにそのとおりだ。が、この視線が両方向に作用することにも、僕は気づいた。ものすごく僕好みの服でも、誰かが着てポーズを撮った写真では全然大したことなくて、自分のものにしたいという欲求が萎えてしまう。
こんなふうに、今のデジタル時代には、物溢れの印象が行き渡っている。そこで生まれたのが限定販売現象だ。「今買わなきゃ売り切れ」式の販売では、どんな服であれ、本来の魅力そのものより計算が重大要素になるのが必然の成り行き。画面に映っているシャツが洒落ているかどうかはもちろん大切だが、6分以内で売り切れる事実が「クール」の正確な定義を歪曲させる。実は秘密があるんだ、と誰かに耳打ちされたときの反応と似ていなくもない。そう聞いた途端、秘密を知らなきゃ自分の人生が損するみたいに、知りたくてたまらなくなる。思わせぶりなヒントに目が眩んで、秘密の中身は二の次になる。
だがパブロフの犬と同じ条件反射も、何度か繰り返せば、そのうち効果を失う。インターネット時代ならではの、服や靴関連のミームも同じこと。Instagramで命を吹き返した昔のブランド「Big Dog」のTシャツ、NikeのChunky Dunky、ケンタッキー フライド チキンとCrocsのコラボ、等々。面白いものに出くわしても、「画像の画像」ルートを辿るだけで十分に満足する。スクショを添付したテキストを数人の友人へ送れば、ドーパミンの分泌を楽しめる。画像の商品を買うより、こっちのほうがよほど簡単だ。
この油断こそ、ヤクのフリースが僕のディフェンスを潜り抜けた説明になると思う。希少性は意図されたものではなく、珍しい素材のせいだった。ヤクのウールなんて、実際に触ってみなきゃ手触りがわからないじゃないか。柿の実の染料も、この目で見なきゃわからない。つまり、スクショでは伝わらないのだ。実は、このエッセイを書いてる最中に友人からDMが舞い込んだ。趣味の良さを尊敬している友人なのだが、僕が書いたニュースレターを読んで以来、ヤクのフリースを買おうか、迷っていたという。そしてついに、僕のサイズを尋ねるところまできたわけだ。僕は一瞬、罪悪感の混じった誇りに満たされた。彼が同じものを欲しがることで僕の判断が裏書されたのはいい気分だが、パノプティコンの片隅から片隅へ、僕が浮かされた熱を感染させたのではないかと気になった。
現在までのところ、僕の判断が正しかったことは、時間と用途の両面で証明されている。日本から届いて以来、1日も欠かさず、僕はヤクのフリースのジャケットを着ている。元を取ろうという心理もあるだろうが、温かく心地よく体を包む精密なデザインは、かつてなく快適性が大切になった現在の生活にぴったりだ。朝起きると先ず腕を通す。それから裏庭へ出て、手懐けたい野良ネコに餌をあげる。ハイキングをするときも、近所へ用足しに出かけるときも着る。夕飯の支度をする時間になるまで、ずっと着ている。賢明な衝動買いだったことは見事に立証されている。少なくとも、夜中の午前2時に、僕はそう独り言ちている。
Jonah Weinerは、ニュースレター『Blackbird Spyplane』のライター
- 文: Jonah Weiner
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: January 8, 2021