体験レポート:
Burberryの
プリントシャツ

ジェイソン・パーハムが、何気ない仕草に宿る威厳について考える

    サンフランシスコは木曜日。今日、ソウルの女王が死んだ。さかのぼること数十年前の1971年に、3月の肌寒い夜、フィルモアウェストで、アレサ・フランクリン(Aretha Franklin)は、街中に魔法をかけてしまった。そこに居合わせていた者なら、きっとあの夜のフランクリンの類稀なるパワーを証言できるだろう。彼女が、優しさや美しさ、そして愛で観客を包みながら、人間の可能性をはるかに越えて、手の届かないところにまで達してしまったあのライブ パフォーマンスを──。

    私は辺りの音に耳を澄ませながら、それと同じ優しさを探し求めて、ユニオン スクエアの外周に沿ってぶらぶら歩く。辺り一帯には、高級ブランドの店舗が、公園を取り囲むように立ち並んでいる。Saks Fifth Avenue、Tiffany、YSL、 Valentino、Dolce & Gabbana、そして馬車の紋章を持つHermès。ヤシの木とコンクリートだけの簡素な広場。地元のホームレスが公園の広い芝生にポツリポツリと点在する。遠方で若いブロンドのカップルがキスをしている。テンションの高い観光客の一行が、ドイツ語で話しながら、空に向けてセルフィースティックを伸ばして、周りを気にすることなく顔を歪めてポーズを取っている。公園の西側の端にある高級ホテル、ウェスティン セント フランシスの外では、労働者たちがストライキを行っている。彼らの掲げる立て看板には「ひとつの仕事で十分なはずだ」と書かれている。十分とはどういう意味だろうかと私は思う。この主張は何を意味しているのか? 誰が十分なんだろう? 私たちのうち誰かひとりでも、十分だったことなど実際にあるだろうか? 私はそれを生き残るための問いだと理解している。アメリカンドリームという神話から身を守るのに必要なのだと。この地では、ざわめきや雷鳴の中で、不均衡に、そして絶え間なく人生は展開していく。

    Jason Parham 着用アイテム:シャツ(Burberry)

    私は幼いころ、おとぎ話にさほど興味を示さなかった。その代わり、ギリシャ神話に興味をそそられた。ポセイドン、アテナ、そしてアポロ。家族や裏切り、そして血や戦争についての物語。私のお気に入りは、「勝利」の象徴である翼の生えた神、ニケ(Nike)だった。某巨大スポーツブランドが企業アイデンティティの基盤としている神様である。以前は、それを当たり障りのない、いたってどこにでもある概念だと考えていたが、大人になるにつれて私はますます懐疑的になってきた。勝利。征服…これらは、きれいごとではない。特に、黒人男性で、決して安定とは言えない中産階級に属する私にとっては。それらを経験すること。そして結果を受け止めながら生きるということ。勝利は、勝者には力を与える一方で、残された敗者からは略奪するものでもある。

    私は公園の真ん中に置かれた、舞台の主役のように立ち誇る記念碑を見上げる。英雄のジョージ・デューイ(Admiral George Dewey)を記念して建てられた、26メートルの石柱の上に、三又の槍とリースを持った海緑色の大理石のニケ像が立っている。彼女は祝福している。「勝利は何を奪うのだろうか?」と私は思う。「何を残すのだろうか?」


    Burberryのマルチカラー スカーフ プリント シャツが届くまで、私が所有するいちばん高価な洋服は750ドルのCalvin Kleinのタキシードだった。その一張羅は、Macy’sのレオンという慈悲深い店員のおかげで、運良く200ドルで手に入れたものだ。と言っても、私はいまだかつてファッションに対する鋭い審美眼を持ち合わせたことがない。私が「洋服って難しい」と人に言う場合、その言わんとするところは「単に何を着るべきかを指南してくれる専属のスタイリストやパートナーがいたらいいのに」ということだ。ライター、ビジュアルアーティスト、ミュージシャンといった自分のクリエイティブな肩書きとは対照的に、私はいつも当たり障りのない濃い色に傾いてしまう。ネイビーのTシャツや、ブラックジーンズ、そしてグレーのポロシャツ。私は意図して目立たないように努めている。無難なものが私にとっての落とし所なのだ。

    それなのに、このBurberryのマルチカラー スカーフ シャツときたら、身を隠そうとする私の本能を真っ向から否定してくる。シャツの基調となるのは、スケール感へのこだわりだ。そこには人目を引く力強さと、枠に収まりきらない大胆さが共存している。言うなれば「うるさい服」である。スタイル、着心地、値段(1,000ドル)ともに、あらゆる意味において恥知らずで、不愉快で極端だ。マキシマリストであるクリストファー・ベイリー(Christopher Bailey)の所産であるこのシャツは、意図的に五感を刺激する。今年、ベイリーはBurberryのチーフ クリエイティブ オフィサーを退任し、その座をGivenchy出身のリカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)に引き継いだが、老舗ブランドには、ベイリーの足跡が色濃く残っている。65回におよぶランウェイ コレクションを通じて、彼はたったひとりで、洒落たクールな落ち着きとイギリスの洗練を定義した。ブランドのあらゆる美的DNAに織り込まれているのは、Burberryの象徴である格子柄、いわゆるシルバー、黒、キャンディー アップル レッド、そしてゴールデン ブラウンの組み合わせである。トレンチコートから、スカーフ、ベルト、靴下、スラックス…彼の作るアイテムはどれも絶妙にツボを押さえており、働く女性や男性のための、慣習に則った洗練性を備えていた。ファッション評論家のキャシー・ホリン(Cathy Horyn)は、2006年に「完全なる奇抜さと厳格な実用性との間に位置するバランス感覚を持ち合わせていることが、ベイリーが他のラグジュアリー ブランドのデザイナーたちとは一線を画す所以である」と述べている

    曲に例えれば、マイルス・デイビスというよりミーゴスの表現に近い

    このスカーフ プリント シャツの特筆すべき点のひとつは、ベイリーが生み出してきた他のスタイルとは、全く対照的に見えることだ。ビジュアル的には、このシャツは様々な要素をド派手に組み合わせ、ブランドが持つファッション レガシーに反旗を翻したマニフェスト、いわば空気感、歴史、そして神話のコラージュなのだ。多彩な模様を組み合わせて入念に仕立てられ、イタリア産のシルクを使い、象徴であるチェック柄、金の紋章、時計、銅のナイトなど、ブランドが包含する要素が奏でる壮大なバロックの幻想曲だ。曲に例えるなら、マイルス・デイビス(Miles Davis)というよりミーゴス(Migos)の表現に近い。

    翌朝、ちょうど9時前に私はこのシャツをギアリー ストリートで着てみることにした。私は東へ歩を進める。最高に格好良くて、全くおかしな気分だ。公園を通り過ぎる際、大理石の像は私の頭上付近からこちらを見下ろしていた。このシャツを着るには、見た目が美しくなきゃいけないというわけではないが、多少なりとも自分に自信がなければ、とても着られたものではない。なにせ、私は見せものなのだ。100%シルクの素材が自分の肌に触れる感触は、自分が重要な存在であるかのような気にさせてくれる。私は自分自身の神話であり、自分の以外のもので、大きくて永遠なるものなのだと。

    しばらくして、私は自分のホテルの部屋へ戻った。そしてシャツをホテルのベッドの上に広げ、じっと見つめた。私がずっと敬愛しているロサンゼルスのミクスト メディア アーティスト、ベティ・サール(Betye Saar)のことを思い出す。サールは、ものごとの結び付きに対して、確固たる視点を持っていた。「私は記憶の欠片、遺物や何の変哲もないオブジェの破片と、テクノロジーを結合させていくことにすごく興味があるの」。かつて彼女はそう言った。「それは過去について深く探求するのと同時に、未来に到達する方法だから」。私は、このシャツを着ることで、全く同じ気持ちになったことについて思いに耽る。まさにこのシャツの仕立ては、サールのミッションに重なり、過去を振り返りながら未来を見据えているベイリーを体現している。

    世間に打ちのめされた黒人の日常にローソンは向き合う

    私は写真家のディアナ・ローソン(Deana Lawson)のことを思い浮かべる。さかのぼること数ヶ月前の春に、チェルシーのシッケマ ジェンキンス ギャラリーで見た、彼女が手がけた息を呑むほどに見事なポートレート作品を思い出す。彼女の写真は、姉妹、お年寄り、子供、父親に囲まれた、平穏で安らぎのある黒人社会の日常のひとコマを記録している。そこには、なにげない普段の生活が、特別な瞬間として写真に収まっている。サールの作品同様、ローソンの作品はさりげない行為をひとつひとつ丁寧に組み合わせたものだ。温かい抱擁における指の絡み合い、女性のヒップに張りついた手のひら、同じ姿勢でしゃがんでいる堂々とした4人の男の膝。そこには、調和がある。このシャツのシルクは、ローソンのポートレートの神々しさを彷彿とさせる…その明るさ、豊かさ、その動きにある色つや。バターのような、滑らかなテクスチャーが、肌をそっと撫で、包み込むように。ローソンは、世間に打ちのめされた黒人の日常に、向き合っている。彼女は内部へと通じる大きな入口を作る。光に溢れ、豊かで、既視感がある。私はわが家を思い浮かべる。家族のことを考える。生き残るという意味について考える。勝利を背負いながら生きるということの意味を考える。迷いながら生きていくことの意味を考える。それは、さりげない仕草が内包する威厳なのだ。

    柄と柄がぶつかり合うこのシャツをよく見れば見るほど、これが私にとって何を表しているのかを認識する。それは歴史、神話…単一の存在ではあるが、同時に多種多様な要素が統合されたものの象徴である。新たな威厳の形であるが、単なる寓話以上の現実味がある。共感を呼び、嫌味なまでに自信に満ちたこのシャツは、単なるシャツを超えた大きな存在だ。


    サンフランシスコを発つ前の日、私は最後にもう一度ユニオン スクエアに戻る。予想通り、公園は人で溢れている…地元の人たち、観光客、ホームレス。2度と着ないかもしれないが、私はBurberryのシャツを荷物に詰めた。厳粛に鎮座する海緑色の像が、訪れる多くの人たちの頭上高くそびえ立つ。勝利は何を奪うのか? 何を残すのか?

    そもそも黒人が少ない街のせいか、私が今いる空間に、黒人の姿はまばらだ。おのずと黒人である自分の存在を意識してしまう。だからかもしれないが、3人の黒人のティーネイジャーが通りの向こうから公園に入ってきた時、私はすぐに気がついた。ひとりは短いフェードカットの髪型で、赤いスウェットシャツに身を包んでいる。もうひとりはインディゴのトラック ジャケットを着ている。最後の子はグレーのフーディに身を包み、ジャイアンツのベースボール キャップからドレッドヘアがはみ出している。彼らはパウエル通りの南側の角に立ち、話に盛り上がっている。横断歩道の信号が青に変わる。彼らは立ち止まって話し合っている。明日の保証もない黒人の青年たちが、土曜日の午後に何を話し合うのか、私はあらゆることを想像してみた。彼らのまわりを人が流れていく。なぜ彼らはそこで立ち止まっているのかよくわからない。信号がほぼ赤になると同時に彼らは横断歩道を渡り始める。慌てることも恐れることもなくゆっくり歩いている。私はこの光景がいかに凄いことかと考える。彼らの歩く動きが奏でる的確で穏やかなメロディ。ゆっくりで、緩慢で、彼らそのものだ。小さな個人が大きな存在感を放つ。ここには威厳がある。車列が行き場をなくして蛇行している。世界が彼らのために立ち止まる。自分に言い聞かせる。たぶんここで、今この瞬間、この小さな歴史の隙間で、彼らは勝利を収めたのだと。

    Jason Parhamは『Wired』のカルチャーライターであり、『Spook』の編集者である

    • 文: Jason Parham