体験レポート:
Sies Marjanの虹色光沢トート

ジェナ・ウォーサムがホログラムの癒しパワーを探る

  • 文: Jenna Wortham

色に恋することは、光に恋するということだ。私たちの網膜細胞の作りは独特で、光を、ニューロンが色と認識できるような情報に変換し、処理を行う。承認を伝える手段にもなる色を通して、人は、自らの成長において積極的になることも可能だ。イナ・シガール(Inna Segal)の手引書『カラー・カード ― 色に隠された秘密の言葉』でカラー ヒーリングについて勉強して、私は、ゴールドのレイヤーを身にまとうと豊かさが引き寄せられること、ダーク グリーンを取り入れるとバイタリティーが想起されること、そして、バラのかわいいピンク色は愛を育むということを学んだ。

それでもなお、色というのは、私たちの生きる現代とは相容れないものだ。常に監視の目が光っている文化の中では、目立つことは賢明ではない。未修正のInstagramの背景で、あるいはライブ配信で、あるいは近頃、友人の身に起きたように、たまたま見たYouTube動画の雑観映像に映り込んでいた、などとして認識されてしまうのは望ましくない。シンプルなデニムのリバイバル、「ナチュラルな」色合いのリネンやコットンは、おそらく原点回帰ならぬ、基本に立ち戻ることへの関心から生まれた。ただし、これは私たちが「ごく普通の、ありふれた」という意味で言うところ「ベーシック」とは区別されるべきものである。

基本に立ち戻るということは、例えば地産地消を心掛け、竹製のストローを持ち歩くことに加えて、ある種の道徳観に従って行動することだ。そこには、おそらく、地球環境と一体となるという深い生存本能に突き動かされた、地球に優しい、リサイクル素材の服に身を包むことも含まれる。それは、ネットワーク社会から切り離され、匿名の存在になるための、私たちが知っている数少ない残された方法のひとつだ。

画像のアイテム:シャツ(Sies Marjan)

Sies Marjanの冬コレクションのトレンチ コートやトートバッグ、チュニックに見られる、ホログラムのような服の数々は、この時代の流れに真っ向から逆らう。それは、この現代の生存本能すべてに逆らうものだ。コレクション ノートは、これらの生地を「虹が砕け散ったような…アイスブルー、ライトピーチ、レモンライムといった色がホログラムのように混じり合う」と表現する。ジェームズ・タレル(James Turrell)の光の彫刻が、眺めるほどに、色んなものが見えてきて、わかってくるのと同様、Sies Marjanのホログラムのような服もまた、目を見張るような空間支配の持つ力について、私たちに多くを教えてくれる。

Sies Marjanのクリエイティブ ディレクター、サンダー・ラック(Sander Lak)は、最近のインタビューで、色を着ることは「言葉を話すことのようなもの。色で遊ぶことで、気分を表現したり、自分の望む気分を出したり、他の人の気分も変えたりできるのが、とてもいいと思う」と話している。光沢のある虹色は他の色とは違い、「構造色」とよばれる科学的な発色現象によって生じるものだ。微細な構造に対する可視光の干渉と、少しの色素により、ゆらめく蜃気楼のような印象を与える。孔雀の羽と同じ現象だ。となると、ホログラムを身につけるというのは、気分を表現することというより、むしろ気分を映し出すこと、色彩のイリュージョンを作り出すということだ。分子レベルでは、私たちが身につけられるモノの中では、もっともハリー・ポッターの透明マントに近い。光に干渉することで色彩が変化、波長が変化するのだ。だが実際の見た目は、この真逆だ。このコートを着ることは、透明になる可能性を自ら拒否し、あえて目につく姿になることを暗に意味している。このスリルと恐怖は、大袈裟な意味でなく、はかり知れない。私は、これらの服を外で着る勇気がなかなか出なかった。だがひとたび意を決すると、この服の持つ脆さと優しさ、虹色のホログラムのような生地に身を包んでニューヨークのような場所を歩けば避けることができないであろう注目に、私は進んで身を任せた。ただ通りを歩くだけで、パフォーマンスを行わなくてもパフォーマンスをしているような存在になり、輝いていられるというのはすごいことだ。

画像のアイテム:トート(Sies Marjan)

私はホログラムのトートバッグを持って、ニューメキシコの砂漠にハイキングに行った。バッグは、私にはわからない独自の言語を持っていた。他人がバッグの存在について話すのを聞いて初めて、私はそのことに気づいた。バッグはアメリカ南西部のピンクやグリーンを反射して、独特の姿になった。どこからでも非常に目につきやすいので、トレイルで迷子になったときは、思いがけずGPSの代わりにもなった。他のハイカーたちは、真昼の直射日光を受けて、バッグが輝く様を見て驚いた。私はこのバッグを植物、トゲトゲしたウチワサボテンの巨大な茎の隣りに置き、灰色の岩と並べるのがとても気に入った。この自然と人工の対比は、暴力的なまでに、とても美しい。それは、気体でも液体でも個体でもない、特別な状態に見えた。

ホログラムというのは、鏡、姿見の原型から生まれたものだ。それは、昔から続く、暴露と内省に使われた技術の系譜にある。人類は、どうしようもないほどに、自分たちの姿を見る技術に依存している。私たちは、他人にどう見られているかを理解しようと必死だ。そして、いまだにありのままの真実の姿を見せてくれるツールを見つけられずにいる。ゆらゆらと動くイメージを映すホログラムは、あらゆる角度からの見え方の絶え間ない記録とも言える。となると、もしかすると、これは写真から得られる真実にもっとも近いのかもしれない。さらには、ホログラフィーを衣服に置き替えることは、メッセージを書き直すことになるのだろうか。見方を書き直すことになるのか。あるいは、反射した像を取り出して、それを物質化するということなのか。ホログラフィーとは、それ自体が独自の原理的カテゴリーである。光の露わにするものを捉えるのが写真であり、空間における光が凝縮したものがホログラムだ。それを身につければ、歩く光のディスプレイになれる。では、見ることができなければ、光とは何なのか。高速で回転する光の粒子を知へと変える、錬金術のような闇の術がないとすれば?

BalmainMargielaCalvin Kleinなど、ファッションにおけるホログラムの再浮上は、隠されていることや知らされずにいること、この過剰と人災の時代に何が危機に瀕しているのかをこれ以上知らないままでいることに対して、時代がうんざりしていることを反映している。「僕はデザインするときに政治情勢について直接考えることはないけれど、皆と同じで、その真っ只中にいる」と、かつてラックは話していた。「時折、部屋の隅っこに行って、毛布にくるまって隠れたくなるときがある。でも、そうでないときは、色をぶちまけたいんだ」

忘れないでほしいのは、ホログラムという語は、ギリシャ語の「ホロス(全体)」と「グラマ(伝達)」から構成されている点だ。これらふたつを合わせることで、モールス信号のような、ただし聴覚ではなく視覚に基づく、完全に新しい言語を形成しているのだ。最初に光の粒子を操ることができたのが、私たちの目であることを思い出してほしい。目は、脳がイメージとして処理できるよう、光をインパルスへと変換し、ホログラムは光の働きに干渉する。このことが意味するのは、私たちがこの服を着るとき、現に他人からどのように見られているかをコントロールしているということだ。ファッションとしてのホログラフィーによって、私たちは新たな現実、他人にも参加を促すことができるような、特別な体験を作り出すことができるのだ。私たちは、自分たちが見ていると考え、またそうであってほしいと思うイメージにできる限り近い印象を与えたいという想いから、原始的な写真技術を使って、日常的にイメージや色を操作し、その反射面の見え方を複雑に作り上げている。

2018年において、干渉により生じる光の振動という意味で、ホログラムは人であることのメタファーだった。それが真実のすべてではないが、利用可能なテクノロジーを使って到達できる真実にもっとも近いものではある。ソフトウェアによって、友だちとの親しさ度合いがキュレーションされ、メールが自動的に書かれ、エンターテイメントが選択され自動的に提供される。私たちは、今やテクノロジーとは切っても切り離せない、進化の途中にあるサイボーグなのだ。ホログラムを着用することで、そのサイボーグへの変身は完了する。半分が人間で、もう半分は、自分と自分に関わっている相手の両方をリアルタイムで投影したものでできている。ホログラムのような生地は、こうした現実から自然と生じたものだ。これを着ていると、期待通り、まさに未来という感じがする。それでもなお、この生地が持つ本当の力は、光の性質に対する新たな洞察、他者の前に自らを曝け出すことの本当の意味に対する洞察に由来するものなのだ。

Jenna Worthamは『The New York Times Magazine』のスタッフライター。ポッドキャスト「Still Processing」のホストのひとりである

  • 文: Jenna Wortham