体験レポート:Moncler Genius × Simone Rocha ジャケット

ジュリ・ウェイナーが問題ありの華々しさに 異議を唱える

    最近買ったものを10個、思い浮かべてほしい。それはすでに知っていたものだったのか、それとも、即買いせずにはいられない、目の覚めるような新しい発見だったものか。

    私が最後に買ったのは、Solange Azagury-Partridgeのリップ型リングで、その見た目は唇というより、にこりともしないメイ・ウエスト(Mae West)のはれぼったい唇にそっくり似せて、ダリがデザインしたカウチのようだった。このリングの存在を前から知っていたら、もっと早く購入したのに、と思う。おそらく、Solangeのリップ リングの存在を知る人が増えれば増えるほど、買う人も増えることだろう。Solange Azagury-Partridgeにとって、その課題は知られていないことであり、解決方法は知名度をあげることにある。

    だが、Chanelのクラシックなフラップ バッグや、Converseのスニーカー、Ray-Banのアビエーターなど、至るところで見かけるような、ある意味、誰もが知っている定番アイテムを作るブランドにとって、知名度は解決にならない。場合によっては、それが問題だ。なぜなら顧客層は、a) すでに件のアイテムを購入済みか b) 買わないことに決めているからだ。Monclerのコートも、まさにこのタイプの、あちこちで見る定番アイテムと言える。

    当然、「定番」というのは相対的なものだ。一部の人たち、例えば地球上の人口の99.999999パーセントの人たちは、1,500ドルもするダウン コートを必須アイテムとは考えないだろう。だが、アウトドア派の金持ちの間では、Monclerは必ず着用しなければならないアイテムだ。それは、スイムウェア ブランドのVilebrequinや、ラケットボールとスカッシュの違いを見分けられる遺伝的能力や、「estate(遺産)」という単語が、「アストリッドがヨット事故で亡くなり、ニューポートの邸宅とバハマのライフォード・ケイにある別荘をestate (遺産として相続)した」というように動詞としても使えることを知っているのと同じだ。Monclerは、自身が通った学校の制服もステータス シンボルであるような人が好むタイプのユニフォームであり、つまるところ、名門フィリップス アカデミー アンドーバー校のロゴが入ったスウェットの上に重ね着するための、アンドーバーのロゴ入りスウェットのようなものなのだ。

    その意味において、Monclerは定番、ベーシックである。加えて意思表明、ステートメントでもある。なんなら、ベーシックとステートメントを掛け合わせて「ベースメント」とでも言うべきか。まあ、ベースメントは既に別の意味の単語として存在するので、あえてその表現を使う人はいないが。

    コートは最低でも約1,000ドル、そこから価格がアルプスの頂上めがけて急上昇するようなMonclerを買える人なら、Monclerの存在はすでに知っているはずだ。そして、それでもMonclerのコートを購入したことがないのなら、それはMonclerを見たことがないからではなく、すべて承知の上で、Monclerのコートを所有することに興味がないからだ。

    私がそれに当たる。グシュタードのゲレンデよりもソーホーのぬかるみに慣れ親しんでいる私は、常々、Monclerとは、プリンス ストリートからスプリング ストリートにかけて旗艦店をのんびりハシゴしては、その都度セルフィーを撮り、歩道を塞いで交通を滞らせるような、ちんたら歩いているヨーロッパ人の家族連れだけが着ているものと考えていた。ユーロの価値が下がれば下がるほど、私の遅刻も減って行くような。

    そして常々、ダウン コートに2,000ドル近くつぎ込むのは馬鹿げていると思っていた。確かに、ジル・スタイン(Jill Stein)に2,000ドル寄付したり、花嫁付添人の役目を果たしたりするような、腹の立つ2,000ドルの使い道ではない。それに、私はこれよりはるかに馬鹿げた使い道のために、もっと多くのお金を払ったことが確実にある。例えば、友人と一緒にトライベッカ・グランド・ホテルにあるPaul’s Baby Grandで開催されたパーティーに行った際に、「雪が降っているから」と、10ブロック先の家までタクシーで帰る代わりに、上階のスイートルームを借りたことなどだ。

    私はただ、Monclerのコートなど欲しくなかったのだ。

    そしてこれは、Monclerにとってはマーケティング上の難題を表している。すでにMonclerのコートを買わないと決めた顧客に対して、どのようにアピールすべきなのか。

    答えは、Monclerをアピールしない、だ。そのような顧客に対しては、Monclerのコートではないものを売る。これを売るのだ。

    Juli Weiner 着用アイテム:ジャケット(Moncler Genius)

    このジャケットの名前はDarcyという。なぜダーシーと呼ばれているのかは、定かではない。私の勝手な考えでは、ジェーン・オースティン(Jane Austen)の本の登場人物の名前から取ったか何かだろう。オースティンの小説に出てくる登場人物を引き合いに出す意図なくして、「ダーシー」などという名前を付けるなど、考えられないからだ。ただ見ているだけではわからないかもしれないので説明すると、これは「Moncler特有の機能的なディティールに調和して混じり合った、重量感と軽やかさの遊び」なのだそうだ。が、実際どうだろうか? Moncler特有の機能的なディティールに調和して混じり合っているだろうか? というのも、私にはこの混じり合いが特に調和しているようには見えないからだ。

    このDarcyは、ブランドが最近行ったSimone Rochaとのコラボレーションのアイテムだ。シモーネ・ロシャ(Simone Rocha)はアイルランド出身の素晴らしいデザイナーで、彼女のパフスリーブに対する愛情は、Monclerにうってつけだ。注意すべきは、Moncler × Simone Rochaが、イースター限定でありそうな「とんがりコーン」のように見える桜色の円錐形コートを扱ったMoncler x Pierpaolo Piccioliや、想像通りにすべて真っ黒のMoncler × Kei Ninomiyaや、中には、スケプタ(Skepta)のパーティー写真に写っていた、バックルで節々を分けたオーバーオールを思い出す人もいるかもしれないが、「ミシュランマンがSM部屋を経営したとすると、どんな服を着るのか?」という質問に答えてくれるMoncler × Craig Greenとは、別物ということだ。

    昨年Monclerは、これはお坊ちゃん風のタータンチェックやリバティー風の柄のアイテムを扱うMoncler Grenoble、終末世界で滑るスキーの後に着るためのMoncler Palm Angels、Thom Browne好きの大学生風アスリージャー スタイルのMoncler Hiroshi Fujiwara、さらに、「ポップアートのテイストに都会の輝きを取り入れた」という説明を読んでも、Monclerの目指すところがさっぱりわからないMoncler 52もローンチしている。

    いずれにせよ、これらのコラボレーションは、戦後のイタリア、フランス、日本のファッション界の最も華々しい成果を体現している。当然のことながら、Monclerはこれをあらゆる宣伝材料として、嬉々として使用している。

    この8つのパートナーシップは、MonclerがGeniusと呼ぶ新たなマーケティング キャンペーンを構成する要素であり、CEOのレモ・ルッフィーニ(Remo Ruffini)によると、これは「類いまれなマインドが集まり、共同で作業しつつも、同時に各デザイナーの解釈に光を当てるような、ハブとして構想されている」。つまるところ、ダウン コートの刷新を目標とした、たくさんのカプセル コレクションである。

    ブランドは、イタリアのアウターウェア版エド・シーランとなったわけだ。はっきりと目につく形で、戦略的にコラボレーションする

    ブランドは、イタリアのアウターウェア版エド・シーラン(Ed Sheeran)となったわけだ。はっきりと目につく形で、戦略的にコラボレーションする。「End Game」はエド・シーランの曲ではない。エド・シーランを「フィーチャーした」テイラー・スウィフト(Taylor Swift)の曲だ。私はエド・シーランが関わっているという意味で、この曲が好きではないが、この曲が好きなので、彼の関与も喜んで我慢できる。

    Monclerに対して懐疑的な者にとって、GeniusのコートはMonclerではない。それは、Monclerを「フィーチャーした」Kei Ninomiyaのコートであり、あるいはPalm Angelsのコート、あるいはSimone Rochaのコートなのだ。Ruffiniによれば、「各プロジェクトは、それぞれにMonclerの精神と一致するものだが、同時に、真にオーセンティックな新しいアイデンティティを作り出すものでもある」。言い換えれば、このコートはすでに持っているものとは違う、あるいはすでに嫌っているものとは違うということだ。だから、このコートを手に入れる必要がある。

    ただし、多分、このコートに限られたわけではないのだが、エド・シーランの髪の毛と同じように、この赤は私の好きな赤ではない。

    そしてこのラッフル。写真ではひらひらしてロマンチックに見えるが、実際に着ると、だらんとしている。袖にあしらわれたピンクのスパンコールの花は、子ども向けのゲレンデさえ、耐えることができなさそうだ。ロシャの尖った女性らしさは、突如として、風通しの悪い、 本好きの、インドア派のスタイルに見えてくる。他のMonclerのコートに見られる健康的な弾力感とツルツル感と比べると、このひだ飾りのような装飾はとりわけ哀しく、しょぼんとして見える。これを見ていて、私は哀しく、しょぼんとした気持ちになってしまった。

    スパンコールとビーズの出来栄えもいまいちだし、コンセプト自体もいまいちだ。あまりモダンに見えないのだ。思い出すのは、若い頃に使っていたサッカーのすね当ての派手な花柄だ。90年代後半の女子向けのスポーツ用品のデザインがそんな感じだったのは、今日的な言い方をすれば、ただ男子向けのスポーツ用品に「問題ありの華々しさ」を加えただものにすぎなかったからだ。男の子向けは黒かグレーか白、女の子向けはピースサイン、花模様、そしてピンクのアクセント。Monclerを着る女性は、自分や他人に証明するための花などなくても、ちゃんと女性である。一体この花は誰に対して、何のために咲いているのか?

    しっかりしてほしい! 1,850ドルもするのだから!

    さらに衝撃的なことに、これはMonclerのジャケットにすら見えないのだ! 唯一「Monclerに特徴的な機能的なディテール」として残っているのは、値札だけなのである。私がこのコートを着て回っているときに出会った人は、誰ひとりとして「うわあ、いつからMonclerのジャケットなんて着るようになったの?」とは言ってくれなかった。私はこういう反応が得られなくて、ちょっとがっかりした。そして、そんながっかりした自分が恥ずかしかった。

    そのうち、私はこのコートをセーターともっと魅力的なコートの間に重ね着するようになった。光沢のある、「メイク アメリカ グレート アゲイン」のキャップを彷彿とさせる赤を、Tibiのシアリングの下からちょっと覗かせると、パンチの効いたコートに早変わりする。そして今、このコネチカットの郊外にあるスターバックスで、凝ったドリンクを注文しながら、私はこれ以上ないほど自分らしいと感じている。

    Uniqloのような匿名性の高いデザインにMonclerの金額を払う意味はどこにあるのだろう? The Rowはそれでも許されるが、それはThe Rowが完璧な服を作っているからに他ならない。

    そして、それは本来のMonclerにも当てはまる。だが、このDarcyはそれには入らない。

    このコートを手に入れてほんの数時間も経たないうちに、気づけば、私はMonclerのサイトを閲覧しており、奇妙にも、クラシック モデルの持つスポーティーなシンプルさに魅入られ、私のウィンター ジャケットのひらひらに怒りを覚えていた。そしてどうなったか? 今、私はMonclerのコートが欲しくなっている。Monclerのコートに比べると他のコートはどれも、ただただ「だらしなく」見える。

    1,850ドルもするこのウィンター コートに関する1,500語に及ぶレビューの中で、私はこれが暖かいかどうかについて一言も触れていないことを忘れないでほしい。そのようなレビューは期待されていなかったと思う。

    ブラボー、Moncler。これこそジーニアス、天才だ。

    Juli Weinerは2014年以降、「Last Week Tonight with John Oliver」のスタッフ ライターを務める。また『The New York Times』、『Vanity Fair』、instagram.com/juliweinerに執筆。イースト ヴィレッジで、パジャマという名の猫と婚約者とMonclerのジャケットと共に暮らす