君に夢中
11人のライターが胸をときめかせた人は、何を着ていたか?

「何が起きてるかくらい、誰にだってわかるわ」
— ジェニファー・ペイジ「クラッシュ」
誰かに夢中になるという意味の「have a crush」では、「have」という動詞が「所有」を主張している。だが、この慣用句が本来意味するところの、夢中になり、心を奪われ、馬鹿みたいにハッピーで、胸が締めつけられて、心臓がどきどきする状態は、所有の対極にある。私たちは自分で自分を管理できなくなる。内面はぬかるみのようにドロドロになり、頬と胸は燃えるように熱くなる。とりわけ、何を言うにも言葉選びに慎重になる。注意力は散漫になるが、一方で、愚かなほど強烈に集中する。さしあたっては、好むと好まざるに関わらず、あなたを虜にした相手の笑い、携帯メール、お喋り、髪をはね上げる仕草、よく知っている歌の出だしを耳にして体全体で楽しむ様子、ジャケットの袖を腕に捲り上げた着方、背中の低い位置にバックパックを背負う方法、そういうすべてのちょっとした変化や癖があなたの世界の中心に居座る。
夢中になる相手ができたのであれば、次の目標は当然その相手に近づくことだが、恋に落ちた状態を客観的に観察するのも楽しい。あるいは、それまで築いてきたコントロールのメカニズムが根底から覆されてしまうような、強い欲求を体験するのも悪くない。私たちは10代の頃に逆戻りする。ティアナ・リード(Tiana Reid)は、『The New Inquiry』に執筆した記事「Crushed」で書いている。「…誰かに夢中になっている状態は、大人でいることと対極にあるから、ドラマチックな一目ぼれの舞台には、ティーンエージャーの世界がよく使われる…その時代を過ぎた私たちは、安定した感情を取り戻し、過去の経験は波乱に満ちた現在を乗り越える力となる」。この意味で、恋に落ちることにはヒーリング効果がある。夏にはよくありがちな、いとも簡単に溺れてしまうあの熱情。矢継ぎ早に恋を求め続ける。恋だと気付くこともなく、相手を知りたいという見境のない切望の魔力を楽しむ。ちょっとした刺激を体験するために、身も心も消耗する。若干のノスタルジア。思いがけない全身の熱いほてり。
そんな恋の相手が、いつ、何を、どんなふうに身に着けていたか。11人のライターが、誰かに夢中になった思い出を振り返る。
ここでは、彼をジェレミアと呼ぶことにしよう。そして1996年のロサンゼルスのフランク・D・ペアレント小学校で、ジェレミアは大半の少年たちと似たようなものだったとしよう。つまり、衝動的で、溌剌として、冒険に飢えていた。僕たちは賑やかだった。総天然色の音だった。そんな僕たちにとってさえ、学校はパラドックスだった。着るものから立ち居振る舞いまで、教室の外で僕たちの成長は制限されていた。1996年の秋まで、ペアレント校には、ホワイトのポロ シャツとネイビー ブルーの長ズボン、半ズボン、またはスカートという制服があったのだ。当然ながら、僕たちは反抗心を形で示した。胸で誇らしげに光るゴールドの名札、きつく編み上げたスタイリッシュなヘア スタイル、耳朶に連ねたシルバーのピアス。自己は必ず表現の方法を見つける。
僕たち男子にとって、存在を主張する手段はシミひとつない無傷のスニーカーだった。Fila、Reebok、LA Gear。この点で、ジェレミアは素晴らしく巧みだった。エバンス先生のクラスで、ブラックとホワイトのシャープなNike エア モア アップテンポを持っていたのは、ジェレミアを含むほんの数人だった。ふたりの子供を抱えるシングル マザーだった僕のママには、とても手が出せる値段ではなかった。特大サイズでレタリングしたブラックの「AIR」を、細く鮮明なホワイトが縁取っているジェレミアのNike。僕は自分がそれを履いているところを想像した。歩くにせよ、ジャンプするにせよ、動くにせよ、ジェレミアはまさに「クール」の塊だった。僕はジェレミアに強く惹かれていたわけではない。僕はジェレミアになりたかった。
そこには、スニーカーうんぬん以上の意味があった。スニーカーは理想の僕の象徴だった。あるいは、僕は理想の自分を想像し、不安と自信のなさが澱む現実の自分との距離をあのスニーカーが狭めてくれると信じたんだろう。大人になってからは「レス イズ モア」のミニマリズムに転向した僕だが、プレティーンの時代の僕は耳を聾するばかりの大音量で生きたかった。もしかしたら、安全と周囲からの憧憬を求めていたのかもしれない。それとも、Nikeがかくも優雅に、魅惑的に、明確に伝達した「AIR」を望んでいたのだろうか。僕が本当に願ったのは「飛翔」だったと思いたい。
ジェイソン・パーハム(Jason Parham)。『Wired』カルチャー ライター、『Spook』エディター
25歳を迎え、ボーイフレンドと別れ、ランチの時間に泣いたとき、年上の独身女性にアドバイスされた。曰く、ロマンスが欲しいなら、そんな男のことは忘れて、どんどん外へ出て、自分がやりたいと思うことをやりなさい。彼女のアドバイスは効果てきめんだった。その夜、ドラッグをやりまくった私は、フルタイムのDJとデートすることを承知したのだから。
自分の誕生日だというのに、その日が火曜日か水曜日かも思い出せなかったくらいだから、「デートする」のは過ちだった。というか、正しくない気がした。件のDJは、私がデートの約束を忘れないようにテキストメールを送ってきた。私は返信しなかった。すると又メールが来て、ジーンズと一緒に、財布も失くしたという。チャンスだと思った。銀行のカードをどこへ置いたかわからない、期限切れの運転免許証をタクシーに置き忘れる、タクシー代が足りない、鍵がみつからない…それが私だったから。ウォッカなんか置いてないようなすごくシックなカクテル バーへ誘って、勘定書きを手にする側にまわって、当然のように「どういたしまして」なんて言ってみたら、もっと自分に自信が持てるというものだ。私はジン マティーニを注文した。彼に首を絞めさせてあげた。セント ジョゼフ病院の私のファイルには、緊急連絡先として別れたボーイフレンドの名前が記入されているのを思い出したけど、ボーイフレンドのことを懐かしんで思い出しているのは違う気がした。
その週の土曜日、私は窓のある白いロフトを出て、カレッジ ストリートのサブレットのワンルームへ引っ越した。妹が壁の塗り替えを手伝いに来てくれた。そこへDJから、財布が見つかったとテキストメール。ビール6缶入りのパック「シックス パック」を持ってやって来るという。同じ「シックス パック」でも、妹はむしろ割れた腹筋を意味する方の「シックス パック」に、興味津々だ。その「シックス パック」を携えてくる彼とやらは、一体どんな人なのか。私の説明は、強盗に襲われて動転した被害者が警察に話すのとさほど変わらない。えっと、白人で、痩せ型から中肉中背、腕にタトゥーがあったかもしれない。その後、やって来たDJを、私は仔細に観察する。青い目、ジーンズ…
そして、大きな過ちを犯したことに気付く。
…チェーンつきの財布。
DJが冷蔵庫へ向かった隙に、「そもそも」と妹が囁く。
「わかってるわ」と私。
「鎖付きの財布よ、あの人」
「わかってるって」
「どうする気なの?」
「どうしろって言うのよ」。小声でやり返す。「カート・コバーン(Kurt Cobain)の時代はもう終ったのよ、って教えればいいの?」
時は2010年。90年代ファッションが復活していたけど、生憎、ステンレス スチールの太い鎖をつけた財布は復活しなかった。第一、29歳の男がHanesやThe Gapとチェーン付きの財布を組み合わせるなんて、ハイスクールの頃からそうしているのでない限り、ありえなかった。カクテル バーへ行った時は、スタイルと無縁なことがすごく印象的だったのに、今回は誇らしげにスタイルをキメたようだ。そして彼が選んだスタイルは、「後悔しないぜ」と同義のアクセサリーだったわけだ。
私は後悔を歓迎した。DJはキッチンのカウンターのところで私を抱き、私がほかの男と寝たら我慢できないと言う。「そう?」と私。彼は服を着たまま体を押し付けてきた。「わかったわ、わかった」と、私は囁く。歓びに震えてるように聞こえたかしら。財布のチェーンが私の腿に食い込む! どうでもよくなった人と一緒にいるのは簡単なことだわ、と内心思った。
サラ・ニコル・プリケット(Sarah Nicole Prickett)。ライター、エディター

パネル キャップの湾曲と正確に表現された頭部の形状に、私は奇妙な魅力を感じる。まるで、人から人へ伝染していくミームそのもの。まさに彼女とデートしながら他の女性に目がいく男性のごとく、ベースボール キャップの男と手をつないで街を歩いていても、頭にぴったり合った5パネルを目にする度、物欲しげに振り返る。スキンヘッドの女性を別にすれば、5パネル以上に頭蓋の輪郭を露に見せてくれるものがあるだろうか?
ハイスクール時代をトロントの郊外で過ごしていた私は、5年生の2学期、生徒の大多数が白人のアート スクールから、町の反対側にある、有色人種と白人が混ざり合ったもっと平凡な学校へ転向することを選んだ。英語のクラスで私の前に座っていたのは、オーバーサイズのフーディ、ブラックのTimberland、同じくブラックのNikeの5パネル、というスタイルの少年だった。Nikeはホワイトのチェック柄、ブリムはフラットではなくカーブ、後ろのナイロン ストラップは長いままきつく留めてあった。グループ作業のあいだ、私たちは、『リア王』ではなく、お気に入りのラップについて喋った。だけどNike少年は滅多に話すことも笑うこともなく、眠たげな目は深く被ったNikeのブリムの影に隠されていた。彼に関する限り、あらゆるものが覆われ、内側に隠されていた。だから私の目は、大きなわし鼻とウィル・スミス(Will Smith)みたいに突き出した耳、スッキリした頭のシルエット、褐色のうなじを際立たせて彼の頭蓋を包む、Nikeの心地よい曲線を追いかけるのだった。
今では以前より目にすることも多くなったけど、私が複雑に暗号化されたスタイルを追いかけていた2000年代初頭の5パネルは、トレンドの主流のフィット キャップやベースボール キャップに対する、ほほえましくもオタクっぽい抵抗を意味した。5パネルは「目立たない」ことを暗示した。私たちはデッド プレズやバドゥやザ ルーツを聴いていた時代だったから、頭蓋骨の形と性格はそれとも関係があったと思う。
恋人にプレゼントしたいと思う帽子じゃないけど、一度、自分の5パネルを横取りされたことがある。彼女ががっちりした体格を覆う大量の長い髪の上にその5パネルを被ると、驚くほど小さな耳と繊細な顔があらわになった。でも5パネルだからといって、何も保証はない。バーで、Supremeのハットに見合わない男の話にうんざりしながら耳を傾ける羽目になったのも、1度じゃきかない。5パネルのボーイッシュな形状には、恋に落ちたときの初心な心が似合う。今もまだ付き合いのある男について言えば、彼のブラックの5パネルがDJデッキの上で揺れてるのを目にしたとき、私はたちまち恋に落ちたのだった。小文字を使ったHUFの5パネルで、心もちフラットなブリムが上向きになっていた。顔を上げてフロアを見渡したとき、大きな鼻とその上の青い目、シャープな顎を縁取る硬いヒゲ、そして、その後私が熱愛するようになったアイデアでいっぱいの、赤ん坊のように愛らしくオーバーサイズな丸い頭が見えた。
アヌーパ・ミストリー(Anupa Mistry)。ライター
学校から帰った後に見たテレビで、僕は彼女と出会った。ドクター ビバリー・クラッシャー、「スター トレック:ザ ネクスト ジェネレーション」でゲイツ・マクファーデン(Gates McFadden)が演じたキャラクターである。僕は、ほぼ即座に執心した。これこそ、僕が探し求めていたものだった。6歳にしてすでに、僕はロマンチックな恋に憧れていた。映画やテレビに影響されて、ロマンチックな恋こそ、自分が認められるもっとも純粋な形だ考えるようになったんだろう。そして、心配性の子供だった僕は、人に好かれないことをとても恐れていた。子供用のベッドに横になって、「おやすみ、ビバリー」と大きな声で言っていた記憶がある。今でもあの恋心が僕にもたらした満足感を感じることができるし、無邪気な感情がとても誇らしかった。自分がもっと大きくなって、もっと世界の一部になったような気がした。それもこれも、彼女が着ていたコートが理由だったことは間違いない。矢車草のブルーのダスター コートを着たドクター クラッシャーは、他のキャストと一線を画していた。U.S.S. エンタープライズの乗組員は、たいてい体にピッタリしたカラーブロックのジャンプスーツを着ていたのに、ドクター クラッシャーだけがコートを着ていた。そのせいである種の垢抜けた宇宙的、現代的雰囲気があったが、6歳の僕は、ただ単に周囲とはっきり違うところに反応しただけだと思う。おそらく、美学と愛情を混同していたのだ。実のところ、ドクター クラッシャーというキャラクターに関しては、コート以外、何も覚えていない。
アダム・レイ(Adam Wray)。 SSENSEシニア エディター
私たちがいたのはブルックリンのヒップなエリアとして知られるキャロル ガーデンズだったし、彼はかなり垢抜けた服装だったので、おそらくグラフィック デザイナーだろうと私は見当をつけた。ところが、共通の友人が言うには「とんでもない、彼は公選弁護人よ。良いじゃないの、デートしなさいよ」。私は速やかにそうした。つまり、彼とふたりでパーティーを抜け出して、バーへ行ったのだ。
その次の週末、私は彼のベッドで目覚め、「アイ ラブ ユー。愛してるわ!」と口走らないよう、懸命に自分を抑えなくてはならなかった。どうやら言わずにすんだ。3月らしい良い天気だ、朝食を食べに出かけようと彼が言う。「オーケー。ちょっと支度するわね」と私は答えてバスルームへ入り、なるべく音をさせずにおしっこする。超完璧でいたかったから、彼のトイレでしゃがんでいる姿なんか想像して欲しくなかった。次に冷たい水で顔を洗い、髪と格闘した挙句、ようやく正しい高さでお団子にまとめることができた。ベッドルームへ戻って、服を着る。彼はベッドルームを出て、コーヒーを淹れていた。前の日の下着をそのまま身につけていくか迷い、ちょっと臭いを嗅いでみる。やめておいた方が良さそうだ。
「そろそろ支度できた?」と、リビングから彼が尋ねる。ドアをあけ、足取りも軽くリビングへ行くと、彼が立っていた。フィットしたブラック パンツ、着古したデニムのジャケット、そして…フェドラ。
その瞬間、その場で、別れたくなった。「あなたを愛してると思ったけど、私の唯一の鉄則は『フェドラ厳禁』なの」と言いたかった。事実、私が出会い系アプリのTinderでプロフィールに書いているのは、この鉄則だけ。
私たちはアパートを出て、中庭のベンチに腰掛けた。彼は優しく微笑みかけ、何度かキスしようとしたけど、事態は完全に変わっていたし、彼はそれに気付いていた。どうしようもなかったから、とうとう教えた。「私、フェドラはダメなの」。彼が言うには、フェドラはいくつか持っているし、80年代のパンク、ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)が脚本を書いて監督した『ストレンジャー ザン パラダイス』、ロック バンドのザ・クラッシュが好みなんだそうだ。
私は彼をジャズ マンと呼ぶことにした。愛すればこそ、 服装に関するこのもっとも重大な侵害を許そうと心に決めた。
以来、あくまで私の前では、彼がフェドラをかぶることはない。だけど、一緒に暮らしているアパートで、彼のフェドラは全部、重ねて目に付く場所に置いてある。それを見る度、ジャズ マンを完全に制圧することはできないことを思い知る。
コリアー・メイヤーソン(Collier Meyerson)。レポーター、『The Nation』寄稿ライター、ネイション インスティテュート会員

著者写真が黄金期を迎えたときがある。正式に調べたことはないが、私自身の読書歴や本屋で見かける初版本にざっと目を通した経験からすると、この黄金期は60年代後半辺りから始まり、90年代もしくは2000年代初期まで続いた。私が言っているのは、例の白黒のポートレート写真だ。たいてい肩の少し下まで写っていて、殆どの作者はカメラを真っ直ぐに凝視している。そうでない場合も、たまにある。著者写真は、日常を正直に切り取った、著者のあるがままの姿ですよ、ということになっている。
スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)には、前頭部に集中して現れた一束の白髪ばかりでなく、強い印象を与える顔立ちのせいで、記憶に残る著者写真が何枚かある。『反解釈』の初期の版のどれかで、表紙に使われた写真に見入ったことを私は覚えている。私が彫刻家だったら絶対胸像にしていみたいだろう、と思わせる顔立ちだ。曇りもなく、衒いもない。高潔。勇敢。整った顔立ちの女性なのだ。
ここで私の頭に思い浮かぶのは、実は、スーザン・ソンタグの著者写真ではなく、ある本に登場した写真だ。1975年にピーター・ヒュージャー(Peter Hujar)が撮影し、シグリッド・ヌネス(Sigrid Nunez)が2014年に出版した回顧録『Sempre Susan』の表紙に選ばれた1枚である。ヌネスは、ソンタグの息子のデヴィッド・リーフ(David Rieff)と付き合っていた頃、3人で一緒に暮らしたことがあり、ソンタグが遺したレガシーとそれに対する自らのささやかな貢献をわきまえているから、ヒュージャーによるポートレートは、間接的に、著者としてのソンタグを象徴する写真になった。両手を頭の後ろで組んで仰向けに横たわったソンタグは、どこか宙へ視線を向けている。他の写真よりもっと軽やかだ。ひとつには、その場の主導権を握っているのがヒュージャーであり、ソンタグではないことを感じるからだ。だがそれでも、ソンタグの類稀な知性の重みは失われていない。シンプルなリブ編みのタートルネックは、肘のすぐ下までの長さの七分袖で、優しく体にフィットしているから、乳房の曲線が見え、のびやかなラインの中で乳首のふくらみが僅かにセーターを押し上げている。ソンタグのことを考えるとき、あのタートルネックの柔らかさ、匂い、そのうちできたに違いない毛玉のことまで、私は連想する。まるで、あのセーターがソンタグという実存の行為であったかのように…。有名な視覚イメージと自分自身の記憶を混同するとき、空想は困った錯覚を仕掛ける。でも、本当はどうだっていいのだ。そうやって、私はソンタグにもっとも近づけるのだから。
テッサリー・ラ・フォース(Thessaly La Force)。『T Magazine』フィーチャー ディレクター
当時の基準でも、それはダサいジーンズだった。2.5センチかそこらのウエストバンドを切り落とし、やわらかくほつれた切り端を残している。さらに決定的なのは、後ろポケットがないことだ。色褪せたブルーの、つるりと非実用的ジーンズだった。1時間目の数学のクラスに、Bはそんなジーンズを履いてきた。誰もが、コメディ番組『チャペルズ ショー』流に気の利いたことを言おうと躍起になっていた、ハイスクール3年生の頃の話だ。
朝登校してきたBの湿った髪にはエネルギーがあって、想像力を刺激する。明らかに、シャワーを浴びてきた証拠だ。卵形の体形をした教師は、Bが嫌いだ。Bはよく遅刻したし、大勢の生徒が教室に入ってくる彼女をじっと見るものだから、Bは頭が悪いに違いないと思っている。頭が悪いのはじっと見とれている僕たちの方のはずだが、そういうことにはならなかった。僕はBの後ろの席だったから、彼女の暗い色の髪がうなじに作っているカールから、彼女が寄りかかっているプラスチックの椅子の背もたれまで、真っ直ぐに見下ろすことができた。背もたれの四角い切り抜きの部分は、まさに、Bの褐色の腰と空想を刺激する、あの下品なジーンズを縁取ったワイドスクリーンのようだった。当然のこと、僕の注意はBの尻に向かう。後ろポケットはどこへ行ったのだろう? そういうジーンズは、実は、当時僕が思っていたよりはるかに巷で流行っていた2000代初期のトレンドだった。ショッピング モールのAbercrombieかAmerican Eagleあたりで買ったのだろう。
その年、僕は1度だけ、学校の外でBに出くわした。ちょうど、丘の上にある僕の家の角を曲がったところで、近所の少年たちとストリート ホッケーをしていたときのことだ。年上の男たちが何人も乗った車から下りてきたBが、僕に気付いて名前を呼ぶとは予想していなかった。彼女は大きくてみっともない歯並びをしてたし、僕がいいなと思う女の子のトップ5にさえ入ってなかった。とにかく、彼女は僕をハグして、体を押し付けてきた。おざなりではなく自然に、まるで僕たちはずっとそうしてきたみたいに。ふたつの体の触れ合いは、よく知っているだけでなく、気軽なものであるように。初めてBにハグされて、瞬時に感じた興奮の下には、そんな感覚があった。
Bの側にしてみれば、何ということもなかったはずだ。僕の体重は45キロもなかったし、身長も150センチ足らずだった。おかしな髪の分け方をしていたので、果たしてそれが魅力的なのか、僕のふたりの親友はそれぞれのママに尋ねたくらいだ。ハイスクールとそれに続く年月は、「子供サイズ」の記憶に覆われている。関わり合う誰よりも背が低く、いつも下から上へ向けて話す。そんな記憶の再生を止め、優勢な立場へ転換できるようになったのは、大人になって何年も経ってからのこと。23歳のとき、代行教師をやった経験が役に立った。7歳児の群れをまとめる仕事は、真に目覚しくかつ恒久的に視点を矯正する。
いやいや、Bが登場するシーンからどんどん話が逸れてしまった。午前8時前に直面する当惑 ― 必要なときより遅くあるいはランダムに訪れる朝の勃起、どんどん予測とコントロールを裏切っていく自分の体 ― といった記憶に残るイメージや感覚がいかに鮮明であっても、Bに対する恋愛感情の周辺はあまりに流動的だ。長く繋ぎ留めようとするほど、潤色されてしまう。結局、どのディテールに意味があるのか定かでないまま、僕は頭の中を搔き回すことになるのだ。
ハグの後、Bは体を離した。彼女を乗せた車が走り去った後、行き止まりの道の上には紫色の空があった。
ロス・スカラノ(Ross Scarano)。ライター、エディター、『Billboard』コンテントVP

私が当初夢中になった映画の登場人物は、例外なく、90年代から2000年代初頭にかけての黒人の恋愛映画に出てきた。『ラブ ジョーンズ』で、愛を交わした翌朝、上半身裸、シルバーのフープ イヤリング、中程度に色褪せたLevi’sのジーンズという姿で、オムレツを作っていたライターのダリウス・ラブホール(ラレンズ・テイト/Larenz Tate)。『ラブ アンド バスケットボール』の冷静なQ(オマー・エップス/Omar Epps)は、USCバスケットボール チームのイエローとマルーンのユニフォームにくたびれたホワイトのスニーカー。『ステラが恋に落ちて』で盲目的な愛を捧げたウィンストン(テイ・ディグス/Taye Diggs)は、明るいレッドのフィッシュネット タンク トップ、シルクのボクサー ショーツ、コヤスガイのネックレス。『ベストマン』のランス(モリス・チェストナット/Morris Chestnut)は、ほぼすべてのシーンでゴールドの十字架のペンダントを着けていた。『ポエティック・ジャスティス/愛するということ』のラッキー(トゥーパック/Tupac)は、ホワイト ソックスの野球帽を後ろ向きに被って、ノーズ リング。
そして、極めつけは『ブラウン・シュガー』。
私は12歳だった。サナ・レイサン(Sanaa Lathan)演じるシドニーと、テイ・ディグス演じるドレーはずっと親友で、最後に愛し合っていることに気付く。この映画を見てから、私はLimewireで共有されていた正統ヒップホップにはまることになったし、もっと後には、大学在学中の初めてのインターンシップ先に『Vibe』マガジンを選ぶことになった。そしてドレーは、私を、わずかに体にフィットしたタートルネック姿の男性好みに変えた。仕立ての良くないスーツを着てスクエア トゥの靴を履いた音楽会社のエグゼクティブなんて、確かに多少垢抜けないところはあったけど、封切られたのは2002年だから、ある程度はしかたがない。それでも、ドレーがタートルネックを着ているシーンでは、私はダサいと感じる代わりにエレガンスを感じた。例えば、結婚式前夜のドレーは、グレーのリブ編みのタートルネックとそれにマッチしたツイードのパンツ。最後のシーンでは、クリームのケーブル編みのモックネックで、シドニーへの愛を打ち明ける。シドニーは「イエス」と答える。私も、あのセーターを着たドレーに「イエス」と答える。私の未来のデート相手に関して、ドレーはファッションの基準を作ってくれた。あれ以来、私は、温かみのあるリラックスしたスタイルの男性へ惹かれるようになった。
タヒラ・へアストン(Tahirah Hairston)。ライター、『Lenny Letter』エディター
サテンのようなナイロンが、彼女の胸のふくらみにまとわりついていた。シャツの色は、きっと彼女の亀頭と同じ色に違いない。イングリッシュ ローズの色。ホット ピンク。私の新しい友達は少し前に彼女の恋人だったけど、捨てられて悶々としている。だから、私は慎重に振舞う。こっそり微笑むと、同じようにこっそり微笑み返してくれる様子が、私は大好きだ。私の名前の呼び方が大好きだ。アクセントで気付かれるかもしれないから「シーッ」。女性はいつも、友達になることから始まる。男性はおもちゃ。彼も同じ部屋にいる。今回の旅行のあいだ中、私は熱に浮かされている。ひとりならず、ふたりに夢中。ひとりは私が仕事をするロサンゼルスに住んでいるし、もうひとりはここニューヨークに住んでいる。だけど、今夜のイベントのために、今はふたりこともここにいる。
私は彼女と同じブランドの服を着ている。友達。同じコレクション。私のジャケットのライニングは、彼女のシャツと同じ色。スキャパレリ(Schiaparelli)の鮮やかなホット ピンクは、女の子向けの恋愛小説の表紙みたいじゃなくて、本物の色だ。私は、彼女の乳房から目が離せない。ふたつの小さなティーカップみたいなふくらみに挟まれた窪みには、木の葉が舞い落ちて未来を予言するだろう。私と同じような、だけど私より少し小さい乳首。新しい友人と私は、もうひとりの恋人を共有している。彼はそのことで繰り返し嘘をついたから、私は用心している。私たちは、失恋の趣味も同じなのだろうか?
翌日、私はミズ・ピンクにメールを送るだろう。「あのトップス、とっても似合ってたわ」
返信が来るだろう。「あなたも綺麗だったわ!」。そうすれば、私は恋の煩悶から解放される。
彼女は早く切り上げて帰ったけど、彼は残って、撤収を手伝っていた。彼が何を着ていたかは、覚えていない。彼のことは、そういうふうには見ないのだ。そういうことより、私より頭ひとつ高い存在を感じる。そして、流暢にふざけた「シーカッゴウ」を聞く。彼の声には抵抗できない。10日もすれば、彼のいうこと、書くこと、私にすることのすべてを、愛と感じ始めているだろう。
サラが結婚する前に言ったことがある。「いつもふたり同時に好きになってしまうの」
ミズ・ピンクは、「いちばん大事なのは相手になりきること」で、誰でもそれを望んでるし、彼女もそれを望んでる、と言った。彼女になること、欲求の対象になること、見つめられること、熱くなること。
私は答えた。「あらゆる暴力は、相手になりたい欲求と自分のものにしたい欲求が混乱するせいなのかしら?」
彼女と関係を結ぶとどうなるだろう。私は何になるのだろう。仕事のできるプロ?
最初、私は彼に抵抗した。だって、男だから。でもその後で気を変えた。これまでは、私を支配しようとしない男性はいなかった。彼は、私のためにダンス フロアを空けてくれたような気がした。それに、彼はダンスが上手だ。私が何を着ているか、ちゃんと気付いている。
フィオーナ・ダンカン(Fiona Duncan)。ライター、「Hard to Read」創設者
最近のことだが、私の周辺にある指輪をした人が現れるたびに、私の注意が吸い寄せられた夏があった。若さゆえに無鉄砲に突進し、理性や論理をまったく無視して愛を受け入れ、ただ流れに身をゆだねるだけの蒸し暑い日々だった。そんな時期に私が灼熱の恋に落ちた女性たちには、どうしてだか不思議なことに、或るものが共通していた。ブルックリンのあるジュエラーが作った、ということはつまり大量生産ではなく、それほどの数も出回っていないアクセサリーだ。同じアクセサリーが繰り返し現れるのは、人智を超えた現象に思えた。彼女たちを結び付けているより大きな繋がり、あるいは、彼女たちが私に何かをもたらす印のような…。指輪そのものは、極めてシンプルだった。ゴールドトーンの丸みを帯びたメタルの先端が平たく広がって手の形になり、前向きに捉えれば互いに近づこうと、永遠に前へ前へ向かいつつある。メタルから打ち出された抱擁だ。あえて未完成な部分を残したようなデザインだった。それを指にはめている人と同じように、少々のことは平気だと告げていた。少なくとも、私はそういう気配を読み取った。重なり合う汗ばんだ肌、強く掴んだ顎、唇を咥える鋭い歯。指輪には「Palm of the Hands ― 手のひら」と彫られていたが、名前というよりは、その指輪のつけ方を表しているような気がした。その指輪をした女性たちに、指輪と同じように、私を手のひらのいちばん厚い部分で包み込み、私の体に両腕を巻きつけて欲しかった。何か知る価値のあるもの、欲望する価値のあるものへ、私を作り変えて欲しかった。金色は、2番目と3番目のチャクラのあいだを往来し、快感と智慧の両方の中枢を覚醒する。その指輪も同じように作用した。私は、指輪が内包する知性を認めなくてはならなかった。だから、その計り知れない働きが目に入ったら、私は躊躇うことなく「ハロー」と声をかけ、自己紹介して、指輪をした女性をドリンクに誘った。メスカルかジンジャーみたいに、ピリリと辛口のドリンクだ。ある日、コーヒー ショップでその指輪が売りに出されているのを見つけた。だが買って、すぐに失くしてしまった。高貴なオブジェは、無神経で思慮に欠けた人間に所有されることを拒否した。与えたり所有するのではなく、従うことを学ばせるのが、私を魅了したあの指輪の目的だったようだ。現代の風潮は、ミニマリズムであれマキシマリズムであれ、自分で自分を装飾することを助長する。あの指輪は、どういうものか、自分の居場所に何かを付け足すことも何かを抜き取ることなかった。どの指にはめられていようと、ただ私に目配せして、楽々と私を手繰り寄せた。
ジェナ・ウォーサム(Jenna Wortham)。『The New York Times Magazine』常勤ライター、ポッドキャスト「Still Processing」共同司会者

僕と僕のフィアンセは同居を始めることにしたので、チャイナタウンへ荷物の運び出しを手伝いに行った。23ストリートのUホールでレンタルした運送トラックは、数時間後に返却しなくてはならない。ところが、フィアンセのアパートは混沌としていた。箱詰めされたものがあったとしても、僕には思い出せない。唯一、ブラックのレザーのモーターサイクル ジャケットを着てホワイトのマニキュアをしたサラだけが、落ち着き払っていた。まったく慌てていなかった。
「とてもじゃないけど、間に合わないよ!」と僕。
「まあ。でも私、ランチの約束があるのよ」とサラ。
よりによって今日という日にランチの約束をするとは、もってのほかだ。馬鹿げている。現実に対する侮辱だ。こんな状況でランチに出かけることが無理なことくらい、わかるはずだろう? サラのルームメイトたちは、キッチンに立って見ている。彼女たちと僕は互いに見ず知らずだし、そういう外国女性の環境で男性司令官の役割を演じるのは軽率かもしれない。とてつもなく嫌なクソ野郎に見えてしまう可能性もある。
「とんでもない」。効果を出すためにカウンタートップを手で軽く叩きながら、僕は言った。「ランチはキャンセルするしかないよ」
「この人、気に入ったわ」と、ルームメートのひとり。
僕たちはトラックに荷物を積み込んだ。サラのスカート、ジャケット、下着 ― どれも、僕のベッドルームの床で見つけて愛したサラの名残りだった。Tシャツにも見覚えがあった。仕事に着て行ったことも何度かある。 アンバーとバニラのいい匂いがするんだ。靴はそれほど知らなかったけど、何足か、知っているのもあった。サラについてひとつ言えるのは、機雷を探知する軍用イルカ並みの精確さと効率で、eBayに割引で出品されているPradaのプラットフォーム ヒールを探し出す技があることだ。ところが今日は、彼女らしくない靴を履いている。ネオン グリーンのディテールがほどこされたNikeのランニング シューズ…タンにはサラのイニシャルがプリントされている。
サラはランニングしてただろうか? 僕は見た覚えがない。不健康だという意味ではない。サラは、特別に何もしないままで、完璧な身体を保っている。一方の僕は、運動して、朝食を抜いて、それでようやく現状維持だ。僕のフィアンセがコンピュータを立ち上げてイニシャル入りの靴を注文するところを想像すると、愛情とわずかな恐怖が胸に沸き起こった。そういう靴を「らしくない」と思うこと自体が、間違いだったかもしれない。サラが「らしくない」ことをやったことは、一度もない。人であれ、物であれ、考えであれ、サラは世界から受け取りたいものを承知して、引き寄せるのだ。サラの趣味や欲求は、寸分の狂いもなく正確さで、見えざる地図を形作っていた。ウェストサイド ハイウェイの夕陽に向かって進みながら、どうにかその地図の上に辿り着いた僕は、幸運だと思った。
ジェシー・バロン(Jesse Barron)。ロサンゼルスを本拠地とするジャーナリスト
- 文: Jason Parham, Sarah Nicole Prickett, Anupa Mistry, Adam Wray, Collier Meyerson, Thessaly La Force, Ross Scarano, Tahirah Hairston, Fiona Duncan, Jenna Wortham, Jesse Barron