バッグに隠された文学
ケイトリン・フィリップスが推薦する小説とバッグたち
- 文: Kaitlin Phillips
- 写真: Brent Goldsmith

バス、列車、いつも遅れてやって来る友人…私たちは、どれくらいの待ち時間を、気もそぞろに本を読みながら過ごすだろうか? つまり、読むことに集中しないで、ということだ。気がつけば目はページから離れ、どことなく前方の宙を見つめている。繰り返し流される同じ曲を耳にしながら、衝動的に携帯の画面をスクロールする。ちっとも頭に入らないから、同じ3ページを読み返してばかりいる。何も残らない。どういうわけか、文章が言葉を失う。
だが、私たちを捕えて離さない本はどうだろう? それを読むために予定を取り消すような、パーティーを早めに切り上げて帰宅するような、朝早起きするような、夜睡魔と闘うような、そんな本だ。耳を傾けてくれる人なら誰にでも読むことを薦める…そんな本は、ぎごちなさやわだかまりを氷解する解毒剤のように感じるけれど、同時に、性急に近づいた関係を試すリトマス試験紙ともなる。
ライターのケイトリン・フィリップス(Kaitlin Phillips)が、お薦めの本と今シーズンもっとも人気のあるバッグと組み合わせた。
レイチェル・カスク『Transit』
レイチェル・カスク(Rachel Cusk)作『Transit』(2016年) は、頼みもしないのに送りつけられてきた、タロット占い師からのメールで始まる。語り手のフェイは、占い師を名乗る送信者を信用するわけではないが、とりあえずサービスに対しては謝礼をする。フェイは、人々の多様な個性を歓迎する。『Transit』は平等主義と日常性の上に立脚しているのだ。フェイは、見知らぬ人々と出会い、彼らの語ることに耳を傾け、彼らの欠点と矛盾を読者の眼前にさらけ出してみせる。フェイが偶然に出会う人々は、時として、彼女の中にわずかばかりの同情を生じ、彼らとの関わりは刑のごとき趣を持つ。フェイは、「受け身の聞き手」という神話をきれいさっぱりと一蹴する。あらゆるところに亀裂を見つける。スターバックスのバリスタが肌の色にマッチしないコンシーラーを使っていたら、じっと凝視するタイプの女性だ。その正直さは、彼女自身が好んで観察する性格上の欠点のように思えることもある。 実際のところ、大工であれ捨てられた前の恋人であれ、とにかく最終的に相手の中にありのままの魅力が閃きを見せるまで、あらゆる会話を頑固に続ける能力がフェイにはあるらしい。彼女の世界には自分勝手で自己中心の人間が溢れているが、相手が誰であれ、自分の注意を全面的に与える積極性は、あらゆる人に贖罪が可能なことを暗示している。そんな人間的な視点からキャラクターを描ける小説には、「勝利」という言葉がふさわしい。

モデル着用アイテム:ローファー(Dr. Martens)、Tシャツ(Balenciaga)、Tシャツ(Some Ware)、ショーツ(Ribeyron)、トート(Balenciaga)、イヤリング(Ribeyron)、ソックス(Prada)
W.M. スパックマン『A Little Decorum, for Once』
1985年、『ニューヨーク タイムズ』はW.M. スパックマン(W.M. Spackman)作『A Little Decorum, for Once』の書評に、「対話との不貞」という見出しをつけた。恐慌が終わりを告げた時代を背景に、「カナル ストリート以南のお盛んな」お喋りが続く。しかつめらしい小説ではない。父親離れできないシビラは、親友の夫である古典学者の教授と不倫中だ。 シビラが裏切っている夫は、ギリシャ彫刻の「『円盤投げ』並みにいい体をした」大柄な詩人だ。そう形容する彼の継母は、豪華ファッション雑誌のエディターで、シビラの父スクロープと幾度も不倫を繰り返している。スクロープは彼女のファッション雑誌に記事を書いているライターだ。「パパは『ご機嫌取り』って言葉が大好きなのよ」と、シビラはくすくす笑いながら夫に話す。この本の登場人物は、全員、書く人間に恋をしている。シビラの叔母までが、アンティーブで出版者と暮らすために駆け落ちする始末だ。つまり、不貞行為そのものより、むしろ不倫について喋るタイプの人々なのである。物書きがセックスの後に好んですることと言えば、「フランスの出版社が断ってきたばかりだと聞いたら彼女は面白がるだろうか」と考えることであっても。ああ! この小説は、あのラドクリフ カレッジ、勇ましい女性たちが床を踏み鳴らし、べっ甲ぶちのメガネを押し上げ、言い寄る男たちを「あなたにとって誰が本気の女で、誰がそうじゃないか。それをあなたは主観的かつ恣意的に決定するわけ?」と威勢よく批判した世界への熱烈な郷愁で、私を満たす。
ナンシー・レマン『Lives of the Saints』
ベストな南部小説とは、つまるところ、作品が書かれた背景の物憂い風土をまざまざと描き出すところに本領を発揮する。ナンシー・レマン(Nancy Lemann)作『Lives of the Saints』 (1985年) は、熱にうだるニューオーリンズの、贅沢な饗宴と化した結婚式で幕を開ける。庭園では、ひとりの招待客の車がレンガの壁に突っ込む。メアリー・グレイスという名の花嫁は、以前のボーイフレンドと竹の林でセックスにいそしんでいる。ダンス フロアでは、まるで語り手のルイーズが「今まさに木から落ちてきたかのごとく」、こちらを凝視している男がいる。誰もが、暇な時間を享楽的に過ごすことに必死だ。やるべきことをきちんとこなせる者は、誰ひとりいない。その代わりに、飲んだくれること、羽目を外すこと、我を忘れることで、頭の中はいっぱいだ。ルイーズはと言えば、その時その時で攻撃的であったり藤の花房のように魅惑的であったりする色男に抗えない。100ページをわずかに上回る紙数で、ルイーズは実りのない恋を語り、南部の精神を見事にとらえる。この小説は、お風呂に浸かりながら読むこと。

モデル着用アイテム:スカート(Jacquemus)、ボディスーツ(adidas)、トート(Kara)、サングラス(Mykita)
メアリー・ロビンソン『Why Did I Ever』
2001年にメアリー・ロビンソン(Mary Robison)が何気なくレポーターにもらしたところによると、ロビンソンのボーイフレンドは、彼女が何者か、まったく知らないという。ペンネームを使っているから、物書きであることさえ知らない。その彼は、ロビンソンが一日中一体何をやってるのだと思っているのだろう。もしかして、何もしてないと思っているのかもしれない。 確かに、ロビンソンの最も有名な作品『Why Did I Ever』(2001年)は、マネーという名の「できない」女の日記だ。ロビンソンと同じく、マネーはひそかにハリウッドの台本の校正をアルバイトにしている。厳密に言えばそうだ。だが彼女の時間の大半は、ろくでもない雑用のために走り回って費やされる。別の類の台本校正者とも言える精神科医に電話をして、なんとか「スピード」を手に入れようとする。行方不明の飼い猫「フラワーガール」が匂いにひかれて帰ってくるように、街中に自分の服を置いてくる。上司のベリンダが送ってくるファックスは無視する(「ベリンダは不幸の手紙を恐がっている。彼女だけ幸運を祈るわけにはいかない」)。「新しくできた間抜けなボーイフレンド」と過ごすために、はるばるニューオーリンズまで車を走らせる。彼は彼女がどこに住んでるか、知らないからだ。スーツケースには他愛もないものがギッチリ詰め込まれていて、それぞれに「純金」と書いた小さな白いラベルが貼り付けてある。「彼は、木や紙やゴムやガラスで作られたものに触れるのを躊躇っている」。マネーの流れる跡を追う、愉快な物語だ。

モデル着用アイテム:パーカー(Balenciaga)、シューズ(Dr. Martens)、雨傘(Burberry)

フルール・イェギー『Sweet Days of Discipline』
誰しも好きなジャンルの学生小説がある。私が好きなのは寄宿舎を舞台にしたもの。いちばん出来のいい寄宿舎小説は、主人公が成長して大人になるテーマとは程遠く、根っこから堕落した人格のあからさまで淀んだ領域を掘り進む。化膿して、強迫観念へと発展する類の倦怠を描く。プラトニックな恋は、性的関係という粗雑な駆け引きに勝敗を決定されることがない。フルール・イェギー(Fleur Jaeggy)作『Sweet Days of Discipline』(1991年)は、スイスのアッペンツェルにある女子寮で進行する報われない恋を、わずか101ページで語る。少女たちは、毎朝5時、健康のためという名目で規則になっている散歩に参加し、朝の礼拝に出席する。現在は大人の女性になった語り手は、フレデリークという名の無気力な少女に陶酔した若かりし頃の関係を、注意深くなぞる。「彼女にはまったく人間らしさがなかった」。これが、語り手が好意を抱いた対象の第一印象だ。
レナード・マイクルズ『Sylvia』
物書きと結婚する女性は、自分の自殺が夫にとって書かずにいられないストーリーになることを認識していると、私は確信している。レナード・マイクルズ(Leonard Michaels)が最初の妻と過ごした年月を描いた「フィクション」の日記『Sylvia』(1992年)は、どうやら作者にとって非常に大きな魅力であったのと同じくらい、読者にとっても抗しがたい魅力がある。印象的であると同時に、空想的で、気難しくて、無気力で、執念深いシルビアは、25歳を迎えずして命を絶った。映画「ある愛の詩」に匹敵する1960年版ラブ ストーリーだ。シルビアは、グリニッチビレッジのエレベーターもない6階建ての安アパートで、レナードの友人と同居している。彼女がちょうどシャワーから出て、腰まである長い漆黒の髪に櫛を通すのを眺めながら、彼はたちまち恋に落ちる。ふたりは、疲労困憊するまで議論し、執筆している振りをしながら日々を過ごす。シルビアは、頭の中で声を聞く。突如として怒り狂う。何時間もラテン語を猛勉強する。レナードは、シルビアがラテン語を選んだのは、単に彼に対する嫌がらせだと思っている。
私の元ボーイフレンドの友達が、クレージーな女性への教訓として、この本を私に薦めた。私は有り難い聖書だと思っている。ひとりの男の関心をひいて、死んだ後も関心をひき続けるにはどうすればいいか。その方法を知っておくのは大切なことだ。

モデル着用アイテム:スニーカー(Golden Goose)、ドレス(Jacquemus)、ドレス(Calvin Klein 205W39NYC)、クラッチ(Prada)、ショーツ(Gosha Rubchinskiy)
ヘンリー・グリーン『Party Going』
冒頭のページに登場する1羽の死んだ鳩は、悪い前兆かもしれない。だけど、その鳥をバッグに入れて保管したらどうだろう? これが『Party Going』(1939年)の第1ページで提示される疑問であり、鳩にふさわしい弔いを与えることを含め、妥当だと思われた一連の企てが脱線していく最初の出来事だ。ヘンリー・グリーン(Henry Green)の『Party Going』は、アンチ フォモ(FOMO)小説と呼ぶにふさわしい。時は新世紀が幕を開けようとする頃、友人でもあり敵でもある登場人物の一団は、計画不十分な夏の休暇旅行に出発すべく、躍起になって準備している。彼らは衝動を制御することをまったく知らず、誤った情報がふんだんに飛び交う。特にハッピーな者はひとりもいない。ストーリーは、まさしく文字通り、どんどん脱線していく。出発はしたものの、ロンドンを発つ列車を待つために、ホテルで時間をつぶす羽目になる。どうにかしようという者はひとりもいない。顔ぶれは、怪しげなホテル調査員、マックスという名の世界主義者、マックスの親友たち、マックスが二股をかけているふたりの女。ひとりは意気地のない婚約者を連れた情緒不安定の女、もうひとりはアマベルという容赦なく上流階級の女...。

モデル着用アイテム:ブーツ(Dr. Martens)、ウェストパック(Martine Rose)
ジョン・グリシャム『Camino Island』
私が初めてセックス描写を読んだのは、ジョン・グリシャム(John Grisham)の『The Firm』だった。公立図書館でのことだ。やり手の弁護士が、ビーチでブラジル人の娼婦とセックスしているところを盗撮される。確か、その娼婦は宝石店で働いてたはずだ。グリシャムの本を全部借り出していることに気付かれると、私自身の父の法律事務所へ連絡されるかもしれないから、私はヤング アダルト用のテーブルにかがみこんで、私が読んでるものが司書から見えないように隠したものだ。『タイムズ』の元評論家で、率直に文学を書評するジャネット・マスリン(Janet Maslin)がいなければ、今年、グリシャムを再び手に取ることはなかっただろう。マスリンはグリシャムの強盗小説『Camino Island』 (2017年)を好意的に評した。ストーリーは、プリンストン図書館の稀覯本セクションで始まる。強盗一味が盗み出そうとしているのは『The Great Gatsby』。中世盛期ゴシック様式の図書室にアンカット本を所蔵している泥棒の物語だ。大半のジャンル小説と同じく、ジョン・グリシャムの「スリラー小説」は、大陸を移動する長距離フライトにペーパーバックを携帯し、読み終わったら同じ席に坐る次の旅客のために置いてくる。それが一番いい読み方だ。安売り量販スーパーのウォルマートにある、唯一、道義にかなった商品は、本かもしれない。次回、あなたが祖母のお供をしてウォルマートへ買い物に出かけて、薄暗い通路で迷子になって途方にくれたときは、この本をお薦めする。
エレイン・クラフ『The Princess of West 72nd Street』
エリザベス・ハードウィック(Elizabeth Hardwick)は、「女性の街ニューヨーク。バッグ レディがボロに身を包んで座り込む」と書いた。エレイン・クラフ(Elaine Kraf)もまた、大都会の底辺で逞しく生きる特殊な種類のニューヨーク女性が大好きだ。『The Princess of West 72nd Street』 (1979年)は、どちらかというと狂ったカリスマを発散する躁鬱状態の画家が書いた、滑稽で異様な第一人称日記の体裁をとっている。ついでに言うと、この画家は多重人格でもある。
「生粋のウエストサイドの女」であるエレンは、文字通り、自分はウエスト 72ストリートの王女エスメラルダだと信じている。自分をプリンセス エスメラルダと呼び、すべての既婚男性のペニスにそう書いたタトゥーを入れるよう命じたい、と願っている。何十となく指輪をつけ何重にもボロをまとって公式訪問に精を出し、お気に入りのギリシャ食堂「オイディプス」で王国の人民たちに挨拶する。プリンセス エスメラルダことエレンは処女ではないから、ニューヨーク以外の場所ではお目にかかれない多彩な男たちを相手に、ロマンティックな交わりを追い続ける。足指の爪を切らない奇術師、いつも襟に薔薇の花を刺している尿フェチの泌尿器科医、後々サディストであることが判明したがかつては夫でもあった近眼の学者、改革を唱える民主党寄りの弁護士。プリンセス エスメラルダことエレンは、「殺人と言えばね、私の大の親友たちが殺されたりレイプされたりするのは、あちら側の優雅なイーストサイドなのよ」と指摘して、地元への誇りに胸を張る。
ファニー・ハウ『Famous Questions』
たとえ一度でも、マルクス主義者の男を家に連れてくるのはいい考えだ。その結果、マルクスかぶれな態度が、実は社会階級の問題とは別物だと判明するだけにせよ…。私は、ベッドの中で、左寄りの人たちから多くのことを学んだ。だけど、政治観を持った女性作家からは、もっと多くを学べると言いたい。彼女たちの揺るぎない政治的視点は、砂に混ざった金の粒ように、小説という背景から明瞭にすくい取れる。こういう方法で政治意識を学ぶことは、社会道徳という言語の睡眠学習に似ている。ドリス・レッシング(Doris Lessing)、ヴィヴィアン・ゴーニック(Vivian Gornick)、グレイス・ペイリー(Grace Paley)が体表的だが、私が一番好きなのはファニー・ハウだ。
ファニー・ハウ(Fanny Howe)の『Famous Questions』(1989年) は、とても感性豊かな女性が自らの主義と無邪気の犠牲になっていく過程を、なめらかな筆致で描いた小編。冒頭のページで、主人公ロシーンは、路上で偶然出会ったエコーという名の美しく自意識の強いホームレスを自宅に招じ入れる。ロシーンには映画の製作に携わっている繊細で肩幅の広いパートナーがいるのだが、数日を経るうち、同棲中の彼氏をめぐって、一見純真なエコーと自分が張り合っていることにロシーンは気付く。ハウはいつも、そういう図らずも作られる三角関係を描く。邪悪や陳腐、あるいは 自分で自分にもたらした状況を理解できなくて戸惑う女性を描くことを辞さない。
Kaitlin Phillipsはマンハッタン在住のライター
- 文: Kaitlin Phillips
- 写真: Brent Goldsmith
- スタイリング: Romany Williams
- 写真アシスタント: Will Jivcoff
- ヘア&メイクアップ: Ronnie Tremblay / Teamm Management
- モデル: Lynn / Folio
- 制作: Alexandra Zbikowski
- 制作アシスタント: Erika Robichaud-Martel