ロス・スカラノが愛する8冊の本

コルソン・ホワイトヘッド、エレン・ウィリス、デイビット・ウォジャローウィッチュが描いた文字の世界

  • 文: Ross Scarano
  • 写真: Othello Grey

さて、まず質問。あなたが読むのはどんな種類の本だろう? 心に響くのは、教訓を与えてくれる本、刺激する本、じっくり訴えてくる本、気持ちを高揚させてくる本、それとも進むべき方向を示してくれる本? 読書の習慣は1日の出来事に影響されるだろうか? 例えば、その日に体験したことを考察する、理解する、あるいは抗うために、本を選んでいるだろうか? 毎晩、読みかけの本を順番に手に取るタイプだろうか? 書き手の声は – あなたさえ耳を傾ける気分なら – どんなふうに内面に届くだろうか? 知らず知らずのうちに、時の進行を遅らせ、あなたの世界に割り込んでくる本がある。それとは反対に、予想に反して、あなたを自分の世界からはるか彼方へ放り出してしまう本もある。読書の究極の喜びは、あなたの知識や理解が覆されることだろうか?

ライターであり、以前は『コンプレックス』、現在は『ビルボード』のエディターであるロス・スカラノ(Ross Scarano)が、もっとも意味のあるかたちで彼の人生を豊かにし、あるいは深めた本を紹介する。ライターとして困難な局面で彼に問いかけ、そして音楽評論家としての彼に刺激を与えた8冊である。

マギー・ネルソン『The Art of Cruelty』

毎日新たに、地獄がやってくる。運が良ければ、朝、昼、夜と、何かおぞましいものを突きつけられる。そんな暴力は、ほとんどの場合、予告や同意なくもたらされる。驚き以外の何ものでもない。アートもナイフやハンマーを振りかざす。衝撃を受けることで読者や観衆は現実に対する理解を深められると、数多くのアーティストや批評家は長いあいだ信じてきた。だが、打ちのめされることで、僕たちは何を得るのだろうか?現実から目をそむけることで、何を学ぶのだろうか?

マギー・ネルソン(Maggie Nelson)は、1冊の本にできるくらい長いアート評論『The Art of Cruelty』で、そんな疑問も提示している。この種の著作を読む人々のあいだで、過去2~3年、ネルソンの人気は高まってきた。大抵は、ロマンスの喪失とブルーという色に関するユニークな思索を綴った『Bluets』を読んで、ファンになる。広く愛読されるようになった結果、当然、反動も出てきた。奇妙な恋愛関係と出産という個人的な過去を記録した回顧録『The Argonauts(邦題:アルゴノーツ)』は、批判の流れ弾を受けたくちだ。そうした声は、彼女の本は結局それほどラディカルではないし、微妙なニュアンスを持たせようと頑張ってはいるが、その他大勢の白人と同じく、苛立たしい盲点がある、などと批判する。

賛否両論が飛び交う中に、『The Art of Cruelty』はある。貪欲な好奇心、ジャンルにとらわれない欲求、あくまで一人称としての視点に貫かれたこの評論は、『Bluets』にまったく引けを取らないと僕は思う。これがネルソンの持ち味であり、奇妙な特異性と矛盾こそネルソンに他ならない。若き日に初めてネルソンを読んだ評論家としては、カラ・ウォーカー(Kara Walker)から、シルヴィア・プラス(Sylvia Plath)やナオ・ブスタマンテ(Nao Bustamante)、カレン・フィンリー(Karen Finley)まで、ネルソンが非常に幅広い対象を自在に考察していくことに、特に自由を感じた。僕が大切にする手本、 真似ることはできないが、それでも自分もそうだと思いたい、そんな手本だ。

ロベルト・ボラーニョ『The Savage Detectives』

とどのつまり、文学は意味と説得力を持ちうると同時に、極めて無益かつ難解でもありえるということだ。このことを、ロベルト・ボラーニョ(Roberto Bolaño)は、すさまじいエネルギーを注いで理解してみせた。パラドックスで膨らんだ風船が惨めに萎んでゆく…それが『The Savage Detectives(邦題:野生の探偵たち)』の悲しい本質だ。初版は1998年にスペイン語で出版された。2007年4月に英語訳が出版されると、チリに生まれながら長年国外での生活を余儀なくされたやつれた面持ちの作家は、熱烈な信奉者を得て、一躍文学界の主流に乗った。没後、ほぼ4年が経っていた。

アートに対する信念を絞り取っていく世界を、もっと愉快に、もっと野心的に、もっと悲しく描いた小説があったとしても、僕はまだお目にかかったことがない。読み始めてすぐは、そんな深さはまったく予見できない。ダイナマイトを目にしながら、それがダイナマイトだと分かっていないのと同じだ。最初は、滑らかに進行する緊密なストーリーを予想する。舞台は1975年のメキシコシティ。語り手のファン・ガルシア・マデーロは、詩人志望で不良志望。そんな厄介な欲求に応えるのは、アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマという二人組が率いる前衛詩人グループ「はらわたリアリズム」だ。ちなみに、ベラーノとリマは、ボラーニョと友人のマリオ・サンティアゴ(Mario Santiago)のペルソナである。さて、マデーロたちは、ポン引きに追いかけられる羽目になって砂漠へ逃げ、伝説の女流詩人の足取りを追っていく。この展開で、典型的な起承転結を辿ると思っていたストーリーの導火線に火がつく。そして、爆弾は小説もろとも爆発する。マデーロが第一人称で語る第一部は、第二部でその他の語り手に400ページを譲る。まるで、爆発後の数十年にかけて、爆破された破片が、ゆっくりと地上へ降り注いでくるようだ。青春のエネルギーと信念は失望に終わり、夢は断たれ、友人たちは互いに口もきかなくなる。偶然は、有益な散文以上に、人生の多くを要求するのだ。

『ego trip's Book of Rap Lists』

『ego trip’s Book of Rap Lists』は、おばあちゃんの家の屋根裏部屋に匹敵する。ただし、ヒップホップの歴史にとって、の話だ。表紙から想像がつくように、短命に終わったラップ専門誌の記事を抄録した本書には、ほんの一時期のことや些細なことを含め、ヒップホップ関係のあらゆる知識が詰め込まれている。手あたり次第のリストは、有名な会場、サンプル、モブ・ディープ(Mobb Deep)の未発表曲、オッパイを歌った歌詞、ロサンゼルスの偉大なラジオ局KDAYのプログラム ディレクターだったグレッグ・マック(Greg Mack)の話、等々の記録だ。僕は、13か14の頃、ピッツバーグ郊外にあった大型書店チェーン「ボーダーズ」で初めてこの本を買った。そこから、ヒップホップについて考えるようになり、 – ここが重要なところだが – 人種は越えがたい境界だと考えるようになった。最初のページを開く前から、斜に構えた人種の壁に直面する。裏表紙には「『ego trip’s Book of Rap Lists』は人種差別より広く行き渡っている! これには、黒人も白人も意見が一致」と書かれ、その下に評論家や有名人の御託が並んでいる。「人種」と題された章もある。歌詞の内容だけをみても、ヒップホップ ファンを自認する白人は、その意味するところを真剣に考えざるを得ないはずだ。この本と、ヒップホップとオルタナのウェブサイト「Okayplayer」のフォーラムが僕にとっての主な手引書だったこともあったせいか、考えれば考えるほど、理解不能だった。

そんな僕が、いつの日か、金鉱に匹敵するマガジンを作っていたグループに会えるとは、夢にも思わなかった。必ずしも一緒に仕事をしたと言うわけではないが、今では、全員 – サーシャ・ジェンキンス(Sacha Jenkins)、エリオット・ウィルソン(Elliott Wilson)、チェアマン・マオ(Chairman Mao)、ガブリエル・アルバレス(Gabriel Alvarez)、ブレント・ロリンズ(Brent Rollins) – と会ったりメールをやり取りしたことがある。ブレントとは、写真撮影の前に、ロスの街をドライブしながら話を聞いた。映画『Boyz N the Hood』のロゴをデザインした人物、『Book of Rap Lists』の全部をデザインした人物が、ハリウッド サインの見える通りを走りながら、エアコンのきいたセダンの中で、僕だけに話しているとは! モブ・ディープのプロディジー(Prodigy)が急遽したときは、クイーンズブリッジのキングだったMCのためにガブリエルが書いた追悼文を、僕が編集した。序文は、ノア・キャラハン=ビバー(Noah Callahan-Bever)、ロブ・ケンナー(Rob Kenner)、デイヴ・ブライ(Dave Bry、合掌)の三人に賛辞を捧げている。僕の人生でも重要な役割を演じてくれた、素晴らしいライターたちだ。13歳の僕はやがて自分がヒップホップをここまで愛するようになるとは想像もできなかったが、現にそうなった。僕たちは分断された人種ではなく、ファミリーだから。

サミュエル・R・ディレイニー『Times Square Red, Times Square Blue 』

『Times Square Red, Times Square Blue』の前半は回顧録、後半は、生産的かつ快楽に満ちた階級間の接触を、現代の資本主義形態への対抗手段として論じる。問題は、資本主義は常に、「階級間のコミュニケーションを生み出す社会の風習や、そういった風習を安定させている仕組み)を崩壊する方向」へ作用することだ。もとになっているのは、70年代から90年代にかけて、タイムズ スクエアのポルノ映画館で進行したディレイニー自身の体験。劇場には、セックス、対話、避難所を求めるゲイの男性たちがやってきた。ヴァネッサ・デル・リオ(Vanessa del Rio)を映し出す映写機の柔らかい光の中で、ディレイニーと男たちは交友を温め、ほかの場所では – 不可能とは言わないまでも – ありそうもない繋がりを持った。

前半の『Blue』では、優しく、性と欲望にたいする緩やかな分別を備えて、さまざまな出会いが語られる。男娼、正体を隠した売人、建設労働者、ドラァグ クイーン、ソーシャル ワーカー、将来を目指す学生、ホームレスのニューヨーカー、障害のあるニューヨーカー…あらゆる人種がやってきては、茶色の木椅子に腰を下ろす。長年の友人になる場合も多かった。学業や仕事の手助けをすることもあった。劇場で過ごした時間は、数多くの面でディレイニーに充足感を与え、愛情と社会と職業を豊かなものにした。ポルノ劇場で、ディレイニーは社会の一員になったのだ。

デニス・ジョンソン『Jesus' Son』

この本を挙げないことには、僕の愛する著書リストは本物とは言えない。風俗喜劇で、見え透いた目立ちたがり屋が、わかりきった過去をどうにか隠そうとすると同じだ。『Jesus' Son(邦題:ジーザス サン)』は、短編でダイレクトな語り口から、大学生の文章講座で広く使われる教材だ。ドラッグがたっぷり登場する。カレッジの最初の創作文章講座で、ジェフ・マーティン(Jeff Martin)教授が課題に出したのも、この短編集だった。僕は、ピッツバーグのフィフス アベニューに面した「パネラ ブレッド」の二人掛けテーブルに座り、1時間ほどで読み終えた。文章が脳に与える衝撃を和らげるために、しょっちゅうページから目を離したので、チェーン カフェの店内にニュー・オーダー(New Order)の「Age of Consent」が流れていたのを今でも思い出せる。途中で、ベーグルも注文した。ただのクリーム チーズを塗っただけなのに、とてつもなく甘いベーグルだった。このようにして、現在の僕が出来上がったわけである。

ジョンソンの小説は、ヘロインとストーリーの語り手 – 鉄屑回収で小銭を稼ぐ、氏名不詳のケチな負け犬 – に、奇妙な恩寵とも言うべき本質を見出す。物書きとしては、その感覚を盗用したいと思う。ところが、この本が一筋縄でいかないのはそこだ。自分にだってできるはずだ、と思う。要は、ドラッグが引き起こす事故を書いて、短編を寄せ集めて小説の体裁に整えて、中盤は思いもかけない驚きをシンプルかつ短いパラグラフで展開し、最後に渾身のパンチを一発決める。ところが、そんな思い込みが通用するほど、この本は甘くない。傑作の域に達した最初の短編「Car Crash While Hitchhiking」は、終盤で、奇妙な構成が成功を約束するツールキットだと勘違いする輩にはっきりと警告する。「おい、そこのお前たち、お前ら馬鹿は、オレが助けてくれると思ってんだろう」。ありがたいことに、自分に向けられた嘲りを人に聞かれることはない。仕方なく、僕たちは切磋琢磨に努める。

モデル着用アイテム:ジャケット(Calvin Klein 205W39NYC)

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コルソン・ホワイトヘッド『John Henry Days』

僕が足を踏み入れた – 以前の同僚が言うところの –「メディア」の仕事では、ドラッグとトイレを避けて通ることはできなかった。コルソン・ホワイトヘッドが『John Henry Days』で風刺的に描いたフリーランスの悪戦苦闘も、僕の体験に勝るとも劣らない。『John Henry Days』は、ホワイトヘッドが『ビレッジ ボイス』で記事を書いていた時代がある程度下敷きになっている。その後エディトリアル アシスタントからTV エディターへと経験を積んでいったのだが、本書が執筆されて20年足らずの間、変わったことはたくさんある。だが、変わらなかったこともたくさんある。小説の冒頭で空港で架空請求するために領収書を拾い集める場面から、内容を盛ったPR記事を4パターンに分けた簡潔な分析に至るまで、メディア業界の激変と過剰なテクノロジーによる精神の腐敗が進行した歳月を経てもなお、『John Henry Days』は出版当時から少しも色褪せていない。もっとも、業界人は例外なく、確実に以前より劣化しているが…。

主人公のJ・サッターは、先延ばし、イベント会場に仮設された無料バー、「特上リブ ロースの保温用ランプが発する慈愛に満ちた深紅の光」に抵抗できないライターだ。三流映画のプレミアや新書発表パーティーの常連でもある。だから、そんな生活習慣を維持できる唯一の職業として、ポップ カルチャーを取材する。一番新しい依頼は、伝説の鉄道工夫「ジョン・ヘンリー」を記念して発行される切手のイベントを取材すること。そこで本拠地のブルックリンはフォート グリースを後に、ウェストヴァージニア州タルコットへ向かったところ、強烈なアイロニーを体験することになる。

出版当時31歳だったホワイトヘッドは、フォークソングやブロードウェーをはじめ、歴史を通じてさまざまな場所で蘇ったジョン・ヘンリーの「実像」とサッターのあいだを行きつ戻りつしながら、物語を進める。書評の多くは、後年の『Underground Railroad(邦題:地下鉄道)』で描かれたテーマの先駆けとして、ヘンリー神話の復活に注目したが、最大のインパクトを感じさせるのは、懐の痛まない物見遊山と迫りくる締め切りをめぐるサッターの遍歴だ。1ワードにつき2ドルのレートが今だって高値の花であることを考慮しても、締め切りに遅れた場合の周到な作戦、ワインを買いにひとっ走りする様子、ヘビーななヤク中たちの描写は完璧だ。

デイビット・ウォジャローウィッチュ『Close to the Knives』

怒りは、本の最初から最後まで持ち続けるのがもっとも難しいエモーションのひとつに違いない。書き始める度に怒りの燠火を燃え立たせるという問題では、どうもないらしい。常に激怒した状態で、生きていなければならない。1988年にエイズの診断を下されたデイビット・ウォジャローウィッチュ(David Wojnarowicz)は、回想録を執筆した頃、もう死にかけていた。最後の数年は、多様なメディアでアートを創造し、執筆し、恋人との関係を大切にし、あるいは関係を清算した。彼や彼の仲間の作品に対して打ち切りや検閲を画策した、右翼の同性愛嫌悪者と闘った。死が訪れる1年前の1991年、37歳のときに出版された『Close to the Knives』は、残酷な子供時代の断片を幻覚のように追体験する回想録だ。核家族の中で虐待を受けていたウォジャローウィッチュは、ニュージャージーの家を捨て、路上で暮らし始める。未成年の少年を買う客に売春して、マンハッタンで生き延びた。

『Close to the Knives』は怒りに貫かれた本だが、ウォジャローウィッチュの異常な人生を駆り立てた、怒り以外のものが無視されているわけではない。2013年に発表されたシンシア・カー(Cynthia Carr)による伝記『Fire in the Belly: The Life and Times of David Wojnarowicz』には、80年代のイースト ビレッジで繰り広げられた破壊的なカルチャーの本質が語られている。ビート運動に触発されて、ハドソン川の今にも崩れそうな桟橋の上や西海岸へ向かうロードトリップ途上の休憩所で体験したセックスをウォジャローウィッチュが回想するくだりは、掛け値なしにホットだ。薄汚いニューヨーク シティには、驚きと活力がある。「その気になった夜には、ここからサウス ストリートまでの全部の公衆電話のボックスの全部のガラスのパネルが溶け出して、光となって降り注ぐのだった。そんな夜を過ごした後は、捨てられた車や、ボイラールームや、どこかのビルの屋上や、孤独をかこつドラァグ クイーンのねぐらに転がり込んで、ぐっすり眠った」。この本には、間違くなく、息吹がある。

だがやはり、一番真に迫るのはエイズの描写だ。「こいつがオレのまわり、友人や他人のあいだを動き回るのを、オレはじっと見ている。姿は見えず、抽象的で、恐ろしいもの。点と点を結んでいけば形を現す地獄みたいだが、地獄ほど単純明快ではないもの」。絶望に襲われたときの記述には、忍耐をうながす貴重な教訓があり、エイズ撲滅運動や文化闘争の著作にふさわしいアクションがある。

エレン・ウィリス『Out of the Vinyl Deeps 』

2011年4月の、ある土曜日の午前10時。場所はワシントン スクエア パークのオーディトリアム。エレン・ウィリス(Ellen Willis)の一生と業績を振り返って敬意を表するために、家族、友人、ファン、ウィリスのようになりたいと切望するライターたちが一堂に会した。ウィリスは、1968年から1975年にかけて活躍した『ニューヨーカー』で最初のポピュラー音楽評論家だ。 ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ウッドストック(Woodstock)、ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)、愛して止まないヴェルヴェット・アンダーグラウンド(Velvet Underground)について書いたユニークなエッセーには、どれも、鋭敏な政治意識と一切の慣れ合いに対する抵抗が表れている。音楽に関する執筆だけを集めた『Out of the Vinyl Deeps』は、当時唯一のウィリス全集で、奇しくもシンポジウムと時を同じくして出版された。ウィリスのレガシーが息を吹き返すことができたのは、娘であるノナ・ウィリス・アロノウィッツ(Nona Willis Aronowitz)の尽力の賜物だ。その後の度重なる再版は、批評、フェミニズム、セックス、ポピュラー音楽 – これ以上、将来を予見した組み合わせがあり得たろうか? – の可能性に対して、ウィリスが数多くのライターを開眼できることの証明にほかならない。より広範な執筆を集めた『The Essential Ellen Willis』は3年後に出版された。だが、ウィリスの写真が掲載されているのは1冊だけ。1980年にグリニッチ ビレッジのアパートの鏡の前で踊っている姿だが、無造作なカーリーヘアをもってしても、巨大なヘッドフォンは隠しきれない。目は閉じられ、音の世界に陶酔している。2011年のオーディトリアム会場にいた僕は、当時、「音楽ジャーナリスト」の「キャリア」をスタートして4か月そこそこ。右も左もわからない新米だった。正直に言うと、一番感激したのは、今も尊敬するアレックス・ロス(Alex Ross)とロバート・クリストガウ(Robert Christgau)の姿を拝めたことだった。だが、シンポジウムのチラシには、ざっとみただけでもアン・パワーズ(Ann Powers)、ダフネ・ブルックス(Daphne Brooks)、ジョーン・モーガン(Joan Morgan)といった女性たちの名前があったのだから、僕の未熟さ加減がわかろうというものだ。数多くのライターがそうであったように、僕もエレン・ウィリスに救われた。不安、性の快感、生殖に関する権利、ホワイト フェミニズムへの疑念、女性蔑視アートに立ち向かって主旨を貫く姿勢…ウィリスはそのすべてをやって見せた。今ウィリスがいたら、Twitterのタイムラインは炎上どころか、焼き尽くされることだろう。

Ross Scaranoはライター、エディター、『ビルボード』のエグゼクティブ エディターである

  • 文: Ross Scarano
  • 写真: Othello Grey
  • スタイリング: Romany Wiliams
  • 制作: Alexandra Zbikowski
  • 制作アシスタント: Erika Robichaud-Martel
  • 写真アシスタント: Devon Corman
  • ヘア&メイクアップ: Carole Méthot
  • モデル: Fox / Elite
  • 翻訳: Yoriko Inoue