永遠の夏に向けて
本質的な余剰に迫るリゾート コレクション考

初めて私がオールインクルーシブ リゾートに行ったとき、まだスーツケースの荷解きもしないうちに、エレベーターに乗る私の前にカメラマンが現れて、「『ガールズ・ゴーン・ワイルド』に出て見ない?」と大声で話しかけてきた。カンクンでのことだ。私は17歳で、友だちと私には保護者がついていなかった。自分がそのとき何を着ていたかは覚えていない。幸いにも、Facebookアカウントは何年も前に消してしまったので、証拠写真を探すのは容易ではないだろうが、おそらくかなりの薄着だったはずだ。
ファッション業界においてリゾート コレクションといえば、クルーズやホリデー、プレ スプリング、トラベル コレクションとしても知られ、秋冬コレクションが終わってから春夏コレクションが始まる前にプレコレクションとして発表されるラインのことだ。リゾート コレクションでは、ビーチウェアとファーといった反目するアイテムの組み合わせが見られるなど、見た目にも素材的にも、一見まとまりに欠ける。だが実際は、まとまりを欠いているどころか、むしろ、「違う」という点において統一性のあるコレクションになっている。この一体感が示唆するのは、余暇をはじめ、あらゆる余剰な要素と結びついたラグジュアリーなライフスタイルだ。
リゾート コレクションで言うところの「リゾート」は、北米の中流階級が行くような、1週間程度のカリブ海のリゾートとは、似て非なるものだ。 ファッションにおけるリゾートは、富とファンタジーを示しているが、実際のオールインクルーシブ リゾートが意味するのは、むしろ、ジャマイカ・キンケイド(Jamaica Kincaid)が長編エッセイで「小さな場所」と表現した、醜悪で空っぽの観光に近い。アメリカ人の作家で画家のエリス・アッシャー(Elise Asher)は、1948年の詩 「Ocean Resort」の中でバカンスの栄華について書いている。そこには花やカモメ、太陽、砂浜、そして夜明けといったイメージがあちらこちらに現れる。だが、2回目以降に読み直すと、太陽の光がギラギラと輝きだし、突然、脈略もなくジーン・リース(Jean Rhys)の小説が思い起こされる。「論理が放つ幻光」、「使われることがなくなった祖父の時計」、 「腕のようなつる草が頭の中で対になる」。バカンスの必要性を感じるには、孤独、不安、そして絶望が存在しなくてはならない。そして、こうしたものが、私たちを完全に破滅させる一歩手前の状態が、私たちに休暇を求めさせるのだ。
「あまりにたくさんの犬がいて…人がいて…友人たちがいて…笑っている子供たちがいて…外国のアクセントが聞こえてきて…歌とダンスがあって… 氷がカランと音を立て…あまりに多くの色に溢れていた」— リリー・ピュリッツァー(Lilly Pulitzer)の葬儀での息子ピーター・ピュリッツァー(Peter Pulitzer)のスピーチより
気晴らしはどんな状況でも可能だ。満足であろうが、不安であろうが、家にいようが、旅先であろうが、雪が降ろうが、日が照っていようが。「リゾート」という制限があることから、リゾートコレクションは、典型的にバカンスのための服やビーチコートやフロッピーハット、スパのジャグジー風呂で着るためのビキニなどのアイテムを指す。言い換えれば、「リゾート用」の服は十分なお金がある女性がターゲットであり、彼女たちが欧米の冬の数ヶ月を旅行先で過ごすための服である。そしてその典型的な旅行先が、当たり前と言えば当たり前だが、リゾート地だということだ。ハイファッションは、はなから大部分の人にはとても手が出ない代物なのだが、リゾートコレクションは、環境破壊を防ぐといった大義の下にではなく、セルフケアと称して、自分をとりまく環境を変えられると謳うことで、この違いを改めて強調する。世界のどこかは常に夏、というわけである。ジャック・デリダ(Jacques Derrida) の脱構築主義に関する著作を受けて、アメリカの文学批評家のジョナサン・カラー(Jonathan Culler)は、この「代補」という哲学的概念を「本質的な余剰、それ自体で完成しているものに加えられたもの」と見る。これに習えば、実はリゾートは余分なものなどではなく、過不足なく、必要なものということになる。
最大限までやることと、十分にはやらないことの間で、今、コレクションに変化が起きつつある。リゾート コレクションには前年のコレクションからの一貫性がない。この点をうまく利用して、Célineは余暇のもつ複数の意味を総括し、楽しさや休日よりも、復活や心機一転の姿勢に焦点を当て、仕事と遊びが絡まり合うような世界観でそれを表現した。ヘルマン・ロールシャッハ(Hermann Rorschach)のテストのような、タイダイ染めのオーバーサイズなボタンアップ シャツに、喪服のベールを思わせる黒のレースが部分的に入った揃いのスカート。ひと目見て、これこそ私の夢のパワースーツだと思った。全体を占める色合いは、蟠桃の白い果実を思わせる。他には、光沢のあるスリップドレスや、映画『あの頃ペニー・レインと』のペニー・レインが好きそうなカラーサングラス、小意気なレオタード、カナダの冬でもいけそうな毛足の長いシアリング コート、オフィスで着るようなオーバーサイズのスーツなどが並んだ。イギリスのファッションデザイナー、フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)が去年発表した時点で、夜に着るランジェリーが昼の仕事にまでずっと使えるようになることは明らかだった。これは夜のパワーのミニマリズムであり、典型的なバカンス ウェアに求められる「普段服からのちょっとした逸脱」とは一線を画す。


Marni、Balenciaga、Isabel Marant、Alexander McQueenなど、他の2018年のコレクションでは、最近のリゾート コレクションでは定番になっているフラットシューズに合わせたスタイルが見られた。2年前の2016年の5月の第1週に、Chanelはキューバの首都ハバナでファッション ショーを行った。カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)の指揮の下、3段のチュールのスカートや、ブローチをあしらった太めのタイ、スタンダードな中折れ帽、小さなハンドバッグ、ウォッシュ加工のジーンズがリゾート ファッションとして登場した。60年近く前、リゾート ファッションはこれほど多様な要素を含むものではなく、共産主義の支配もそれほど魅力的には見えなかった。実際、リゾートという概念は、ひとりの女性が作った無謀なまでに楽観的なブランド、Lilly Pulitzerが大胆に具現化したものだった。彼女のデザインは、ブランドのウェブサイトにあるように、「誰が何と言おうとリリー」らしい。明るい色、実用的なオープントゥの靴、爽やかな風が通るようになったスリット、ミモザの染みも隠れるような軽やかな柄、シフト ドレスによって定義される幸福など、リゾート階級にとっての抽象表現主義ともいえる。典型的なアメリカのリゾート ファッションをリードした、社交界の有名人でありファッション デザイナーでもあるピュリッツァーは、フロリダのパームビーチの自宅で亡くなった。パームビーチは、ヘンリー・フラグラー(Henry Flagler)が所有するロイヤル ポインシアナやブレーカーズといった豪華リゾートホテルの建設によって、19世紀後半の金ぴか時代にできた別荘地だ。リリー・ピュリッツァーのカラフルでハッピーなデザインには、パームビーチがそうであるように、1年を通して、リゾートシーズンしか存在しない。
子どもの頃、飛行機か車で23時間かけて、カナダのトロントからフロリダのフォートローダーデールまで行き、そこからチャーター機でバハマ諸島のクルックド島という小さな島まで行ったものだった。それが我が家の家族旅行だった。太陽、砂浜、そして自前のヤドカリレース。リゾート ホテルには滞在しなかったが、だからと言って、リゾートのロジックには当てはまらなかったわけではない。あるとき、家族の知り合いのボートで魚釣りとシュノーケリングに出かけたとき、偶然、予想外の嵐に遭遇したことがあった。大人の男たちはCB無線を取り出してきて、少しすると知り合いが以前働いていたことのあるいちばん近くのシェルターへと向かうことになった。それは、今まで見たこともないような巨大なヨットだった。後になって、それがピュリッツァーのヨットだと聞かされた。従兄弟と私ははしごをよじ登った。私たちは裾が膝まであるようなメンズのTシャツを着ており、髪の毛は一日中海水に晒されていたせいで絡まりあっていた。私たちの体は、生のマグロのような、焼いたザリガニのような、皿の代わりに使った大きな葉のような、コンチサラダの材料、すなわち玉ねぎとライムとスコッチボネットの唐辛子のような匂いがしていた。それなのに、このピュリッツァーの女の子たちの清潔だったこと。映画『ヴァージン・スーサイズ』のリスボン家の姉妹のような髪の毛に、かつて誰もが持っていた折りたたみ式携帯電話のパチンと閉じる音のようにクリアな肌。大海の真っ只中で、人里離れた島々に囲まれて、人々の家には固定電話も引かれておらず、電気さえ通っていないような場所にいるにも関わらずだ。そしてそれぞれが自分の携帯電話を持っていた! 彼女たちは口をきかなかった。私たちに対しても、お互い同士でも。
語源的には、「リゾート(resort)」という名詞は、フランス語の、資源や助け、援助、または、改善法といった意味の単語からきている。「resort」における「re」は、フランス語の「去る」や「外出する」という意味の動詞「sortir」の反復性を表している。リゾート地は、また再び戻るべき場所であり、おそらくは、リリー・ピュリッツァーのようにそこで最後を迎えるような場所なのだろう。ピュリッツァーが亡くなったパームビーチから、大西洋に沿って南に1時間ほど車を走らせるとマイアミに至る。 ここはリゾートの本拠地であるだけでなく、他にも色々なことがある。マイアミを舞台にした1985年の映画『マイアミ・ホットリゾート』は、ジャックとベンというふたりの白人の若者を描いた物語だ。あるいは、本名のジョニー(・デップ)とロブ(・モロー)の物語といった方がわかりやすいかもしれない。連休中やってきたふたりは、女の子を物色している。デップの初主演作の出だしの場面では、ビキニ姿のお尻をひとつひとつ追いながら、プールサイドの様子が、端から端までゆっくりと映される。女の子たちは健康的だ。つまり、笑顔で、日焼けして、大抵が白人であることを意味する。彼女たちはVカットのビキニを着て、パイナップルをくり抜いて作った器からドリンクを飲んでいる。パイナップルの器はパーマをあてた彼女たちの頭ほどの大きさの花が飾られている。カメラがズームアウトして遠景を映しすと、そこには海が広がり、ヤシの木が並び、きれいに刈り込まれた芝生が広がっている。10人かそこらの集団が、バップ風の振り付けのダンスを踊っている。ジャックが口を開き「ほら、ここが誰もが来たがる場所だ」と言うと、友人のベンが「夢みたいだ」と答える。確かに、私が頭の中ででっち上げたフロイトも、リゾートコレクションとは、本来なら耐え難いような願いが成就したものなのだと囁いている。
Tiana Reidはライターであり、コロンビア大学の博士号取得候補者。また『The New Inquiry』の編集者も務める
- 文: Tiana Reid