Twitterで紡ぐ次世代の偉大なブラック ファッション誌

ファッション史の専門家、シェルビー・アイビー・クリスティが手掛ける記憶の仕事

  • インタビュー: Melvin Backman
  • アートワーク: Megan Tatem

ここ2年半、毎日のようにシェルビー・アイビー・クリスティ(Shelby Ivey Christie)は、朝起きて通勤の地下鉄の車内でファッション史に関するツイートをいくつか下書きし、それらを送信してから、会社のタイムレコーダーを押してマーケティングの仕事に取り掛かる。ノートパソコンにスマホをつなぐと、今や39,000人を超え、さらに増え続けるフォロワー勢のコロスがそこにある。彼女がツイートで目指すのは、ある種の進行形のアーカイブ、クラウドから集める記憶の運用だ。シェルビーはファッション、黒人、歴史、そしてファッション界で黒人が築いてきた歴史について投稿する。フォクシー・ブラウン(Foxy Brown)がガリアーノ(Galliano)のミューズだったとか、『セックス アンド ザ シティ ザ ムービー』のオープニングを飾ったキャリー・ブラッドショーの巨大な花のアップリケ付きドレスは当初はホイットニー・ヒューストン(Whitney Houston)の衣装だったとか、WilliWearのような初期のストリートウェア ブランドを足掛かりにキャリアを開花させた高級ブランドの大物たちは「めっちゃいっぱい」いるとか。彼女は自分だけのブラック ファッション誌を、普段着の言葉でスレッドごとに紡いでいる。

ファッションへの好奇心は、ファッションを愛する多くの人々と同じく、両親を通じて培われた。母親が購読していた『Essence』や『Ebony』といった雑誌を読みふけり、父が決まって観ていた映画黄金期の作品をお相伴した。「忘れられないのは『ミルドレッド・ピアース』。40年代のいろんな美しい布やシルクや羽毛なんかに、とにかく夢中になった」

歴史好きの片鱗は昔からあった。たとえばノースカロライナ州立農業技術大学の1年生だった頃には、ボーイフレンドが専攻の歴史研究について熱く語るのを聞くうちに、彼女はファッション ビジネスの専攻を―そして大学そのものを―辞めてしまい、カロライナ ファッション ウィークで学べる知識を貪欲に吸収することにした。ニューヨーク、デンバー、シャーロットを行き来しながら育った彼女の語り口には、消えずに残った南部訛りがふんわりと漂う。それはまるで手作りビスケットの仕上げにひと刷毛塗るバターミルクのようだ。

カロライナ ファッション ウィークを起点に、彼女はファッション界の出版分野にもぐりこんだ。まず『W』誌と『InStyle』誌でインターンをしてから、マインドシェア社のマーケティング、ついで『Vogue』で働き、現在は美容系の大企業に在籍している。今はニューヨーク大学の服飾学修士号取得を目指して学業に復帰し、ファッションにおける黒人の貢献の記録を残すことにも取り組んでいる。授業はリモートで行われるので、資料の布の扱い方を学んだり、ミニ ファッション 展示会のキュレーションを行ったりするのも、彼女が「Zoomばっかり」と言う通り、Zoom頼りだ。今回、僕らは彼女が果たそうとするミッションについて電話で語り合った。僕はブルックリン、彼女はノースカロライナにいて、そこでパンデミックを乗り切ろうとしている。1年かそこらすれば彼女は学位をとり、何であれ次の道に進むだろう。キュレーター、コスチューム デザイン、それとも本の執筆だろうか。だが今のところは、Twitterがある。

メルビン・バックマン(Melvin Backman)

シェルビー・アイビー・クリスティ(Shelby Ivey Christie)

メルビン・バックマン:「ファッション」という言葉は君にとってどんな意味を持ってる?

シェルビー・アイビー・クリスティ:私にとって「ファッション」はファッション業界を意味するわ。私の専門分野にはいろんな分類があって、実際の服について話すときはコスチュームとかドレスといった言葉を使う。ファッションはビジネスに関連する言葉ね。

なぜファッションについてそう考えるようになったのかな? そっちの道に進んだきっかけは?

単に、働いてたからだと思う。何年もファッション界の出版の仕事、というか、言ってしまえばビジネス面のマーケティングの仕事をしてきたから。機械を動かす車輪のスポークの1本になると、内側からものが見える。その本当の姿がわかるの。

面白いのはさ、アメリカではみんな、ニューヨークこそファッション界の中心だと思ってる。デザイナーたちが拠点をおいてたりするのは、みんなニューヨークだ。でもノースカロライナみたいな場所も実は大きな役割を持ってる。コットンだってそうだし、服の縫製工場とかもね。Brooks Brothersは、以前はノースカロライナで縫製をしてた。White Oakデニムも、Vanity Fairも、North FaceやVansも。ところで、子どもの頃のファッションとの出会いを教えてくれない?

だいたい、テレビとか映画の衣装から入ったかな。今でもそういうのはすごく好き。あとは雑誌。黒人の家庭で黒人の母親に育てられたら、当然『Essence』は読むでしょ。もうひとつのほうのエッセンスね。あと、『Ebony』なんかが身近にあるの。最新号が届くと、ママがその辺に置きっぱなしにしてるのをこっそり読んで、自分と同じ黒人の美しい女性たちの写真を思う存分眺めたり。

父はほんとにすごい映画マニアで、ふたりで過ごす時間といったら、たいていテレビか映画を観てた。私にとって、そういう映画を観る時間の大きな楽しみは服だった。特に歴史物のコスチュームを見て、「へえ、この時代はこんな格好をしてたんだ」なんて言ったりできるからね。「何でこういう服を着てたの?」「何でできてるの?」とか。

でもノースカロライナについていえば、私は南部人なの。南部人であることに誇りを持ってる。ここ南部にいるだけで、南部人で黒人であることには、侵すべからざる何かがあるのよ。私たちのスタイルやファッションやトレンドの多くは、白人のまなざしが向けられていないという点で、今もまだその神聖さを保ってる。私が記録するときは、華々しい瞬間、つまりメインストリームのカルチャーやポップ カルチャーで認められる華やかなファッションの話題だけに偏らないように気を付けてるわ。つまり、ラップのクランク ミュージックが南部でどう生まれたかとか、スナップ ミュージックとかについて語るわけ。私たちみんな、スポンジボブのパジャマを着て、あのマンガのかばんを持ってたとかね。ノースカロライナで育ってきた私に染みついてるのはそういう瞬間よ。

ロー ファッションって考え方がある。つまり、地元の人たちの服装だ。でも今の君はどっちかというとハイファッションの文脈に身を置いてる。そうなったいきさつは?

『W』の仕事とか、インターンの仕事はほとんど、大学から離れてた時期にやってたの。ファッション専攻で入学して、当然だけど家族はみんな、私をわが家のおしゃれ番長だと思ってた。ファッションはもちろん大好き。専攻を歴史に変えようとしたときは、両親には「やめておきなさい、大学に入ってまだ1年目で、混乱してるだけなんだから。好きで得意なものを続けるのが一番だよ」って言われた。すごく迷ったわ。大学を中退したのはほんとにひどい成績をとった後。辞めたときに「よし、もっとファッションのほうに力を入れてみよう」って思ったの。

この辺りでファッションっていったら、ほんとの話、ニュース番組でスタイルのコーナーをやる人しかいなかったから、伝手をたどってその女性を探し出した。ターシャ・ストロング(Tasha Strong)っていう人で、親切に私を使ってくれたの。彼女、ブリジット・ウエスト(Bridgette West)っていう別の黒人女性と知り合いで―黒人女性万歳ってとこね―、この人が『Charlotte Style』という雑誌をやってて。今は『Carolina Style』に変わったけどね。アシスタントをやりたい、インターンとして採用してほしいとブリジットに頼んだら、雑誌に記事を書かせてくれた。そういうすごくローカルなところでファッションの仕事の土台を築いてきたおかげで、もっと大きな、それこそハイ ファッションのポジションに移るチャンスが来たときにも、履歴書に書くことには困らなかったわ。

それでニューヨークに出て、ハイ ファッションの世界に迎えられたわけか。『W』でインターンをやってたけど、たしかいったん学校に戻って、卒業してるよね。そのあと、またニューヨークに戻って、『InStyle』で働き、『Vogue』に移った。こういう環境で働いたことは、どういう点で君を記憶を残す仕事に向かわせたんだろう。

向かわせたとも、関係なかったとも言えるかな。今考えると、その経験がモチベーションになったのは外に出たあとだったから。『Vogue』で働いてた頃の経験について、私はかなりはっきり発言してきたけど、あそこは黒人として、黒人女性として生きていくのに楽な環境じゃないのよ。だから、考えてみれば、その頃のことを振り返って、日常的に「白人性」に関わっていた自分の経験を理解できるようになったのだと思う。チームには自分とせいぜいもうひとりくらいしか黒人がいないとか、編集はマーケティングに左右されて、マーケティングの決定はクライアント次第だとか、権力の駆け引きを目のあたりにするとか、この会議で自分がx、y、zについて説明しなければ、それはまったく考慮されないに決まってるとか、そういうなかでの経験をね。

あそこでわかったのは、白人は自分たちの白人性のなかで何不自由なく生きていけるんだってこと。黒人という存在に限らず、自分たちの白人性の外にあるどんなものについても、共存したり、存在を認めたり、学んだりする必要がないの。でも私たちにはそんな特権はない。私たちは生きて、働いて、人間関係を維持するために、自分たちの文化と彼らの文化を知らなくちゃいけない。そのことが私の動機に火をつけたのね。「よし、こういうのはたぶん本当に重要なことだから、記録するべきだ」って。

ツイートで目指すのは、進行形のアーカイブ、クラウドから集める記憶の運用だ

君の記録の仕事は誰のためだと思う? 他の黒人たちにこうしたものの成り立ちを示すため? それとも、ブラック コミュニティの外の人々にきちんと学んでもらう作戦のひとつ?

ふたつの面があると思う。アーカイブに関しては、私がやってることで白人の教育が目的であるものは全然ない。少なくとも明確にそれが目的のものはね。「白人たちよ、今日はこれを学びなさい。あんたらの間違いを暴いてやるわ、ざまあみろ!」なんてつもりで始めたんじゃないから。そういうのは全然私のやり方じゃない。むしろ「みんなが知るべき事実はこれです」って感じ。いろんなことを記録するのは歴史を追跡するためね。今から30年後に誰かが過去を振り返るときのためのもの。あるいはこういうツイートがアメリカ議会図書館に入れば、そこに残るからよ。私が学位論文や、論文や、大学のいろんな枠組みのなかでやっていることはどれも学問である以上、雑誌に投稿したり、アカデミックな文章として発表できる。ただ大学院みたいな場所では、ある決まったタイプの史料を使う必要がある。いろんな日記とか―、文字で書かれていて具体的なもの。史料に結びつかなければ、どんなものも単なる仮説だから。

あと、学術的な文章を書いたり、論文を投稿したりすると、他の学者たちの前で論文について発表する機会が与えられることもある。それで学者たちが―、たとえば服飾史の専門家や教授、服飾やコスチューム、ファッションの講義を持っている人たちがその発表を聞いて、「よし、デザイナーについて授業するとき、オラ・ハドソン(Ola Hudson)を取り上げよう」と言ってくれることはあり得るわね。

そういう歴史が縦割りで孤立したままになっていると、ファッション界や文化としてのファッションにどんな悪影響があるのかな?

ストーリーの全体像が見えなくなるのが駄目なのよ。『風と共に去りぬ』とそのファッションについて取り上げた記事とかテレビ番組とか、そういうもろもろを見たことあるでしょう。正直言って、衣装について話すなら、あの映画でいちばん優れていたのは帽子なんだけど、それがミルドレッド・ブラント(Mildred Blount)のデザインだとする史料がほとんど見つからない。私がこういうことを毎日やろう、やらなきゃと思う理由はまさにそういうことなの。40年代や50年代のインタビューを振り返って、誰がそういうプロジェクトに関わっていたかを見たとする。もしそこに黒人の婦人帽デザイナーについての言及がなかったら、彼女を歴史の登場人物にすべきだとわからないじゃない? そこに重力が働くわけ。ファッションの歴史が変容することの重みがね。人によっては、「落ち着けよ、たかが服じゃないか」って言うでしょうけど、私には本当に大切だから。歴史は、ぼんやりしてるとひび割れの隙間からこぼれ落ちてしまう。だから、しっかりと守っていかなくちゃいけない。

ファッション界がこうであってほしいという理想のユートピアはある? 黒人や、そのアイデアや、黒人がファッションに求めるものがきちんと考慮されるファッション界、といったような。

ないわね。でもそうなっていくと思ってる。ファッション界も、他の業界と密接に結びついているから。こういう服を誰が作っているか知らなくちゃ。その人たちがどんなふうに報酬を受けているのか。いくら受け取っているか。そこから労働法につながる。誰がライセンスを所有していて、そこから利益を得るのが誰かも知る必要がある。コットンをただの布と見るのか。コットンに関する例の議論を改めて始めるべきなのか。私たちは償いを求めるべきなのか。私にとってユートピアを想像できる段階までたどり着いてないものは山ほどあるわ。今出てる、いろんな雑誌の9月号の表紙もそう。こういう雑誌はある種の和解の努力をしてるんだけど、正直、私の目にはすごく不自然だし、表面的に映る。形だけの努力では駄目なの。ケリー・ジェームス・マーシャル(Kerry James Marshall)を起用して、そこから発せられるメッセージは何か、ってこと。彼は素晴らしいアーティストだし、私は彼の作品は大好きで、大ファンではあるけどね。『Vogue』の表紙を飾る黒人女性が、リアーナ(Rihanna)やミシェル・オバマ(Michelle Obama)、ビヨンセ(Beyoncé)、それにセリーナ・ウィリアムズ(Serena Williams)だけだったら、それは黒人に対して何を語っているのか。雑誌の表紙に載るにはビヨンセにならなくちゃいけないわけ? ケリー・ジェームス・マーシャルになれって? 尊敬されるにはアンジェラ・デイヴィス(Angela Davis)みたいな学者にならなきゃ駄目なの? だから、私にはユートピアの像が描けない。でも、それは私が頭を絞って考えるべきものだとも思わない。あるいは黒人がね。

そういう理想の世界を阻む最大の壁は、そこから外れるかもしれない人たちに与えられるべき資源の所有の問題だという気がする。資源の所有という概念ですらそう。もしかしたら、資源は分配中かもしれないけど、分配のスピードが遅すぎたり、分配が公平でなかったりする。君がLVMHやケリングみたいな大企業のCEOに向かって「こういう資源をそれを必要としてる人たちに分配するには、あなた方がすべきことはこれだ」と言えるなら、その時点で何が起こるべきだと思う? もし誰もがいろんなものを進んで分かち合わないとしたら。

わからない、漠然としてて。LVMHは小売業で、たぶん出版とかブランドやSNSなんかとは基準が違う特有の問題を抱えている。だから、すべてをひっくるめて解決する方法はこれだ、とは言いにくい。それはファッション界に関して、ファッションが一枚岩だっていう大きな思い込みがあるからよ、ほんとうは違うのに。ファッション界にも、他の業界と同じくいろんな役者がいる。たぶん、最初の一歩としては、「このビジネスを、まず役柄ごとに見るようにする必要がある」と考えるのがいいんじゃないかしら。「ファッション インフルエンサーの環境に必要なのは? デザイナー界に必要なのは? 出版分野に必要なのは? フリーランサーの環境に必要なのは? スタイリストの世界に必要なのは? メディアやマーケティング、PRは?」って。とは言っても、新型コロナウイルスの流行が終わったら、もしかするとシステムを丸ごと捨て去って、評価し直さなくちゃならなくなるかもしれない。ニューヨーク ファッション ウィークのスケジュールを見たんだけど、この期に及んでショーをやるつもりなのよ! 「どうしてわからないの? 必要もないのになんで人混みを作るわけ?」って呆れたわ。

伝統―、つまり歴史ある古くからのブランドで成功してきたものについて困るのは、変化に対してすごく抵抗があるのよね。なにしろ80年とか100年とか125年とか存在してきたわけで、新しく生まれ変わろうなんてしてないでしょ。今の地位を築いたのはイノベーションを取り入れてきたからじゃないし。新しいことはおそらくリスク、あるいはリスクにさらされる可能性だととらえられる。

でも変わる必要があることはほんとうに多い。部分の要素とか仕組みが悪ければ、システム全体だってよくなるわけがないじゃない。そして仕組みが白人優先なら、それはそもそも欠陥品よ。私たちが人種差別的で資本主義的な白人とうまくやっていれば、状況は改善すると思う? それは言わばシステムに関わるもの、話したって変わらないものでしょう。ファッション界の内輪びいきとか、富の格差とか。わからないけど。ファッション界だって、私たちが今、闘っているその他のシステムとまったく同じ。さっきも言ったけど、私たちは自分たちの車輪を回す立場にはない。白人はしっかりして、前進とは何かを理解するべきよ。でもそこに白人性が紛れ込んだら台無し。白人性が存在する限り、それは巨大な疑問符になる。

Melvin Backmanはニューヨーク、ブルックリン在住のライター兼エディター

  • インタビュー: Melvin Backman
  • アートワーク: Megan Tatem
  • 写真: Breonna T. Collier
  • メイクアップ: Kianna Sheraye
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: November 30th, 2020