スポーツウェア産業のワンマン研究開発ユニット
ベルリンにAcronymのエロルソン・ヒューを訪ねる
- 文: Robert Grunenberg
- 写真: Robert Grunenberg

2017年2月1日、ベルリン。私は、通り沿いに凍った泥の山の間を蛇行しながら、ミッテの街を大急ぎで駆けていた。Googleによれば、今日の日没は16:53。あと2時間ある。ベルリンを拠点とするパフォーマンス ウェアのブランドAcronymで、デザイナーであるカナダ人のエロルソン・ヒュー(Errolson Hugh)を撮影する時間はどうにかあるだろう。
私たちは、ミッテ地区にある彼のスタジオで落ち合う。かつて東ベルリンだったこの辺りは、現在、新興エリートのブルジョア ボヘミアン層に人気がある。さて、ロフトのようなスタジオへ足を踏み入れると、まるでギリシャ寺院の列柱のように部屋の中に点在する何百もの靴箱の山に、危うく突っ込みそうになる。「散らかっててごめん」。エロルソンは落ち着いた声で言う。「ここにある靴は全部、今夜オンラインで売りに出すんだ」。箱の中身は、Acronym Nike Air Force 1 Downtown スニーカー。Nikeと継続的に行なっているコラボレーションの最新作だ。Acronymが市場に送り出すほぼすべてのアイテムと同様、このスニーカーの人気は高く、すぐに「#超レア アイテム」になるはずだ。その夜遅く、600足のスニーカーが12分足らずで完売したことを知った。
靴箱のあいだから、後ろにある床から天井までの窓を通して、外を見る。灰色の空は、地平線のあたりが暗くなり始めている。陰鬱な光の最後の一筋をとらえようと、私たちは裏庭に飛び出す。エロルソンが手にした数着の黒いジャケットのひとつは、2002年のAcronymの初コレクションに登場したJ1A—GTをリニューアルしたバージョンだ。「クソ寒い」。思わず私が息をつめると、エロルソンは笑って答える。「僕の故郷に比べたら、こんなの何でもないよ」

カナダに生まれたエロルソンは、ここの寒さとは別次元の厳冬と向き合って育った。彼が小さい頃から空手に通じていることを知っていたので、体を暖めるために、武道の動きをいくつか見せてくれないかと頼んでみる。彼は少し考え、まわりを見渡して「ああ、いいよ」と答える。空手の稽古は、弟と一緒に始めたそうだ。それぞれ10歳と8歳だった。空手のユニフォームである空手着は、日本のパターン メイキングの非常に伝統的な一例だ。その形状は身体の動きに一切の制限を加えない。1着の洋服が身体の働きに制限を加えたり、逆に可能性を与えることを、エロルソンはその時初めて理解した。「僕は蹴りができるズボンばかり探していたから、母をイライラさせた。 蹴りさえできれば、どんなズボンでもよかった。デパートの試着室に入っては、蹴りを試してたよ」
エロルソンは、自分のコレクションを着ている。ブラックのP25-CHパンツ。まさに子供のころに夢見たパンツ、自由に動けて、アウトドアもOKで、空手の練習ができるパンツだ。強烈な下段踵刈りのほかに、空手から学んだものを尋ねると「武道は自立心を育てる。自分の判断を信じることを学ぶんだ。自分が考えている以上のことができることを、すごく現実的に、体で理解する。精神力、局面の打開。そういうことは全部、実世界で応用できることだ。特に起業家だったり、ファッションみたいなすごく競争の激しい業界の場合はね」
意図的に商品を少なくしているわけでも、高価にしているわけでもない。自分たちにできる最高のものを作ろうとしてるだけ
空手の真価を仕事上のプロセスや、デザイン、ブランドに応用したのは、それからずいぶん後のことである。中国系ジャマイカ人の両親は、建築を学ぶためにカリブ海の南国からカナダはアルバータの森林地帯へ引っ越してきた。大学を卒業後は、仕事があるところならどこへでも、カナダ中を移動して共に働いた。「僕にとって、カナダは、疎外と完璧な孤立を感じる場所だった」。エロルソンは生い立ちを語る。「子供の頃、学校で白人以外の生徒は僕と弟、たぶんもうひとりくらいアジア系の子供、あと黒人がひとり。大きくなったら、ホッケーの選手になりたいとか石油産業で働きたいっていう子ばかりだった。まったくそれだけ。デザイナーになるなんて、宇宙飛行士を目指すくらいの現実味しかなかった」
ファッションについては、誰も何も知らなかった。エロルソンは、「The Face」や「i-D」といった雑誌を1冊ずつ置いていた店を覚えている。まるで宇宙からのメッセージのようだった。「『The Face』を最初にくれたのは、ギターの先生だったと思う」。エロルソンは回想する。「あれにはぶっ飛んだよ。その後、父が1985年のクリスマスに『Interview』をくれたんだ。手描きの鉛筆画とマドンナが表紙だった。大判の新聞のような紙の雑誌でね、1日中読んでたことを覚えてるよ。だいたい1週間後には、1ページ残らず内容を覚えてたな」。インターネットもない時代、アルバータの外側で起きていること知るには、そういう珍しい雑誌だけが唯一情報を入手できる経路だった。

1989年、エロルソンは、ライヤソン工科大学に入学した。卒業はしたものの、道は平坦ではなかった。「大学からは2回も追い出されそうになったんだ。邪魔ばかりして敬意もない、ひどい学生だったから」。彼は打ち明ける。それは、人に頼らず、いつも自分が自分のボスという空手の精神性と何か関係があるのか、私は尋ねてみた。「そうだな。いつもそういうアウトサイダーの視点があった」と彼は答える。「僕のブランドもそういう姿勢なんだ」
1999年、エロルソンは、パートナーで以前のガールフレンドだった元妻のミカエラ・ザッヘンバッハー(Michaela Sachenbacher)と、Acronymを立ち上げた。Acronymは、当初から、アパレルが持つ可能性の最先端を実験した。「Acronymはコンセプト重視なんだ」。エロルソンは言う。「何かに注目して、それをコンパクトに使いやすく仕上げる。すごく複雑なものを圧縮して表現する。アパレルで僕たちがやろうとしていることは全部、それに近い」
ミカエラとエロルソンは、ともにデザイナーとしての教育を受けた。エロルソンが、ベルリン、ミラノ、東京を回りながら、スタジオでの仕事とNikeやStone Islandとのコラボレーションを行なう一方、ミカエラはブルックリンで会社の法務、製作、財務を管理している。Acronymのデザインは二人が行う。「僕が表面に出てるけど、スタイルに関してはミカエラも同じように力強い存在だ。彼女が共同経営者でなかったら、Acronymは絶対今とは違うものになるだろう」。エロルソンは言う。「彼女は、おそらく僕が人生でいちばん多くのことを学んだ人物だ。お互い18歳からの付き合いなんだよ」
Acronymをファッションブランドとして立ち上げる前、ミカエラとエロルソンはミュンヘンで広告制作会社を経営していた。活動的なスポーツウェアのデザインとアート ディレクションが主な仕事だった。顧客は、マウンテンバイクのブランドやBurtonのようなスノーボード ブランド。ふたりともその分野のテクノロジーをすぐに理解し、友達を介して軍や工業用の衣服にも出合った。そしてある時、ひとつの疑問が湧いた。「どうしてこういうものを日常着として使えないんだろうか?」。自分たちが洋服に求めるものが未だに市場には存在しないことに、ふたりは気付いた。「『すごく大変そうだし、難しいし、高くつくよ。なんでまたそんなことやりたいの?』って言われたよ。だから、Acronymは欲求不満から生まれたと言っても過言ではないんだ。『よしわかった。みんながやりたくないんだったら、僕たちがやるよ』ってことでね。最初は見向きもされなかった。5〜6年かかって、ようやく興味を持ってもらえるようになった」
Nikeと一緒に仕事をするのは、ポップ カルチャーと仕事をするのと同じこと。本当に沢山の人の歴史に深く染み込んでる
ロサンゼルス、東京、ニューヨークに住んだことがあるエロルソンは、ファッション業界とのつながりが深い。しかし何年ものあいだ、Acronymはアウトサイダー、巧妙に隠された秘密に等しかった。ファッション界のシステムから分離していたもうひとつの理由は、会社とスタジオの運営方法にある。「僕たちは業界と並行してるんだ。交差することもある」と、エロルソンは業界全般を語る。「でも、僕たちの制作過程や働き方は、大部分が他の人たちの働き方とほぼ無関係だ。それが僕たちの強みでもあるし、明らかに弱点でもある。強みは、システムのまったく外側にいるせいで、自分たちの独立したな方法を発展できること。そこから、独自のアプローチと明確な特徴が生まれる。ネガティブな点は、当然ながら、現在進行中のシステムに合わせる必要があること。システムの限界に制限されてはいないけど、システムの中にいる恩恵も受けられないということだ」
Acronymは当初から、Gore-Texのような柔らかくて軽い素材に注目した。軽量で、防水性に優れ、通気性が高く、全天候で使えるようにデザインされた薄膜素材である。Acronymの活動の多くは、魅力のない素材や冴えない素材を使って、スタイリッシュに見せる方法を探すことだ。出発点は、常に、衣服の機能性。どのデザインにも、多くの考察と細部へのこだわりが注入される。素材に対するエロルソンのアプローチには、両親から受け継いだ建築的な影響が作用している。「全体の形は、機能性とか目的への適応性、そういう広範な建築的な概念に従う。僕と弟はそういうものに囲まれて育ったから、衣類への応用はすごく自然なことだった」
Acronymのコレクションは、15作品を超えることがない。それは、ひとつひとうのデザインに、綿密なディテールがほどこされていることを示唆している。Kit-1と銘打たれた初のコレクションの制作には3年もの年月が費やされ、2002年に、120点限定のジャケット、バッグ、アクセサリーが発表された。業界はAcronymに気付き、気に入った。続く2003年秋冬コレクションは、パリのセレクト ストアColetteで販売された。

ファッション業界には、希少性を作り出すため、Acronymが意図的に商品数を限定しているという誤解がある。しかし実際のところ、Acronymの商品がこれほど少ないのは、製作が非常に難しいためだ。要求される技術基準を備えた工場を見つけるのは至難の技だと、コカコーラをグラスに注ぎながら、エロルソンは説明する。「僕たちが取り入れるものには、必ず、とても具体的な理由があるんだ。おまけに、コストがかかる。だから値段も高いんだ。意図的に商品を少なくしているわけでも、意図的に高価にしているわけでもない。ただ、自分たちにできる最高のものを作ろうとしてるだけだ。マーケティングの戦略じゃないんだよ」
2009年まで、社員はエロルソンとミカエラのふたりだけだった。自分たちで、自分たちのために仕事をすることに慣れていたから、人が訪ねてくるようになったときは驚いた。「どこで電話番号を手に入れたんだろう? なんで電話をかけてくるんだろう?」と、エロルソンは戸惑った。現在に至ってなお、そんな具合だ。広報もなければ、マーケティングもない。イベントもほとんどない。エロルソンは旅行に出ることが多いし、宣伝より仕事に集中しているから、つかまえるだけでも一苦労だ。それでも、年月を重ねるにつれて、チームは少しずつ大きくなってきた。「基本的に、雇うのは友達だ。ベルリンの迷える子供たちは、みんな最後はうちのオフィスに辿り着く、なんて冗談を言ってるくらいだよ。他の街では『クールであること』について話す。金になる商品だからね。ベルリンには、そういうコンセプトとして語られるクールが、実際にリアルに存在してるんだ。ここでは、みんなが本物のクールだ。クールになる知識じゃない。僕が住んだ街の中で、ベルリンはいちばん物質主義的じゃないことも理由だと思う。ベルリンの人間は、とにかく金に無頓着なんだ。全然気にしない。それはすごく健全なことだと思うよ」

ここ数年、ようやくAcronymの露出が増えてきた。その背景には、Acronymの美学と高機能なハイ ファッションウェアの台頭を歓迎するようになった業界の文化的転換がある。Acronymは、デザイン美学に含めるひとつのジャンルとしてテクノロジーを導入したパイオニアであり、多数のブランドが最近のシーズンで発表している既製服コレクションの素地を切り開いた。今日、従来のスポーツウェアとハイ ファッションを一体化するテクノロジーは、業界の大きなトレンドのひとつである。いわゆるアスレジャーやアクティブ ウェアやパフォーマンス ウェアと称されるものは、エクササイズにも都市生活での日常にも着られるカジュアル ウェアだ。ストリートカルチャーのパワーと同じく、フィットネスやスポーツのブームは、現代都市生活を定義する文化的パラダイムのひとつとして、過去10年でファッション業界をひっくり返してしまった。
ストリートウェアとの関係をエロルソンに尋ねると、客観的な視点を持つのが難しいと言う。なぜなら、ストリートウェア関係には知り合いがいるし、かつてBurtonスノーボードの仕事で出会った多数の人物が、現在ストリートウェアと呼ばれるスタイルを創作したから。東京では、ニゴー(Nigo)や高橋盾や藤原ヒロシに出会った。エロルソンは言う。「今当たり前のようにストリートウェアと呼んでいるものは、当時、自然発生的に始まったんだ。みんな、互いに友達で、一緒に仕事をした。コラボレーションという考えを生み出したんだよ」
単純に、完璧にフィットするズボンはなかなか見つからないってこと。探すのは大変なんだ
Acronymも、少しずつ、厳選したパートナーたちと一緒に仕事をするようになった。5年、6年と経過するうちに、何もかも自分たちでやるのは不可能だと気付いたからだ。「ひとつのブランドが業界を変えることはできない」と、エロルソンは認める。コラボレーションしたパートナーには、Acronymの成長に関わったスポーツウェアやストリートウェアの有名ブランドも名を連ねる。イタリアのブランドStone Islandは、クリエイティブ ディレクターであったポール・ハーヴェイ(Paul Harvey)の退職を機に、エロルソンをチームに招き、両者のパートナーシップからStone Island Shadow Projectが誕生した。「何でも自分たちでできるから、本当に素晴らしい」。エロルソンは言う。「スタイルだけじゃなくて、素材までデザインした唯一のコレクションだ。あのチームは、色々なことや、難しいことや、誰もやろうとしないことに、挑戦する気概がある。『そうだな、ここに3つ工程を足して、どうなるか見てみよう』という感じなんだ。他では絶対期待できないことだよ」
Nikeとのパートナーシップは2013年から続き、双方が成功を収めている。Lunar Force 1や最近のPresto Airなど、共同制作したアイコン的スニーカーは、Nikeにアバンギャルドな雰囲気をもたらし、スニーカー市場の高級メンズウェア セグメントへ参入することができた。もうひとつの共同プロジェクトでは、登山にインスパイアされた究極のアウトドア シューズNike ACG(All Conditions Gear)を復活させた。「Acronymでやるよりずっと多くの人の手の届きやすい形で、自分たちのアイデアを製品としてストリートに出せる。そういう規模の仕事は初めてだった」と、エロルソンはしみじみ語る。「Nikeと一緒に仕事をするのは、ポップ カルチャーと仕事をするのと同じことだ。単に商品やコレクションじゃない。本当に沢山の人の歴史に深く染み込んでるんだよ」

エロルソンがそう言うとき、私たちの目はスタジオにある何百もの靴箱へ向かう。中には、AcronymとNikeがコラボレーションした待望の最新作が入っているのだ。インタビューが終わる頃、太陽は沈み、スタジオのこちら側には影が落ちていた。目の前にあるスニーカーが間もなくなくなるとは、信じがたい。スタジオのほかの部分には、Acronymの昔のコレクションやアクセサリーが飾られている。黒の素材をデザインしたものがほとんどだ。だから、黒色にこだわりがあるのか、尋ねてみる。「父親の話では、僕は10歳の頃、上から下まで黒だけを着てたらしい。Yohji Yamamoto やComme des Garçonsが出てくる前だし、いずれにせよ、そういうブランドのことが耳に入るはずはなかったから、ちょっと奇妙だよね。父曰く、磯崎新の影響なんじゃないかって。磯崎は日本の建築家だけど、僕のまわりには建築の本がたくさんあったから、そのほうが推理としては納得できるよね。でも、後にAcronymを始めたときも、僕たちの生産規模からして、全部の業者が在庫に持っていて、発注できて、そこそこ納得できるのは、黒しかなかった。だから全部黒なんだよ」
ダーク カラーの基調、選び抜いた素材、機能性の重視は変わらないが、近頃のシーズンで、Acronymはパターン メイキングと着た状態での服の動きに焦点を当て始めた。常のとおり、Acyonymは時間をかける。それは、秩序立てて触覚を探究する精神だ。この転換をエロルソンが話題にしたとき、私は彼の空手着を思い出した。いかにそれがファッションに対する知覚を呼び起こし、優れた闘志にならしめたか。「だからこそ、ファッションにはパワーがあるんだ」。エロルソンは言う。「デザインとコミュニケーションとアイデンティティが交差して、ファッションが生まれる。自分は何者か、どう自分を定義するか、世界に対してどう自分を提示するか。ファッションは、そういうことの大きな部分を占める。だから人は絶対にファッションにこだわるんだ。それと、単純に、完璧にフィットするズボンはなかなか見つからないってことさ。ほんと、探すのは大変なんだよ」
スタジオを去る前、最近、誰かから学んだことで自分の世界観に影響したことは何か、尋ねてみた。エロルソンの答えは、娘の成長を見守ること。「あらゆるものを、初めて発見していく。それを見るのは素晴らしいことだし、どんな平凡なものにも魔法が潜んでいることを思い出させてくれるよ」

- 文: Robert Grunenberg
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