ユーザー体験:Comme des Garçons パリ店
川久保玲を細胞レベルで考察する
- 文: Olivia Whittick

私と姉は、もう1年ちかく顔を合わせていない。だから、パリで一緒に数日を過ごすことにした。フォブール通りにあるComme des Garçonsへ行ってみることも、予定に入れた。10歳違いの私と姉は考え方が違うことも多いが、こと川久保玲に関する限り、いつも意見が一致する。


軒を連ねる店舗のウィンドウに挟まれて、落ち着いたゴールドの「Comme des Garçons」を頭上に掲げた控えめな空間が開いている。通路を抜けると、日陰の涼しい中庭へ出る。カフェがあり、人々がコーヒーや炭酸水を飲みながら、静かな午後を過ごしている。さらに進むと、ふたつめの中庭へ通じる。ここに「Comme」に関連した店舗が集まっている。 左にディフュージョン ラインのショップの入口、少し先にトレーディング ミュージアム、右にCDGファミリーのすべてを扱うメイン ラインのストア。3つの独立した店舗がひとつの場所に寄り集まり、なおかつそれぞれに異なる核として機能しているこの中庭は、さしずめ「Comme」のコロニーだ。
メイン ショップに入ると、ホールの壁面は赤色のプラスチック。低い天井といい、体細胞を思わせる色調といい、レトロフューチャーな子宮へ迷い込んだような気分になる。川久保は1969年に立ち上げたブランドの頂点に君臨する偉大な女性家長であり、店舗には「友人」や「家族」の姿がある。Junya Watanabeがいるし、Kei Ninomiyaもいる。そして、Commeから生まれたすべてのディフュージョン ラインたち。女性は一生分の卵子をもって生まれてくるそうだ。つまり、あなたのおばあちゃんのお腹にあなたのママがいたとき、あなたもすでにそこにいたということ。生体内生成というにわかには信じがたいこの現象が、まさしくComme des Garçonsで出現している。Comme des Garçonsというブランドが形作られたとき、将来川久保から生まれ出るものはすでに存在し、誕生を待っていた。川久保はこんな比喩を嫌がるだろうが。

パートナーにめぐり合ったカップルたちのなかで私だけがひとりぼっち、と嘆いたフランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy)の歌の歌詞から、川久保はブランドの名前をとった。何十年も同じパートナーと関係を維持している川久保ではあるが、依存に対する嫌悪を公言し、自分が作る服は夫がどう思おうと気にかけない女性にこそふさわしい、と言い放ったことは有名だ。規範にしたがうことで必ず生じる想像力の欠如こそ、川久保が毛嫌いする理由ではないかと私は思う。誰かのパートナーとして、相手の気に入るように、ジェンダーにふさわしく、年齢にふさわしく装う。そういた体裁を気にする構造や在り方が、川久保にとっては、イライラするほど退屈なのだ。彼女にとって、単なる肉体であることはつまらない、定着した状態にはうんざりする。きっと苦痛でさえあって、その苦痛への反応として彼女の作品が生まれる。それが私の直感だ。
中庭をはさんだトレーディング ミュージアムにはCommeのお気に入りのブランドが集められ、それぞれのアイテムが販売されている。商品を買わせることが目的というよりも、ミュージアム同様、美しいものを愛でることを促す空間だ。レジの横には厳選された出版物があり、 Kanghyukのインスタレーションがある。エアバッグをねじって作ったバラの花で埋め尽くされたビンテージのガラスの陳列ケースは、おそらく、ロンドンのビクトリア&アルバート博物館が東京店に貸し出したのと同じものだ。その向こうのもうひとつのガラスの陳列ケースには、ソーホーの出版流通業者「IDEA」の書籍が並んでいる。『Kanye, Juergen & Kim』があり、ブリアナ・カポッツィ(Brianna Capozzi)の『Well Behaved Women』がある。ピーター・シュレッシンガー(Peter Schlesinger)がGucciの2018年プレフォール コレクションを撮影した『Disturbia』は、ホラーを手がける映画監督ダリオ・アルジェント(Dario Argento)へのオマージュとして捧げた、ハードカバー装丁のルックブックだ(ファッション ピープルにお願い、ダリオをそっとしておいて!)。その他、建築、アート、デザインの書籍。


加えて、Molly Goddard、Craig Green、Kanghyuk、Gosha Rubchinskiyなど、さまざまな新進気鋭のブランドが展示されている。リサイクルしたTシャツを漂白し、遊び心溢れるテキストを書いては製品に変えるLAブランドWaggy TeeのTシャツが、思いがけず故郷を遠く離れ、奥のラックにぶら下がっている。自分の小売りスペースでほかのブランドをプロモートする ─ これは、大多数のブランドがとる行動の対極だ。無私の行為であり、商業と無私無欲はめったに交わることがない。だが、「トレーディング ミュージアム」という命名そのものがすでに、利潤だけを目的としないことを暗示している。ほぼ15年も前に、複数ブランドを扱う小売空間ドーバー ストリート マーケットを立ち上げたCommeにとっては、なんら目新しいコンセプトではない。アートとデザインを讃え、それらの分野で真の貢献を行うという信念のもと、必要なところへ援助を提供する。Commeはそんなビジネスを長年にわたって実践し続けてきた。川久保玲は、独創性を最大限に充たす最高水準の創作を目指す。だから、たとえ競合とみなされる存在であっても、同じ目標へ向かう仲間を歓迎する。

しばらく店舗を行きつ戻りつした後、シーズン中ずっと目を付けていた、ピクセル柄のスカートを試着してみる。重量感があって、しっかりしている。昔に戻ったみたい。最近の商品は、もうこんな風には作られない。古着屋で掘り出し物を見つけたときと同じ、胸の高まりを感じる。手にとってみた洋服が実はハンドメイドだとわかり、不揃いなステッチをためつすがめつする、あの親しみに満ちた懐かしさが湧き起こる。作った人の存在感が漂い、完璧ではないところから優しさが放散される。何に関してであれ、この私が滅多に口にすることのない言葉だけど、お金を払うだけの価値があると感じる。デザインの独創性はもちろんのこと、本当は洋服でさえなくてアート作品だから、かけがえのない価値がある。幾多の高級ブランドが、自分たちの商品には値段にふさわしいオーラがあると信じさせようとするけれど、Comme des Garçonsは、説得力をもつ数少ないブランドのひとつだ。


Comme des Garçonsの服は、世代から世代へと大切な家族から受け継いだお下がりみたいな気がする。そんな感覚は、ほつれた端や未処理のシーム、気まぐれなカットアウトの形で、ブランドのルーツであるグランジゴシックの美学に織り込まれている。でもそれだけではなくて、その存在感、説明できないけど確かに備わっている愛しさにも関連している。オモチャを接着してチェーンを通したネックレスのように、子供時代を思い出す作品もあれば、老いについて思い起こさせる作品もある。風格のあるブラックのスーツはお葬式用みたいだし、カーディガンは私のおばあちゃんが着てたチクチクするバルモラル ニットを連想させる。Comme des Garçonsのデザインは、人生のあらゆる段階を包含するばかりか、器官を彷彿とさせる衣服で肉体を表現することさえある。流動的、瘤のような隆起、血の赤、凝固の黒、頬のバラ色、骨の白さ…。
川久保玲の業績を考えるとき、私は肉体を思う。肉体がそれぞれ独立した個々の要素でありながら、文化や家族やコミュニティーとして集合することを考える。川久保が、ジョン・ウォーターズ(John Waters)からフランク・オーシャン(Frank Ocean)に至るまで、創造性豊かな従兄弟を含めた拡大家族と相性の良い遺伝子を共有する信奉者コミュニティを誕生させたように、川久保のデザインは、肉体の在り方と集合の認識を変えた。それぞれに異なる肉体と異なる不安をもつ私と姉が、川久保の作品に関してひとつに繋がるのも、多分そこだろう。変容し、形状をとおして自分自身との新たな関係を切り拓き、シルエットを作り変えることで一時的に肉体の超越を実現する川久保の能力を、私たちふたりは愛している。


姉は、もう外で待っている。ストアを出るとき、2体のマネキンが目に入る。お揃いのピンクのカーディガン、ホワイトのロング スカート、鮮やかなトレーナーという上品な装いだ。視覚的なイメージとしては可愛いのに、ホラー映画のごとく歪んだ世界へ足を踏み外す瀬戸際の双子に見えなくもない。Comme des Garçonsはそんな不安定なバランスのうえに立ち、両方の世界へまたがっている。常に規範に沿った組み合わせを探りつつ、それを乱し、切り裂き魔のように肉体を崩壊させる。
Olivia WhittickはSSENSEのエディターであり、『Editorial Magazine』のマネージング エディターも務める
- 文: Olivia Whittick