ユーザー体験:Gucci ソーホー店

600ドルのTシャツが買えないなら革命なんていらない!

  • 文: Olivia Whittick

カール・マルクス(Karl Marx)の誕生日の翌日、私はソーホーにあるGucciの新店舗を訪れた。その日はウースター ストリート63番地のオープン初日。前の晩には、そのスペースでリアーナ(Rihanna)も出席したパーティーが行われていた。誰もが携帯を手に構え、シャンパンが銀のトレイに乗って回っている。ひとりの女性が必死になって、これはポップアップなのか、それとも常設の店舗なのかと尋ねているのが聞こえる。この場所を店舗と呼ぶのは変な感じだ。むしろデザイナーズ ホテルのロビーに近いように思える。そしておそらく、Gucci側も店舗とは呼ばれたがっていない。「店舗」という言葉には販売のイメージがつきまとう。そこで、ラグジュアリーの分野では、体験の共有など物質を介在しない交換といった、アーティスティックな価値をほのめかすため、今では店舗の代わりに「スペース」という言葉が用いられるのだ。

この場所は、裕福な占い師の寝室のような雰囲気だ

白一色の、装飾を排したCélineを思わせる入り口を入ると、驚いたことに、昔風の豪華な内装が広がっている。秋のようなオレンジ色のベルベットのシアターチェアが、特に何を観るためというわけでもなく並んでおり、そこに鎮座するマネキンの頭にサテンのスカーフが結ばれている。デッサン用のモデル人形を思い起こさせる木製のマネキンは、真っ赤のマニキュアをしている。あらゆるものに宝石がついている。カバンの置かれた真鍮の棚はオープン ディスプレイで、モノグラムのスーツケースやローファーが並び、各ポーチにはシグネチャのフレグランスがしまい込まれている。まさに「目的地に到着した」という感じだ。どことなく家の中を彷彿とさせる展示が、Gucciのアイテムに囲まれて暮らす生活への想像をかき立てる。私はなんとか批判的な態度でいようと試みるが、気持ちは揺らいでいく。欲しい気がしてくる。

双六で駒を進めるように、私は店内の奥へ奥へとフロアを進んでいく。そして、ここにあるものは、すべて買えるのだということに気づき始める。陶器がある。布張りの椅子がある。キャビネットがある。刺繍をほどこした装飾用クッションがある。壁紙があり、メタリック ブロケード生地やフルーツ柄のフラシ天を使った間仕切りがある。あらゆる物にグログランのリボンで「ご注文承り中」の札がついている。靴は専用の小さなサテンのスツールの上に乗っている。ありとあらゆる場所で、ロープのタッセルが端にぶらさがっている。この場所は、裕福な占い師の寝室のような雰囲気だ。 (私は物質的に豊かな神秘主義者のイメージが好きなのだ。) あるいは、映画『グランド・ブダペスト・ホテル』のセットのようにも感じる。 (映画同様の、奇行が加速する不安感を私は感じている。) この様々に混ざり合った関連性を理解するには、ノエル・ギャラガー(Noel Gallagher)とリアム・ギャラガー(Liam Gallagher)兄弟が互いを許し合い、『グレイ・ガーデンズ』のふたりのイディーに置き換わって、ヘッドラップに宝石をあしらったブローチをつけ、トラック スーツにトレーナー シューズという格好で、昔のアルバムの曲を歌っている様子を想像してみるといい。

ヘリテージ ブランドが、その「ヘリテージ」という言葉の意味する受け継がれてきた富と社会的地位に、真っ向から挑戦しようとしている

この場所では、けばけばしいほどに、豪華さが上塗りされている。富を象徴するものをあえて誇張して見せることで、本来感じるであろう時代錯誤な雰囲気や嫌悪感をうまく消している。Gucciが好むスタイルは、叩き上げ精神を惜しみなく前面に出し、自信に満ちて仰々しく、成金趣味で、高慢だ。もしかすると、これがGucciの言う「DIY」なのかもしれない。入り口に置かれたiPadでトートやスニーカーのアルファベットをカスタマイズできるのだが、AR(拡張現実)を使って自己表現できるのに加えて、Gucciが前面に押し出しているのは、ラグジュアリーであっても手が届きそうな雰囲気、「庶民のための」Gucciのイメージである。このパラドキシカルな経営方針は、ハーレムの伝説的テーラー、ダニエル・デイ(Daniel Day)のような、アーティストやデザイナーたちとのコラボレーションに支えられている。数十年間にわたるいくつかの裁判を経て、ダッパー・ダン(Dapper Dan)は、彼が勝手に名前を使い「即興で」服を作っていた、当ラグジュアリー ブランドのコラボレーション パートナーとなった。ヘリテージ ブランドが、その「ヘリテージ」という言葉の意味する受け継がれてきた富と社会的地位に、真っ向から挑戦しようとしている。そこから何が生まれうるのだろうか。

ウースター ストリート63番地の販売員は、販売員ではなく「コネクター」と呼ばれる。この肩書きは、ある状況においては、それなりの信ぴょう性を持っているのだろうが、私には彼らが私を何に「コネクト」させようとしているのかはわからない。ひとつ明らかに私が「コネクト」したのは、ネコ耳のヘッドホンだ。『Frieze』とのコラボレーションによって制作されたドキュメンタリー シリーズにおける、ウー・ツァン(Wu Tsang)の『INTO A SPACE OF LOVE』の予告編を見るため、私はそれを装着した。映画には、キア・ラベイジャ(Kia LaBeija)やヴィーナスX(Venus X)のようなアイコン的存在が登場するのだが、カイル・ルー(Kyle Luu)のスタイリングで、皮肉にも、というか狙ったように、彼女たちは偽物のモノグラムを纏っている。このシリーズには、ジェレミー・デラー(Jeremy Deller)や、ジョシュ・ブラーバーグ(Josh Blaaberg)、アーサー・ジャファ(Arthur Jafa)なども参加する予定で、どうやら、いずれも今年30周年を記念するUKアシッドハウスのムーブメントの影響についての作品のようだ。このプロジェクトに参加するアーティストの面々は本当に豪華で、そういった、ある種のギャップを、私は受け入れるようになっていた。

私はDapper Danコレクションをいくつか試着してみた。コレクションはこれが初公開で、あと数ヶ月は他の場所では取り扱いがされていないので、ちょっとしたスクープ感があるからだ。服はカッコ良かったが、私には似合わなかった。というのも、私は小粋さを微塵も持ち合わせていないからだ。私が2000年代半ばに持っていた(当然)パチモンのカットアップに瓜二つのカットアップのタンクトップがあったので、試着してみる。今となっては思い出すのも腹立たしいが、当時の私は、あるハウス ミュージックのムーブメントに加わりたくて必死になっていた。これは、誰もが乳首の見えそうな服を着ていた時代の名残だ。脇の下が大きく開いていて、そこから鎖骨と胸骨が露わになる。下に着けたブラも隠せない、服の機能をしていない服だ。これは、クラブのダンスフロアで、パーティー フォトグラフィーの人気が高まり始める頃のデジタル一眼レフの前に立つときに着るための服だ。汗をかくような場所で身につけるのが合っている。あの当時のファッションについて考えると穴があったら入りたい気持ちになるが、そういうものに限って、近い将来またトレンドとして流行るのだろう。

私がカッコいいと思うものがすべて商業化されているのを見て、私の疑念はますます深まる。「もしかして、私はすごくダサいのではないか」

分厚いカーテンで仕切られた試着室を出て、もう一度店内を回る。革命家に扮したモデルたちが拳を突き上げ、抗議声明を掲げてビルを襲撃するビデオが、巨大なスクリーンに映し出されている。その中の一人が燃え上がる新聞を読んでいる。ハッシュタグ、#GucciDansLaRueがタイトルのように浮かび上がる。終。明らかにフランスのヌーヴェルヴァーグの映画へのオマージュなのだが、同時に、1968年の五月革命に対する興味深い意見表明でもある。次はどんな「生きられた経験」が可愛い服に変わるのかを想像しつつ、「5月の第1週なのだから、いいじゃない」と考える人も中にはいるだろう。だが、カッコいいと思うものがすべて商業化されているのを見て、私の疑念はますます深まる。「もしかして、私はすごくダサいのではないか」。何もかもが合わさってぐちゃぐちゃになってしまい、ものごとを文化な方向へ進めるのは不可能になってしまったのだろうか。私はこのGucciのキャンペーンは嫌いだが、ジュエリーを散りばめたライダース ジャケットと無料のシャンパンはすごく好きだ。マルクスの引用を思い出そうとするが、シャンパンのせいで頭がぼーっとしていた。ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむこと…そして流行の先端を行くとは、先端まで手入れを怠らないこと。私の結論は、Gucciは誕生日を祝うのが好きだということだ。これは道理にかなっている。頼まれてもいないのに何かを記念するのは、何も存在しないものについて、人々に何かを想起させる簡単な方法だからだ。死者はそれに対して抗議することもないだろう。

Olivia WhittickはSSENSEのエディターであり、「Editorial Magazine」のマネージング・エディターも務める

  • 文: Olivia Whittick