ファッションの荒野に舞い降りたネオウエスタンの美学
新たなフロンティアの新規性とそのリアルを検証する
- 文: Rina Nkulu

アリゾナの暑さは厳しい。直射日光に当たっていると、まさに蒸し焼き状態だ。観光客用の大量生産されているポストカードでは、「カラッとした暑さ」というキャッチフレーズと一緒に、日光に晒されたおちゃらけた感じの骸骨が、サボテンにもたれかかり、笑っている。その骸骨はカウボーイのように描かれており、大抵、バンダナを巻き、Stetsonsのカウボーイハットを被り、スパーの金具がついたブーツを履いている。時にはソンブレロを被っていることもある。頭上をハゲワシが旋回していることもある。暑さ同様に、砂埃も不可避であり、私は砂が肺にこびりつかないか心配になる。フロンティア神話には、過酷で厳しい現実が伺える風景が必要だが、夏のアリゾナにいると、さもありなんと思えてくるのだった。
カウボーイたちは皆どこに行ったのか? 彼らは、いたるところにいる。アメリカのフロンティアは公式には1890年に「消滅」したが、神話は続いている。南北戦争の制服は、西部地方特有の服装になり、峡谷や渓谷、卓状台地に特有の服装となった。そのうちに、それはポップカルチャーとなり、生まれては消えるトレンドの循環の中で、常に旬のアイテムとしてのポジションを維持してきた。たとえば「フェスティバル ファッション」は、1970年代のヒッピー カウボーイの遊びのためのスタイルだった。仕事用ではなく、コーチェラ バレーでの週末のためだけのファッションだ。
そんなアメリカ南西部のスタイルが、ここのところずっとランウェイに登場している。前シーズンの荒々しい「アウトロー」のモチーフに続き、Vetementsは、2019年春夏コレクションで、カウボーイ ブーツに合わせて、肩パッド入りのプレーリー ドレスを発表した。Étudesのコレクションには、ゆったりとしたペイズリーとフリンジが数多く登場した。Acneは砂のようなアースカラーのアイテムを発表し、『ヴァニティ・フェア』誌の9月号の記事では、コーリアー・ ショア(Collier Schorr)が撮影したミシェル・ウィリアムズ(Michelle Williams)が、Wranglerの服にポーラー タイ、カウボーイ ハットという出で立ちで登場している。
ウエスタンには、常に世界滅亡前を思わせる要素がある。自分を取り巻く埃と静寂、そして虚脱感。そこにはしばしば、歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナー(Frederick Jackson Turner)が1893年に提唱した「フロンティア学説」にあるような、帝国主義特有の楽観が伴う。ターナーを通して、アメリカ西部の先住民の土地は、伝説的な「自由の地」となり、その地を猛烈に追い求めることは、「アメリカの発展」という建国神話になった。西部開拓時代のユニフォームは、奇怪なくらい、アメリカのどこにいても違和感のないユニフォームだ。その服が、ある世界の終焉のためでなかったとしても、別の世界の終わりを意味しているのかもしれない。いずれにせよ、この服ならどんな気候にも対応できる。

昨年9月、フロンティア神話にふさわしい盛大さで、西部劇のカウボーイがランウェイに登場し始めた。ラフ・シモンズが手がける2シーズン目のCalvin Kleinのコレクションは「アメリカン・ホラーとアメリカン・ビューティー」がテーマで、そのショーの説明では、「ハリウッドの映画産業と、それが描くアメリカの悪夢および支配的なアメリカン ドリーム」からインスピレーションを受けているとあった。アメリカ入植者の服装ほど、アメリカン ドリームとアメリカの悪夢にふさわしいものはない。カラーブロックのウエスタン シャツに合わせた鈍い光沢のトラウザーズ、ホワイト デニムに何度も繰り返し黒とピンクでプリントされたウォーホルの電気椅子。それにメキシコ風マリアッチのチャロの衣装にちなんだ、トリムがついた黒のトラウザーズ。
2018年の秋冬コレクションでは、このシンボルが念入りに作り直され、安全反射テープのストライプやニットのバラクラを使った装いになった。ウエスタン シャツは引き続き登場したが、今回はより淡い色で、無菌室のイメージに近く、場合によっては白の手袋が合わせられた。これこそ、ひねりの効いた、世界滅亡にふさわしい装いだ。ほぼすべての気候に適応できる。シフォンのレイヤーを重ねたラッフルドレスと対照的な防護装備の組み合わせは、パラノイア的である同時に繊細で、Vネックと同じように胸部を露わにしている。カウボーイ ブーツは、常にそっと、その尖った先をトラウザーの下から覗かせて、さりげなく、だがはっきりと、シーズンごとの変化にも流されない粘り強さを証明している。ラフ・シモンズは、Calvin Kleinをアメリカ的な永続性と捉えているのだ。その特徴は消えることなく、歴史と伝説の狭間にあるフロンティアに、不気味に潜んでいる。

Pyer Mossでは、2月にケルビー・ジャン・レイモンド(Kerby Jean-Raymond)の手によって、カウボーイたちが、歴史文献から抜け出し、再び世間の前に現れた。2018年の秋コレクションは、歴史上で見過ごされてきた19世紀の黒人カウボーイと、当時最も人気のあった黒人のロデオ パフォーマー、「ダスキー・デーモン(The Dusky Demon)」ことビル・ピケット(Bill Pickett)からインスピレーションを得ており、ジャン・レイモンドは伝統的なウエスタンのコスチュームを、ワークウェア以上に風格あるものへと作り変えた。
そこでは、サテンやパッチを当てたスーツ地、フリンジのついたチャップスが、サイドにプリーツのついたジーンズへと進化しているのが見られた。これらのスタイルは、永続的なフロンティア神話が持つ力を改めて感じさせた。見た瞬間にそれと理解できること、すなわち我々に対しては、認識し頭の中で組み立てる能力が試される。そもそも「都会のカウボーイ」たる黒人は、その「カウボーイ」部分が周囲に認められるより前に、そもそも自分が存在していることを証明しなければならない。それでも、ジャン・レイモンドがPyer Mossを「ストリートウェア」や「アーバンウェア」と呼ぶことに反対するのには、大きな意味があるように思われる。コレクションのタイトルは「俺たちもアメリカ人(American, Also)」であり、Reebokとコラボレーションしたジャンプスーツのパンツ部分には「あなたと同じくらいアメリカ人(AS USA AS U)」とプリントとされている。つまり、これらは、アメリカの歴史の一片を担ってきた「カウボーイ」のウェアそのものなのだ。違うのは、「ロデオ」の要素が付け加わったことで、華麗で凝っていて、何よりも非常に目立つ仕上りになっていることぐらいだろうか。
限定版『Kaleidoscope』誌の2018年春夏号の表紙では、テルファー・クレメンス(Telfar Clemens)が、舗装されていない道路に立っている。彼の下には手書きで、「俺はただのカウボーイではない。俺は牛だ。俺たちは皆、牛なのだ。今のところは(I’m not just a cowboy, I’m a cow. We’re all cows—for now)」と書かれている。この声明は、彼の名を冠したブランドの「君のためだけじゃない、皆のためのもの(Not for you, for everyone)」という同様のスローガンとセットになっている。これは、「無骨な個人主義」が支配的なウエスタンというジャンルに対する、彼なりの解釈の表れなのではないだろうか。「Telfarの王国」は一面雪で覆われている。この雪は、対照的だが、西部開拓時代の砂埃にあたるのだ。この秋コレクションには、フリンジのついたトラックパンツやジャケット、ポンチョのように掛けて着る、袖まで長いスリットの入ったコートなどが登場した。カットアウトのデニムや、太ももまでの直角のレザー パネルをつけたデニムは、よりチャップスを思い起こさせる。何もかもが過剰なくらい、機能的だ。上はキャップがはめ込まれたフーディ、下は、膝下がフレアのスエットパンツになったジーンズで、背中には「CUSTOMER」という文字が背中にプリントされている。これを見ると、ウエスタンの服装がコスチュームであると同時にユニフォームでもあることを思い出す。冒険のロマンは失われた、寄席演芸と嘲笑のワイルド ウェスト ショーの世界である。

西部劇でいちばん目立つ人物は入植者だ。開拓者のカウボーイ、数々の銀幕を飾ってきたスターだ。不安を抱え、切実で、たくましい。これらすべてを同時に持ち合わせた男が、有無を言わせない「明白なる使命」を掲げ、無秩序な世界の秩序を守る。彼は唯一の登場人物というわけではない。ただ、非常に複雑に作り上げられた、このアメリカの建国神話においては、彼が価値観を体現するメインキャラクターであり、最も欠かすことのできない人物なのだ。西部劇が引用されるたびに、私たちは彼の姿を目にする。そしてアメリカが存在する限り、西部劇はなくならない。
当然ながら、この過酷な「最後のフロンティア」は宇宙にまで拡大している。セルジオ・レオーネ(Sergio Leone)の映画に出てくる賞金稼ぎたちは、『カウボーイ ビバップ』の賞金稼ぎになった。トラビス・スコット(Travis Scott)の2015年のアルバム『Rodeo』では、私たちは「ケプラーの太陽系から少し離れた、9光年のところ」にいて、メイソン・ラムジー(Mason Ramsey)は地形すら確認できない、ウォルマートの中でヨーデルを歌う。インターネットもまた、一時は「新たなフロンティア」だった。そしてCalvin Kleinは、プレーリー ドレスに純白の「宇宙飛行士用ブーツ」を組み合わせる。西部開拓時代が世界が滅亡する前の世界だとすると、この終末の装いには必然性がある。そこから「新たなフロンティア」が喚起されるからだ。富裕層がはまるラグジュアリーなサバイバリズムにも、これと似たような感覚がある。彼らは、かつてのフロンティアの雲行きが怪しくなると、また新しいフロンティア、あるいは最後となるかもしれないフロンティアを探し、そこを占領する計画を立てるのだ。西部では、カリフォルニアの夕日に赤く輝く空に、SpaceXのロケットの飛行機雲が伸びていく。
Rina Nkuluはアリゾナ在住のライター兼アーティスト。『Real Life』、『Rookie』などで執筆を行う
- 文: Rina Nkulu