SSENSE旗艦店と極限が放つ魅力

イギリスの著名な建築家デイヴィッド・チッパーフィールドとSSENSEのリテール ディレクターが語り合う

  • インタビュー: Talia Dorsey
  • 写真: Rebecca Storm
  • 写真: Dominik Hodel

5月3日、SSENSEはデイヴィッド・チッパーフィールド アーキテクツ(DCA)の設計による新旗艦店をモントリオールでオープンした。オールド ポート地区の中心に位置する新店舗は、外形と機能の両面で、まさに旧と新の統合だ。

サン シュルピス通り418番地の由緒あるファサードはそのままに残されたが、滑らかなブラックのコンクリートとステンレス スチールで統一されたインテリアは、ミニマルな美学をエレガントかつ個性的に表現している。

ますます進化するSSENSEのオンライン体験とシームレスに相互作用する実店舗でのリテール体験を、5階にわたる全フロアで提供する ― それがこの旗艦店のコンセプトである。希望すれば、オンラインで選んだアイテムがここへ出荷され、スタイリストのアドバイスを受けながら試着ができる。5階にはカフェと厳選された書籍類が並ぶコーナーがある。館内では、インスタレーション、講演、その他のプログラムなど、活発なアクティビティが随時開催されているる。現在は、ミュージシャンのアルカ(Arca)とアーティストのカルロス・サエス(Carlos Sáez)がSSENSE旗艦店のために特別に行なったパフォーマンスの残骸を展示中だ。

DCAは、これ見よがしではない真の美しさを内包する洗練された空間を創造することで知られている。SSENSE旗艦店は、まさにそんなDCAの手法を象徴したと言えるだろう。1985年の設立以来、現在ではロンドン、ベルリン、ミラノ、上海に事務所を構えて国際的に活動するDCAの業績は、ベルリン新博物館の修復など、文化施設の領域で特に高く評価されている。

前夜のオープニング パーティーを終え、新店舗で営業が開始された初日の朝、SSENSEリテール戦略ディレクターのタリア・ドーシー(Talia Dorsey)が、新たな旗艦店と変化する共用空間の意味について、チッパーフィールドと対話した。

タリア・ドーシー(Talia Dorsey)

デイヴィッド・チッパーフィールド(David Chipperfield)

タリア・ドーシー:「どうしてデイヴィッド・チッパーフィールド アーキテクツなのか」と私はよく尋ねられます。今回のプロジェクトの経緯を振り返るにあたり、私がむしろお聞きしたいのは、どうしてSSENSEだったのでしょうか、ということです。このプロジェクトには、どんな魅力があったのでしょうか?

デイヴィッド・チッパーフィールド:バーチャルな組織を物理的に表現することに、私たちは大きな関心を持ったのです。かならずしも物理的な存在を持つ必要のない組織が、どういうわけか、物理的存在を持ちたいと思った。

大手のオンライン企業のあいだでは、物理的なリテールへ向かうトレンドがあるように思います。そういう方向性は誤りでしょうか?

たとえ、ひとりひとりが自分だけの世界の中で生きることができたとしても、人間というものは、最終的にまた集いたいと願い始めるということについて、私はひとりの建築家として、多少なりとも安心感を覚えます。どうして多くの人が、カフェでノートパソコンを開いていると思いますか? 自分の家でそうしようと思えば、いくらでもできるではありませんか。あれは、ますます個別化が進む一方で、直感的かつ本能的に、私たちは集合的な動物だというパラドックスの表れです。しかし当然ながら、人びとが集うことの背景にある社会構造や緊急性や必要性は、以前と現在で必ずしも同じではありません。ですから、私たちは集う場所を新たに作り直すのです。

現在のリテールにはどういう可能性があるのか、どうあるべきなのか…そういうことを考え始めたとき、人が集う場所としてのリテール空間というアイデアは、確かに私たちにもありました。リテールの領域でも大きな業績を残しておられますが、同じようにお考えですか?

リテールは変わりましたからね。初めて手掛けたリテールのプロジェクトは、1983年のIssey Miyakeでした。実際のところ、あれこそアイデンティティとしての店舗の始まりでした。ファッション業界は、それまで、店舗という舞台をブランドに欠かせない一部とは考えていなかった。それを日本のブランドが変えたのです。YohjiComme、特にIssey。私の経験から言うと、洋服を買うという空想的行為にとってリテール環境が重要だという視点を、日本発のブランドがロンドンへ持ち込んだのです。それ以前は、服を買うのは必要性の問題だった。私は1953年の生まれですから、戦争直後のゼロの状態から現在の絶頂期へと消費主義が進化するのを目にしてきました。僕の子供たちが「トレーナーが要る」と言うときは「いや、『要る』んじゃなくて、トレーナーが『欲しい』んだろ。トレーナーならもう持ってるじゃないか」ということです。つまり、私たちにはもう何も必要ではない、という考えにリテールは向き合う必要があるのです。

リテールと消費主義の環境全体が、1950年代から変化し続けています。1950年代には、ぜいたく品を買うのは非常に少数の人々に与えられた特権でした。上流階級は常に不要なぜいたく品を所有していましたが、現在ではあらゆる人が同じことを期待する。娯楽になったんですよ。ショッピングは余暇の一部になったんです。ショッピングと食べること。今どき、蝶々を採集したり、切手を集めるのが余暇の過ごし方です、という人は、なかなかいないですからね(笑)。

社会にとって、単にオブジェが詰まった宝箱以上のものになれることに、美術館は気付いた
ディスクールに価値が認められるのは、実践される場合だけ

では、その観点から、リテール空間を持つことに大きな意味があると思われますか? SSENSEは、消費主義を基盤としたシステムを提供し、構築する企業です。でも、何を消費するか、を自らに問い続けてきました。現在SSENSEが提供する内容には文化的なコンテンツが大きな割合を占めるようになったし、それを物理空間で体現することが大切だと考えたのです。これは昆虫採集への回帰でしょうか?

私が現在仕事を引き受けているクライアントは皆、「私たちは美術館です。しかし、単なる美術館ではありません」というようなことを言います。あるいは「私たちは銀行です。しかし、単なる銀行ではありません」とかね。どのクライアントも、それぞれの中核を成す活動を、もっと緩やかで一般化された活動の中に埋め込もうとしています。なぜなら、銀行へ行く人なんかもういない、そのことを誰もが知っているからです。でも銀行としては、来てもらわなくては困る。だから、ええ、確かにうちは銀行ですが、寛いだりコーヒーを飲んだりできる場所でもあるのですよ、と言わざるを得ないのです。それが説得力をもつのは、非常に難しい。美術館の場合は、ただ人が来てコレクションを鑑賞する場所ではなくて、多様な体験を提供する場になろうとします。美術館という場所をもっと社会性を帯びたものにしようとするし、 そうするためには、多少曖昧で限定されない形で提供せざるを得ない。ひとつには生存本能のなせる業です。入館者数を指標として経営を正当化する必要がありますからね。しかしそれだけではなく、社会の変化を理解しているからでもあります。社会にとって、単にオブジェが詰まった宝箱以上のものになれる、そのことに美術館は気付いたのです。

組織が自らの境界を広げ、問い直して、流動的になりつつあるのですね。では、その境界に関して、建築はどのように応えるのでしょうか? 当然ながら建築は物理的な存在だし、周囲の都市環境もあります。建築にとって、どういう意味合いを持っているのでしょう?

社会のストラクチャーやインフラストラクチャーを決定する責任は公的部門にある、私たちはずっとそう考えてきたと思います。しかし、公的部門が力を失い、手持ちの資源も少なくなるにつれて、民間部門がもっとその責任を負う必要があります。私たちが期待するような形で公的部門が私たちの面倒を見てくれるという、ロマンチックな幻想に頼ることはできません。

最近、ドイツの大企業であるシーメンスの代表から、とても興味深い話を聴く機会がありました。ドイツの憲法の第14条第2項には、所有権は義務を伴う、と明記されているのだそうです。つまり、企業の所有者は社会に対して責任を負うのです。企業は自らのニーズを満たす必要があるが、社会に対しても責任がある。私のように、国が反対の方向へ向かってしまったイギリス国民にしてみたら、衝撃的な考え方です。イギリスの民間部門は、ますます短期思考となり、より多くの金を吸い取ることに注力している。企業が長期的な姿勢で社員や社会への還元に配慮する方向性は、本当に素晴らしいですよ。現代社会と両立できないことではないのです。どうすれば、民間部門がもっと責任を引き受け、社会に向けて何をなしうるか? 対外的に、どのような価値観を持つか? 何を還元できるか? こうした問いかけは、今の世代にそれを実現する機会を与えます。

現在のデイヴィッド・チッパーフィールド アーキテクツの理念は?

有意義な話し合いの機会を与えてくれるプロジェクトに、興味を引かれますね。美術館は難しくないんです。美術館で、右派であろうと左派であろうと、目的意識を持った人を見つけるのは、さほど難しくない。たいていの文化施設と共通の目的を見つけるのは、簡単です。

反対に、投機的な投資プロジェクトの場合は、何をやるにしても難しい。現在都市を変えつつあるプロジェクトの大半は、優良な企業の本社や美術館や図書館や子供たちの学校ではありません。投資のエネルギーを原動力とするタワーや巨大な建物がほとんどです。要は、建物によって、地価を最大限に有効利用するわけです。これは都市づくりにとってはあまりいい方法とは言えません。もちろん、なんらかの経済的な論理なくしてビルを建てる人はいないですけど、経済的な基準が他の基準より重要になったら危険です。

SSENSEのプロジェクトでもっとも有意義だったのは?

バーチャル環境出身のクライアントがもっともエクストリームな物理環境を目指した、そこにとても魅力を感じました。非常にバーチャルなシステムの上に構築された企業が、質の異なる経験を提供するために、こんなに堅固な物理空間に入ったのは、素晴らしいパラドックスです。そこに建築の意味があります。建物を奥行きのある体験に転換することが、建築家に与えられた可能性なのです。昨夜は300人くらいのゲストがみえて、大音量の音楽がかかるなか、皆さんほろ酔い気分で楽しんでおられましたが、この建物の質が何らかの作用を及ぼしたでしょうか? 私としては、物理的なものが雰囲気に作用し、雰囲気が精神に貢献すると信じたいですね。ただし、直線的にではありません。それが建築によってもたらされる経験の質なのです。完全に閉じ込めることなく、人々と連動する。建物の中に集った人たちが、建物の観客になってはいけません。建築がオブジェになってはいけません。建築は背景であるべきです。そこにあることを忘れる、けれど無意識に満ち足りた充足感をもたらす。

今回のプロジェクトでもうひとつ印象的なのは、真剣なコミットメントが示されていることです。単なる表面的な装飾ではありません。建物の中に、このように堅固な建物を作る。これは真摯な取り組みです。それが何らかの形で伝わります。壁をドライウォールにして、その上に金箔を張っても費用は変わらなかったでしょうが、これと同じ静謐な落ち着きは感じられなかったでしょう。これは、SSENSEの姿勢を示す証のようなものです。SSENSEは、単なる必要性を超えて、真剣に取り組んだ。そういうふうに小さな課題を大きな課題へ高めるのは、私にとっては常に喜びです。私たちには世界を変えることはできませんが、もっと身近なものでインスピレーションをもたらすことはできます。それが店舗の仕事だと思いますよ。独自の物理的な存在であることが、プロジェクトを興味深いものにするのです。

ここはまさに、物理的に永続しうる場所ですね。

いつか何かを変えようと思ったら、覚悟しておいたほうがいいですよ。

ファッション業界、それを取り巻くクリエイティブな業界の短期的な性質とは、まったく対照的です。ファッション界では、消費も生産も取り組みも、すべてがとても速いスピードで進行しますから。この場所の永続性とスピーディな業界の関係は、時間を経ても継続すると思いますか? 永続性と一時性の並置は作用し続けるでしょうか?

建築には2通りの見方があります。パーティーでの行動と同じです。パーティーへ行ったら、2通りの過ごし方があるでしょう? ひとつは、居場所を見つけて、その同じ場所にずっと3時間留まる。もうひとつは、会場を動き回る方法です。そして経験則からいえば、同じ場所にいるほうが出会う人の数は多いのです。建築に対するアプローチも、ちょっとそれに似ています。その建築自体が柔軟にさまざまなものに変わる方法と、もうひとつは、ひとつ建築物を作って、その中でどの程度、異なることをやれるかを探る方法です。世の中には、予め使い方を厳密に定めない、素晴らしい建築プロジェクトがたくさんあります。いわば、空っぽの上質な箱だけをいくつか作っておいて、そこを出発点にして、色々な用途に沿って使っていくのです。危険なのは、今の世界では、なかなか誰もそういうプロジェクトの責任を取りたがらないことです。一般的な企業であれば、色々な決断をすべきところで、それができなかったりする。そういった優柔不断が、「つぶしがきく」方向へ向かわせて、結局、確固たるアイデンティティのない、無難な建築に落ち着きます。たくさんの妥協がなされて、「大人の」良識的なソリューションが実践される。しかし、SSENSEのプロジェクトは良識的ではありません。だからこそ面白いのです。

建物自体が思惑を跳ね返してくる、とでも言いましょうか。

このあいだ、実はカフェのスタッフと話していて、もう少しで謝るところでしたよ。こういうスペースで仕事をするのはさぞかし大変だろう、ってね。カフェの営業に必要なあれこれをすべて分析して作られた場所ではありませんからね。それとは逆方向へ進むのです。この場所で仕事をする方法を見つけられるか? 厳粛な霊廟で食べ物を提供することを考えられるか? 祭壇のような場所に食べ物を置けるか? 答えは、それを実践する人の意欲によって左右されます。カフェのスタッフは、そこのところをちゃんと理解していますよ。このスペースはエクストリーム以外の何ものでもない。そこがとても素晴らしいところです。極限とは、明確な理想ですからね。

表現や情報発信が飽和した状態では、選択を少なくする方向性も、とても興味深いものです。拝見したインタビューの中で、「理論は理論、実践は実践」という棲み分けがなされた、いわばディスクール(discourse: 言説)が理論に限定されていた時代から、今は、実践を通じて直接的にディスクールに取り組む時代へ、建築は移行したとおっしゃっていますね。

今は、実践と並行するディスクールや批評がまったくない。残念なことです。そういうものがある場所、あるいはディスクールに価値が認められる場所があるとすれば、それは実践が伴う場合だけです。その点、例えばレム・コールハースはその最たる例です。レムはディスクールを作り出して、そのディスクールを遂行するプロジェクトを作り出す。単に図書館を建設するだけじゃない。図書館の歴史を明らかにし、図書館とは何であるかを説明し、そして実践する。小売店を作るのではありません。リテールとは何かを分析し、リテールの意味を説明し、手品でうさぎを取り出してみせるがごとく、ディスクールにぴったり合致したスペースを出現させる。レムはディスクールの名手ですよ。現代最高の思想家です。建築に関して現代で最高のディスクールを提起する人物が、実践家でもあるのは興味深いことです。25年前には、ありえなかったでしょうね。しかし、もう本物の論評は聞かなくなりましたね。だれも批評を待ち望んだりしない。今や、ディスクールの出所はソーシャル メディアか特定の傾向を持つジャーナリズムで、持ち上げるかこき下ろすか、そのどちらかです。中間がない。私たち建築家は、みずからを批評し、 その批評をもっと上手に伝達する必要があります。

SSENSEのプロジェクトには、批評的な要素が含まれていると思いますか?

ある種の貢献をしているとは思います。建築にできるのは貢献だけです。非常に興味深い貢献ですよ。進歩的な発想から生まれたプロジェクトですからね。従来のどのリテール企業がなしうるより、もっとラディカルです。物理的な観点から言うなら、そういう先進的な思考を独自のエクストリームな形として実現した、非常に面白い例です。両方が組み合わさると、一種の共鳴が生まれるのです。

今後、どうすれば従来のリテールの落とし穴を避けることができるでしょうか?

そうですね、次の店舗は今回と同じようなブラックのコンクリート造りにしてはいけませんね。従来のリテール ブランドは旗艦店をロゴとして位置づけて、アイデンティティの一環として反復します。でも、 SSENSEには、そんなことをする必要はまったくありません。自由です。次の店舗にはベニヤ板を使ったって構わない。背景はまったく違ったものになるでしょうが、精神は同じであるべきです。エクストリームな発想であるべきです。

Talia Dorseyは、SSENSEのリテール戦略ディレクターである。SSENSE入社以前は、戦略的デザインを提案するThe Commons Inc.を設立、またRem Koolhaasの建築事務所OMAのクリエイティブ デザイン部門、AMOで主要な建築家として活躍した

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