ヘレーネ・ヘーゲマン 「アホロートル オーバーキル」
サンダンス映画祭がプレミア上映する、ドイツ作家兼映画監督の最新作
- 文: Bianca Heuser
- 画像提供: 2017 Constantin Film Verleih GmbH/Mathias Bothor, Lina Grün

ヘレーネ・ヘーゲマンはドイツ文学界の「恐るべき子供」である。サンダンス映画祭では、1月20日、弱冠24歳のヘーゲマンが監督した映画「アホロートル オーバーキル」がプレミア上映される。さらに楽しみなのは、これが2010年に出版されたデビュー小説「アホロートル ロードキル」の映画化であるということだ。当時、ヘーゲマンは17歳。母の死を機にベルリンの街やベルリンの夜の世界そして自分自身を探検する16歳のミフティ(Mifti)を描いた不気味な物語は、商業的に大きな成功を収め、高い評価を得た。発売から9か月で12万部を売り上げ、21言語の翻訳権が売却された。その成功は、スキャンダルによって、さらに増幅された。小説が盗作だと非難されたのだ。いくつかの文章は、アイレン(Airen)を名乗る身元不明作家のそれほど知られていない小説「Strobo」から盗用されていた。

インスピレーションの出典が不透明であったことは謝罪したものの、ヘーゲマンは自分のテクニックを弁護した。小説を書いて出版までこぎつける10代はほとんどいないが、ヘーゲマンと同じように、信念を貫ける10代はもっと少ない。ニューヨーク タイムズ紙は、このスキャンダルを報じた際、ヘーゲマンを「使えるもので自分の目的に役に立つと思うものなら何でも使うリミックスこそが自分の真骨頂である主張した作家」と報じた。このスキャンダルが何かを証明したとするなら、それはヘーゲマンが十分に言い返せる10代であったことだ。非難には「どっちにしたって、オリジナリティなんてものはないのよ。要は、本物かどうか」と応酬した。ドイツ国内では、スキャンダルに対するどちらの陣営も荒れた。ヘーゲマンを全く真剣に取り合わない批評家がいた一方で、彼女を批判から守ろうと過保護なまでにやっきになる者もいた。現在、ヘーゲマンは言う。「とにかく、あのバカげたプロジェクトから解放されて、何か他のことをやりたかったわ」
「アホロートル オーバーキル」の発表を間近に控えてのインタビュー。彼女は、自分をとりまく状況の可笑しさを楽しんでいる。7年が経過して、ヘーゲマンは2作目の小説「Jage Zwei Tiger」を出版したが、彼女の名を世に知らしめた出世作と主人公ミフティはいまだに彼女の許を去っていない。むしろ、その存在は大きくなり、共に進化したのだ。そして今、ヘーゲマンはミフティを連れて、ユタ州のパークシティへ向かっている。プレミア上映に先駆けて、ビアンカ・ハウザー(Bianca Heuser)が作家であり監督であるヘーゲマンと語り合った。自作の小説を映画へ脚色すること、恋愛作品が持つ可能性、大衆に向けて若い女性を描く難しさについて。

ビアンカ・ハウザー(Bianca Heuser)
ヘレーネ・ヘーゲマン(Helene Hegemann)
ビアンカ・ハウザー:執筆より映画を作るほうが好きですか?
ヘレーネ・ヘーゲマン:ショートフィルムの「Torpedo」を撮り終わった後は、映画を続けたくなりそうだったわ。でも、比べられないわね。違いは、脚本を書く場合、最後に出来上がる作品に直接の責任がないこと。だから楽しい。コントロールできない部分があるから、それがストレスで嫌だっていう人もいるかもしれないけど、私は好きだわ。映画に対する私の明確なビジョンが、たくさんの人の手を渡ってうちに、全く別のものに変わっていくのよ。それ自体の命を持つようになる。そのプロセスで、私は切り離されていく。私はそれがけっこう好きなの。
自分が書いた小説の映画を監督するというのは、どんな気分ですか?
そんなつもりはなかったのよ。「アホロートル ロードキル」が出たときにそんな話があったら、全然取り合わなかったと思う。でもそれから、自分でもよくわからないけど、なぜか本がベストセラーになって、わりと大きな製作会社が映画権に興味を持つようになったの。別に映画化したいってわけじゃなくて、ライバル会社が手を出せないようにするため。会う人みんなが素晴らしい構想を持っているわけじゃないし、原作者としては、映画権を売ったからって、いつか劇場で上映されるなんて期待はできないわ。大抵の場合、先ず戦略としての行動だから。仮に実際に映画になっても、本の受け取られ方をそのまま反映した映画だったら、大失敗になると分かってた。わりと普通だけどちょっと反抗的な女の子が、最終的には学校に戻る話、ってことになる。そういう誤解が続くのが怖かったから、結局、映画権は誰にも渡さないで、自分で映画を作るべきだって気が付いたの。それから映画を完成させるまでに、6年もかかったわ。
映画のために「アホロートル ロードキル」を書き直す作業はどうでしたか?
意識の流れを書いた実験的な小説を映画として見られるストーリーにするのは、かなり大変だったわ。結局、小説からそのまま使った台詞は2つか3つぐらい。話の基本的な骨組みはあるけど、あまりはっきりしてない。「アホロートル オーバーキル」は、「アホロートル ロードキル」を読むのと同じぐらい曖昧な映画なの。本はなんとなく映画の内側の生活を描いてるし、映画はストーリーを外側から見せてる。
本の核心を映画に置き換えるとき、あなたが話やセリフより感覚を重要視したことは興味深いですね。
そのとおりよ。具体的な感覚。だけど、理論もね。登場人物がどう世界と関係して、登場人物をどう理解すればいいのか。ある意味では、話がもっと具体的になったわ。同じように、世界を観察してそれを描写する16歳の話ではあるけど、観客は、それを彼女の視点ではなくて外側から見る。それと、映画ではラブ ストーリーとしての要素がもっと大きくなっている。

愛は極端な状態
それは面白いわ。「悪くないけど、ラブ ストーリーが要るな」って、映画界の決まり文句ですよね。
すごく役に立つのよ。もちろん、物語を面白く展開するために愛を安売りするなんてバカバカしいんだけど、とにかく助かるの。退屈になり始めたり、流れが良くないって感じたら、最初のアドバイスはいつだって「もっとラブ ストーリーを膨らませよう。もっと感情を掻き立てる必要がある」
もちろん、主人公を知る上でも、ラブ ストーリーはとても大きな助けになりますね。
極端な状況に置かれたときの行動が分かるから。愛は極端な状態だし。
ラブ ストーリーは主人公の愛に対する考えを教えてくれます。主人公が愛という概念にどう向き合って成長してきたのか。それはとりもなおさず、どのように成長してきたか、ということですね。主人公ミフティの両親は異常なほど思いやりがありません。父親が「スターリンはアーティスト」って喚き散らす場面があります。そのせいで、娘が道徳や社会について話そうとしているのに全く気付かない。彼自身が夢中になってる抽象的で理論的な議論じゃなくてね。
そういう状況は、ロマンティックな関係でもっと顕著になると思うの。意地悪するためにわざと相手の言いたいことに気付かない振りをして、ついには大声で罵るしかなくなる。それが、とってもカタルシスになるんだと思う。でもこの映画は、ラブ ストーリーも普通じゃないの。私の16歳の主人公が恋に落ちるのは、盗まれた美術品を扱う46歳の犯罪者。でも、彼女が女性に恋することは、この映画ではそんなに大きなテーマじゃないわ。同性愛者の主人公が、最後は絶望して孤独になったり、少なくとも汚名を着せられてしまう映画がたくさんあるでしょ。もちろんあれは、敵意を持った現実を批判的に描くためではあるけど、それを見る子供たちは「どうしよう、私もああなるかもしれない。そんなの嫌だ! どれだけ立派で良い人間でも、最後にはああなってしまうんだわ」って思ってしまう。恐ろしい映画よ。だから、そういう話は普通に扱うことが大切なの。あるがままに。
そうですね。同性愛の主人公はたいてい悲劇的な存在です。ひとつの表現ではあるけれど、助けにはなりませんね。
その通り。何を表現するかってことね。現実を批判するために現実を描いているのか、それとも理想的な世界を作り出して一度だけ違うストーリーを語ってみせるのか。フェミニスト映画とか、フェミニストということになってる映画にも、これと同じ大きな問題があるわ。「アメリカン ハニー」見た? 素晴らしい監督だし、映画もすごくいい。でもフェミニストの映画としては問題があるの。自分の面倒は自分でみられるクールな女の子たちなのに、けっきょくいつも男にたぶらかされるの。レイプされたり、いろいろと恐ろしい目に遭う。それもこれも、男に服従することと関連してるのよ。もちろん、それを批判的に見せているわけだけど、大きな問題だわ。こういう映画で目にするのはそれだけだし、そういうシーンだけが残るのよ。

現実を批判するために現実を描いているのか、それとも 理想的な世界を作り出して一度だけ違うストーリーを語ってみせるのか
私は、「現実の批判的描写」は女性を嫌悪するものをたまたま作り出してしまった言い訳だと、よく考えます。思考的怠惰でもありますよね。まるで女性の人生が悲劇みたい!
もちろん、何か悲惨なことが自分の身に起こって、その体験を世界と共有するために映画を作る機会があるんだったら、それはそれで当然だし正当なことだわ。でもいくつかの点で、他のタイプの描写ほど政治的な価値はないかもしれない。私はね、もし女の子が、女性が性的に男性を侮辱して男性がシャワーの下で泣き崩れるテレビ映画だけを見たら、きっと世界が変わると思ってるの。もちろん、ガチガチの風刺だから、誰もそんなの作らないけど。…
製作資金を出す人もいないでしょうね。ところで、プレミア上映はいつでしたっけ?
20日。トランプ(Trump)の就任と同じ日よ。バカバカしいわね。就任式が正午で、そのすぐ後、劇場に座ってることになるわ。
抗議するほうがいいのではないかという考えと、アートが持つ破壊の可能性や政治の可能性を信じるという考えがあります。 私はアートの可能性を信じています。
私もよ。
ベルリンとはどう付き合ってますか?
私は14歳のときにベルリンへ来たんだけど、今でも素晴らしいわ。ここではただ生きるってことができるから、すごくいろんなことが可能なの。大したことをしてない、なんて人に腹を立てる人がいるけど、そんなのバカげてる。まさしく、それがベルリンの素晴らしいところなのに。四六時中あくせく働かなくても、ここでは生活していける。何度か経済的に失敗したって、死んじゃうことはないわ。それって、いいことだと思う。同じ程度の規模の都市で、それほどエリート主義が幅を利かせてないのは、私が知っている限りベルリンだけよ。それでも機能していて、いろんなことが起こっている。パリとかロンドンとかニューヨークなんて、身を粉にして働いたって自分のものになるのはガレージの半分程度。運に見放され人や決められた方法で働かない人は、容赦なく排除されてしまう。でも、ここにはまだ中流階級が残ってる。
- 文: Bianca Heuser
- 画像提供: 2017 Constantin Film Verleih GmbH/Mathias Bothor, Lina Grün