カヤ・ウィルキンス、上昇気運にのる

ノルウェー系アメリカ人ミュージシャン、モデル、ヨアキム・トリアーの映画『テルマ(Thelma)』の準主演女優が、通じ合うこと、支配すること、そして内向的であることについて語る

  • 文: Durga Chew-Bose
  • 写真: Kevin Amato

オスロから6キロほど南西の、ギザギザの鮫の歯のような形をした半島の北端に、ネソッドタンゲンの郊外はある。オスロ フィヨルドの湾に突き出した、先の細い岬には、主に水上バスかフェリーで行く。写真に写った穏やかなコバルト色の水は、想像だが、凍てつくように冷たいのだろう。

27歳のノルウェー系アメリカ人のモデルであり、ミュージシャンのカヤ・ウィルキンスは、ここで母親と5人の兄弟と共に育った。オーケイ・カヤ(Okay Kaya)という名で、心をうずかせるソウルフルでムーディーな歌を歌い、PJ ハーヴェイ(PJ Harvey)の横で演奏し、 トバイアス・ジェッソ・Jr(Tobias Jesso JR) とツアーを回り、キング・クルー(King Krule)やサンファ(Sampha)、ザ・エックス・エックス(The xx)などとプロデューサーを同じくする。

水の近くで育ったウィルキンスにとって、活動拠点を選ぶうえで、近くに水辺があることは、外せない条件だ。ニューヨークへ移住して約9年、モデルの道を進んだウィルキンスは、2017年だけでOff-WhiteBalenciagaMarc Jacobsを始め、多数のランウェイを歩いた。そして現在、彼女はグリーンポイントを拠点にして、もっぱら音楽に集中している。「本当にイースト川に飛び込むのは無理でも、ただ近くにあることが絶対に必要なの」と彼女は話す。「これが唯一、私がニューヨークで生き残れるやり方」。そのことに加えて、うまく行かなければ故郷に帰れるという保障があることの重要性を指摘する。「ノルウェーには、人間らしく暮らすための素晴らしい支援制度がある。無料で勉強できるし、健康保険もあるし、そういう類のものが何でもある」と彼女は言う。「私がここで好きなことができているのは、故郷に帰って勉強するっていう完璧な代替プランがあるからよ。逃げられないと感じなくてすむの」。だから夢を見て、チャンスを掴み、意欲的に動けるのだと彼女は付け加える。「クリエイティブなことをやってる友だちのほとんどが、他にも仕事をしてる。私にとって、モデル業はそういう仕事のひとつだと考えているわ」

おだやかな10月の午後、私たちはマンハッタンの人混みをすいすいと通り抜けながら、ハイライン パークを歩いていた。ウィルキンスは、実際には自分がニュージャージーで生まれたこと、生後6週間で母とともにノルウェーに移住したことを話してくれた。父親は「アメリカのどこかにいる」のだそうだ。私がハドソン川の方向を指差す。「おーい、ニュージャージー!」私たちは手を振りながら、本能的に声を上げていた。「私、ジャージー ガールなのよ」と笑いながら言うと、ウィルキンスは大げさにノルウェー訛りの真似を始める。実は、今となってはこの訛りもほとんど消えたのだと彼女は言う。スタッカートの効いた、抑揚のある母国語のイントネーションが消えたのは、「自分でそういう選択をした」からだと。

周囲に対して過剰に敏感だから、世界とも繋がることができる一方で、ダメージも受けやすい

その日の晩、ウィルキンスは初出演した映画の全米プレミアに出席することになっていた。『テルマ(Thelma)』は、『オスロ、8月31日(Oslo August 31st)』や『母の残像(Louder Than Bombs)』で高い評価を得たノルウェーのヨアキム・トリアー(Joachim Trier)監督の作品で、ニューヨーク映画祭の主要候補作品であると同時にオスカーの外国語映画賞ノルウェー代表作品でもある。緑色と灰色がかった薄暗い色調の美しい映像。『テルマ』は従来のジャンルに当てはまらない新しい時代の映画だ。エイリ・ハーボー(Eili Harboe)演じる主人公の若い女性(彼女の名前が映画タイトルにもなっているテルマ)が、田舎にある宗教原理主義の厳格な家族の元を離れ、オスロの大学に通う物語だ。そこで彼女は新たに友達になったアーニャ(この魅惑的で謎めいた女の子をウィルキンスが演じる)と初恋に落ちる。その中でテルマは、初めての自立した人生を前に、感情的かつ身体的に襲ってくる歓喜と動揺と闘っていた。そして、テルマはてんかん発作のような痙攣によって引き起こされる恐ろしい力を持つ、あるいは力に取り憑かれている(どちらでもありえる)ということがわかる。この映画は、言わば、彼女の覚醒を描いたものだが、支配の限界をさらけ出すことの影響と、その限界が人間関係にどう影響し、または台無しにしていまうかについても考えさせられる。通じ合うことと支配すること。このふたつは、会話の中でウィルキンスが繰り返し触れたテーマだ。長い指と指の間にある隙間に、彼女の思い起こそうとするあらゆる言葉や意味が入り込んでいるかのように、彼女は手を動かしながら話した。

『Thelma』、 2017年

「人がトラウマを抑圧しようとしたときに体がどう反応するかを掘り下げているのが、この映画の気に入ってるところ。リアルだし、身体的だから」とウィルキンスは言う。「テルマが自分自身を抑えているときに特殊能力のせいで彼女に起きることと、その後で彼女が自分自身を受けいれる時との違いとか。それは彼女の幸せでもあり、呪いでもあるの。本当にすごいことだわ」

ウィルキンスは、「なんとかステージに立って歌い、映画の中で演技はできる」が、自分は内向的な人間だと表現する。「たいてい、1日8時間は寝室にこもってレコーディング」という彼女は、むしろ孤独、それもアート制作という無人島にいるような孤立した状態に慣れている。だから、初の映画撮影は、彼女にとって、新たに生命を吹き込まれるような経験だった。だが、自分自身が変わることも余儀なくされた。「たくさんの人に囲まれたセットにいて、その上にすごくオープンでいるのは本当に疲れたわ。周囲に対して過剰に敏感だから、世界とも繋がることができる一方で、ダメージも受けやすいの。だから毎日の撮影の後は、たいてい家に帰って寝るだけだった」

目標は、惜しげもなく人と共感できようになること。これが唯一、気持ちが通じあえると感じられる方法

私はウィルキンスに今後も女優を続けたいか尋ねる。「自分の感度や感性や、アート的センスを、色んな媒体を通じて出すのは楽しい。でも、俳優の中には、キャラクターを発見する方法について、色んなツールを持ち合わせてる人がいる」とウィルキンスは彼女の共演者のハーボーについて触れる。「エイリは実践的で、たとえば、スクリーン上で、的確にてんかん発作を表現する方法なんかをリサーチをすることに労力を惜しまないの。彼女はてんかんのセラピーについても勉強した。自分とほとんど関係のないようなキャラクターも作り出すことができる。そんなことどうやったらできるのか、私には全然わからないわ。魔法に見える。俳優って仕事にはたくさんのやり方があって、すべて全く正しいやり方なの。でも私が知ってるやり方は、自分の内面に向き合うことだけ。一度内面を見つめて、そこから得たものを外に出すの」

ガンセボート ストリートの所で私たちはハイライン パークを出て、ウェストサイド ハイウェイに向かってぶらぶら歩く。ハドソン川沿いで、どこか静かで日陰になったところで座れるベンチを探すためだ。ウィルキンスの初のフル アルバムは、レーベル関連の問題と、各楽曲のために作られるビデオの仕上げ作業を除けば、ほぼ完成している。ウィルキンスは、このオーケイ・カヤとしての新作を、自己回復作用が伴うプロジェクトだったと説明する。「このところ、今まで以上に内省的だったわ。目標は、躊躇することなく人と共感できようになること。これが唯一、気持ちが通じあえると感じられる方法だから」と言って、言葉を切る。「悲しみについて本当に話し合うことが、こんなにも珍しいことじゃなかったらいいのにね」

ウィルキンスは、あるビデオのために考えているビジュアル コンセプトについて教えてくれる。彼女はそれをアディナ・ダンシガー(Adinah Dancyger) 監督と一緒に撮影することを計画中だ。「実は、これはトラウマが現実に形をもって実体化したらどういう風に見えるかっていうのを、表現しようと考えてるの。クローンよ。だらんとしたクローンを一緒に引きずって回らないといけないような感じね」と彼女は言う。「ときどき実際にこういう重さみたいなものを引きずり回ってる感覚がしない?何ていうか、お荷物っていうの?」

彼女の音楽は、賛美歌のようで、ゆったりと舞うようで、雰囲気があって、ブリキの電話にレコーディングされたみたいなエコーもかかっている。そして失恋の悲しみのようなテーマを歌う。それは、悪あがきをやめて、流れに身をゆだねる行為のようだ。ある歌は夜明けのようなサウンドで、またある曲は曇り雲のようなサウンド。空港へ向かう道で車の窓から外を見つめているときや、見知らぬ人が集まった部屋に来てしまい、自分の世界に閉じこもることに決めたときに聞こえてくる、もの哀しい音楽。だが不安感はない。優しくて、諦めたようでありながら、かすかな切望と茶目っ気が感じられる。「このアルバムに1曲ノルウェー語で歌った曲があるの」と教えてくれる。「前からずっとノルウェー語の曲を潜り込ませようしてたのよ」。アルバムのタイトルはもうすでに決まっているが、まだ公表できないという。「誰にも言っちゃだめよ」。そう言ってTシャツの腕をまくりあげる。タトゥーの入った彼女の上腕部に小さく掘られた、シンプルで控えめなレタリングの言葉。友人がボールペンで肌にちょっと書いただけのようにも見える。決して消えることはないのに、どこかはかなげだ。言葉でうまく言い表せないような、何か。それがウィルキンスのさりげなくも思慮深いあり方によく合っていた。彼女は頭では深く考えているが、上昇または外に向かうためのアプローチを探している。ある種の軽さ、笑いを。

自分には体があるってことを常に意識させられるのは奇妙な感じ

では、オーケイ・カヤの名前はどこからきているのか。「まあ、いろんな要素が入ってるわね。『オーケイ』って言葉が本当に好きなの」と彼女は言う。「本当にたくさんの意味にとれる。でも当時の私にすれば『ぎりぎりでがんばってる』って意味だったと思う」。その後、彼女が「ときどきやっている」モデル業の話題になったとき、ウィルキンスはそのステージ名について再び話してくれた。「モデルをやっていると、ショーは往々にして、大急ぎで何かして、それから待機という感じなの。準備ができたら、もう本当にみんな準備万端ってこと。みんな『オーケイ、カヤ。さあ、撮影よ!オーケイ、カヤ。さあ、あなたの出番よ!みんなスタンバイ オーケーよ!』って感じ。そして、私はたくさんのフラッシュを浴びる。誰と仕事するかにもよるけど、時にはすごくカッコいい音楽を聴きながら、刺激的な会話をしながら撮るの。そうやって撮った写真はすばらしいわ。心温まるものだから。それから真逆のものもある。そこでは全てが偽物なの。みんな私に向かって第三者みたいに話すの。「彼女にはこれが必要よ…」みたいに。自分には体があるってことを、常に意識させられるのは奇妙な感じよ。それが面白いところでもあるんだけど」

ウィルキンスは少し止まると、両手をじっと見て再び考えを呼び起そうとする。そして笑い出す。「モノとして見られるのもいいなって思う。たまにはね。周りの環境がきちんと整っている場合なら、だけど」。彼女は言う。「体で形を作るのよ。動きで。そういう意味では、ダンサーと同じような心境よ。ほとんどの日は、自分に体があるって感じるのは、歯ぎしりしたり、口が開かなくなったりするからだけど!とにかくすごく敏感なの。他の人は、人に見られないことが悲しいなんて思わないかもしれないけど、私は見たいし、見られたい。だって、そうすることで初めて、私は人と通じ合えるから」

Durga Chew-BoseはSSENSEのシニア エディターであり、最近、初のエッセイ集『Too Much and Not the Mood』をFarrar, Straus and Giroux社から出版した

  • 文: Durga Chew-Bose
  • 写真: Kevin Amato
  • 画像提供: The Orchard
  • スタイリング: Eugenie Dalland
  • ヘア&メイクアップ: Casey Geren / B&A