近東は遍在する

雑誌編集者ミッダ・コレイが描く、イスタンブールのもう一つの顔

  • インタビュー: Zoma Crum-Tesfa
  • 写真: Ali Yavuz Ata

「よく訊かれるの。東洋と全然関係がないのに、どうして近東って名前なの?って」。 マガジン『Near East』のクリエイティブ ディレクター兼編集長のミッダ・コレイ(Mihda Koray)は言う。イスタンブールで出版しているコレイのファッション雑誌は、 2012年の創刊以来、ロンドンやニューヨークや香港といった世界のメガシティの外側に存在する、あらゆるものの位置付けを再考してきた。

モデル着用アイテム: ドレス(Maison Margiela)

『Near East』という誌名自体、相対という枠が課せられている。はるか彼方の端っこにあって、境目になる何か。ふたつの大陸をつなぐ「通路」という歴史を背負った都市で生活していれば、ふさわしいと感じる何か。「イスタンブールはヨーロッパの東の端だと思ってる人もいるわ」。コレイは語る。「でも私にとってはそうじゃない。だって、私はここで生まれたんだもの」。背景や分類と無関係な存在は、しばしばファッション写真のコンセプチュアルな「どこでもない場所」にそっと潜んでいる感覚だ。そんな写真を目にすると、私たちは、場所を知ろうとする欲求を断念せざるを得ない。そして、魅惑されると同時に当惑する。「どこのものかなんて考えない。それが本当の現代性よ」とコレイは言う。

故郷であり『Near East』の本拠地であるイスタンブールを、コレイが写真家のアリ・ヤブズ・アタ(Ali Yavuz Ata)、モデルのテレサ・パチケ(Theresa Patzschke)と共に探索し、その過程をゾーマ・クルム - テスファに語った。

誌名

政治的になるか、筋金入りのアーティストになるか。東洋ではふたつの選択肢しかないの。ただ何かをやるという余地は残されていない。雑誌を作ることは、まさに与えられた現状で何かをやる部類に入るわ。思いつきのポスト インターネット的な目的で、サイエンス フィクションの世界みたいになってるドバイのことを書くわけじゃないの。私にとっては、東洋と西洋の出会いという現実。それはどこでもありえる。「近東」は、常に相対的な感覚を喚起する相対的な言葉よ。

プロセス

私に依頼されたのは、『Near East』に関するこのインタビューに添えるファッション記事を書くこと。マガジン兼アート空間の『Near East』は、独創的で文化的な存在になって、今やブランド化しつつある。ストレートなファッション記事で、私が大切にしてる人間ではない存在を、自分たちのツールを全く持ち合わせていないなかで、どう表現するか。それが課題だった。しかも、舞台となったのは、 はからずもプロジェクトにインスピレーションを与えたけれど、それ自身だけではプロジェクトの精神を体現できない街 。だから、私はとにかく描写を多用する手法を選んだの。

西洋と対比しないで東洋を定義する方法

雑誌やイメージ制作では、西欧文化によって作られた西洋式の思考プロセスが前提となっている。何であれ、私はそんな方法で表現したくないし、自分と他者を相対させるのも嫌だった。私がこの仕事を始めたときの唯一の決まりは、「他者」の不在を受け容れることよ。それは自動的に自分の消滅を意味するわ。

いちばん大事なものを犠牲にすること

いつもとてもDIY的に撮影するトルコの写真家アリ・ヤブズ・アタと私は、まさしく期限切れのツールで撮影することに決めたの。そう、2002年製のデジタル ハッセルブラッド。多分、スティーブン・マイゼル(Steven Meisel)の失敗バージョンか、テクニック不足のコレエ・ショア(Collier Schorr)風になることは分かってたけど、一切皮肉な目で見なければ、それで十分だったから。手間暇かけた保守的な写真であれ、適当に作れる最高に奇妙なポスト インターネットのメタ ナラティブであれ、同じこと。今日存在する、あるいは、一般に認識されている写真の構成要素を差し引いて、現代の若い世代がイメージ制作で使ってるクールで賢くて独創的なトリックのレベルまで削ぎ落として、さらにオートフォーカスのフラッシュ撮影のレベルまで剥ぎ取る。その結果が、私たちの手もとに残ったものよ。

モデル着用アイテム: ドレス(Balmain)

イスタンブール

イスタンブールに対する関心は、私の出身地だからという程度。繋がりは感じない。でもそれは、トルコというより私の問題ね。トルコは旅行すればするほど、興味が湧いてくる。集団として強いアイデンティティ クライシスを共有してて、その感情が文化的な制作を孵化する素晴らしい装置の役目を果たしてる。

自由

今現在のファッションには大きくて「新しい」自由がある、と受け取られてるみたいね。私には、まったく自由には見えないけど。作り出されるイメージ像のせいで、いつも一種の窮屈さを感じる。本当の自由じゃないわ。

モデル着用アイテム: ボディスーツ(Wolford)

ファッションに関しては、いまだにあらゆることが、これまでと同じ方法で、同じ種類の人たちの手で決められてるみたい。唯一違うのは、その人たちの年齢層が下がって、少しばかりクリエイティブで面白いとか、ずれてるってことぐらい。でも結局、今も同じルールが幅を利かしてるの。

トレンド

今じゃしょっちゅう、ランウェイに坊主頭のモデルが登場するわ。誰も彼もスキンヘッドに夢中みたい。この前もある写真家と電話で話してたんだけど、皆が坊主頭になるって、大して自由も肯定性もないと思うわ。2007年は、超商業的できれいな長い髪のモデルが全盛だった。今はタフで坊主頭のモデルばかり。

モデル着用アイテム: Wolford dressグローブ(Maison Margiela)

テレサ

私が撮影したテレサは、次の号の表紙を飾るの。以前 SSENSEにも書いてるわ。初めて見かけたのは、アン・イムホフ(Anne Imhof)がベネチアでやったパフォーマンスの会場。あそこに行った時、最初に目に入ったのが、パビリオンの屋根に立ってるテレサだった。かなり離れてたけど、テレサを見たとき「あの人と何か一緒にやらなきゃ」と思ったの。そしてそれを実現させたわけ。

ファッション トライブ

同じ人と繰り返し撮影をすることによって、1度とか時々しか一緒に仕事をしたことのない人との時にはない、また違う結果が生まれる。私は必ずしもトライブ主義じゃないけど、一緒に仕事をする人と、共有できる立ち位置や言語を築くのは大切よ。いい写真をたった数枚撮るのに、制作妨害(あえて業界のしがらみとは言わないけど)のような卑劣な行為や要因が多すぎるわ。

自立

外部の力や広告に頼らない、美しくて賢明な雑誌。それが私の目標だけど、そんなものは滅多にないし、作るのにもお金がかかる。ファッション業界のしがらみにかかずらう余裕はないの。ただできる限り最高の視覚イメージを作ろうとしている 。既存の正しい選択肢の中から予定調和なアイデアを実現するだけじゃ、伝達できるはずのものも、どこかで多くが失われてしまう。何かにつけて私たちが思い起こす視覚イメージは、そんな方法で作られたとは思わない。

現在のバロック文化人気

物事から余分なものを削ぎ落として、いわゆる「真実」を探そうとする文化のせいで、実質的に「批判されようのない」やり方でしか、ものを創作できなくなっている。安全圏からはずれない、っていう一種の伝染病だわ。もしこれが、ネオバロックの段階へと向かう限定的な兆候か先駆けだったら、かなり面白い。もしそうじゃないなら、私たちは新たな、かなり偽装された保守主義の中で身動きが取れなくなるわ。

  • インタビュー: Zoma Crum-Tesfa
  • 写真: Ali Yavuz Ata
  • アート ディレクション: Mihda Koray Chiasera
  • スタイリング: Mihda Koray Chiasera
  • セット デザイン: Onur Eraybar
  • メイクアップ: Ceren Eröz
  • モデル: Teresa / Tomorrow Is Another Day