オーバーサイズに潜む衝動を分析する

オーバーサイズが示唆する現代人の内実

  • 文: Adam Wray
  • 写真: Rebecca Storm

仮にファッションは前進するものだとしても、進む道は直線ではない。狂ったように曲がりくねり、円を描いて後戻りしつつ、 運が良ければ、その過程で正真正銘の新しい何かが出現する。10年以上にわたって収縮包装のごときスキニー ジーンズの支配が続いた現在、デザインの流れはビッグに向かいつつある。容積は倍増し、袖は伸び、フードは膨張し、トラウザーズは足首でたるみつつある。メンズ、ウィメンズを問わず、巨大なシルエットが優勢に立ち始めている。衣服を隔ててきた性別の境界にはますます穴が穿たれ、その結果、私たちが衣服によって身体を形作る方法は、同質化の度を増している。4フィートにも及ぶ袖がランウェイに登場するとき、デザイナーは一体何に反応しているのか、何を掴もうとしているのか。過剰なファブリックで身体を覆い隠そうとする衝動は、私たち自身の何を指しているのか。

保護

衣服が増大するにつれ、身体は衣服の内部で縮小し、外部に露出する部分は減少する。手は、非言語的な表現がもっとも豊かな身体部分である。手は、手振りや装飾によって能動的にコミュニケートし、色や痕跡によって受動的にコミュニケートする。傷跡は物語を語り、噛んだ爪は習慣を教える。したがって、手を隠すことは、情報を伏せることに他ならない。そして、誰にでも、秘密を守る理由がある。自己を防衛するための秘匿もあるだろう。身の危険を招きうる場所で、男性がマニキュアした手を隠すように。どこへ行っても監視下に置かれる現代で、多少のプライバシーを求めたとして、果たして咎められるだろうか。

拒絶

手は、伝達だけでなく、仕事にも使う。洞窟のようなフーディへの引きこもりは、衣服とその着用者が表明する、労働への不機嫌でパンクな反発である。労働への不可用性を明示するステートメントである。目が隠れるほどにフードがかぶさり、手が隠れるほどに袖が長ければ、社交上の礼儀も制限される。視線を合わせることも、握手を交わすことも、難しい。Vetementsが展開してきたような90年代スタイルの基準は、たるみを増したコスプレによって、反社会的なポーズを提案する。ドレスアップせよ、ログオフせよ、ドロップアウトせよ。

抑止—表現

Raf Simonsの巨大なセーターは、アクセルを底まで吹かしてオーバーサイズへ驀進し、非論理的な結論に到達した。不条理の域まで拡大された衣服は、どんな人にも合うフリーサイズであると同じく、どんな人にも合わないフリーサイズである。コンセプトとしては、正式な「冗談」の演習であり、「適正なフィット」という考え自体の再考と位置付けることもできるだろう。しかし、実用に関する限り、結果は単純明快である。これほど巨大にデザインされた衣服は、着用者を小さく感じさせる。両親の古いセーターを着た記憶を呼び起こす。それは、心休まる幼少期への回帰であり、不確定性からの短命な救済である。

幻想

食物連鎖の頂点に鎮座しているのでない限り、回避行動は必須である。多くの生物は、実際より大きく見せる方法で、捕食者から身を守る。これは、記録された最古の策術のひとつである。人間の場合、少なくとも時間と資金と努力の三拍子が揃わなくては、肉体を変えることは叶わないが、衣服を変えることはできる。衣服によって小さく感じることができるように、大きく見せることもできる。盛り上がった肩は堂々たる胸部を形成し、波打つトラウザーズは脚を柱に帰る。そして、ファブリックは人口の自信装具となる。

調和

1919年、イタリアのアーティスト兼デザイナーであったタヤート(Thayaht)は、一切の衣類をトゥータ(TuTa)と名付けた特徴も形もないジャンプスーツに統一しようと、大規模な改革を提案した。誰もが自分のトゥータを作れるように、彼はイタリアのラ・ナツィオーネ新聞に型紙を掲載した。未来主義者であったタヤートの意図は、私たちの身体の効率と機能を向上させることにあった。トゥータは、大多数の ユートピア建設思想に登場する、安定した同一性を象徴している。ユートピアを構想する者は、より良い世界を思い描き、それに見合ったモチーフと素材を選ぶ。例えば、ル・コルビュジエ(Le Corbusier)の輝ける都市。彼が想像した理想のメトロポリスは、同一の高層建築と緑地帯が碁盤上に配置される都市であった。スタートレックに描かれた先進社会では、身体にフィットするカラーブロックの衣服がユニフォームだ。アップルストアの荒涼たるミニマリズムでさえ、標準化によって到達する完璧を暗示している。タヤートの提案は、部分的に産業化された世界の遺物である。現在、私たちの大多数にとっては、型紙の有無にかかわらず、衣類を一から作るなど、到底無理だ。したがって、例えば、コスト効率の高い消費者用3Dプリントのような衣類製造テクノロジーの飛躍的発明を想定から除外するなら、DIYによる世界規模のユニフォームはありえない。大量生産に依存するしか、選択肢はない。とすると、性別を超え、身体の多数性に適する衣服は、大きくならざるをえない。フリーサイズは、必然的に、オーバーサイズに繋がる。全体的な美徳によって、私たちは個性と引き換えに快適と平穏を手にする。少なくとも、考え方としては。

  • 文: Adam Wray
  • 写真: Rebecca Storm